「操行ゼロ」(ジャン・ヴィゴ監督) 1933
こちらの方をあとから見たのですが、「アタラント号」が良かったので、同じ監督のを中古品のDVDが安く出ていたので取り寄せて見ました。
これは「アタラント号」とはずいぶんタッチの違う作品でした。フランスの中学校でしょうか、厳格な寮生活の規律や学校の規則規律に対して抵抗し、やがて反乱にいたる、昔よく言われたアンファン・テリブル、恐るべき子供たちを描いた作品で、映画づくりのいわば「文体」のほうも、「アタラント号」のように静謐で優しいタッチのものから、冒頭の音楽からはじまって、いささか騒々しく、粗っぽいタッチになっています。
生徒たちが屋根の上に上がって、下で学校の記念式典か何かをやっている偉いさんたちを見下ろす位置から、何かものを投げたりして攻撃しているシーンなど見ると、すぐ連想したのは、封切のときにロンドンで見た「if」の同じように主人公の学生たちが屋根に上がって、下で説得に出てきた神父を撃ち抜くシーンでした。もちろん「if」のほうはイギリスのパブリックスクールの話で、もう少し子供たちの年齢が上で、ハイティーンくらいだったような気がしますし、「操行ゼロ」よりずっとシリアスな視線で作られていて、時が時だけにもちろん日本の大学闘争やパリの五月革命と言われたような学生の反乱とじかに結び付くような印象がありましたが・・・
たぶんジャン・ヴィゴの描くこの子供たちの反乱の光景は、日本の学級崩壊の光景に一番よく似ているかもしれません。もちろん学級崩壊ではみ出ていく子供たちはこの映画の子供たちのように自分たちのエネルギーで敵である大人たちへの反乱を起こすことはできないでしょうが、みかけは学級崩壊でいままさに崩れていく教室の光景に酷似しているような気がします。
このヴィゴの作品は「大人は分かってくれない」や「if」のような作品にも影響を与えたのかもしれませんが、そういう評論家的な映画史への関心はないので、どれもこの映画はこの映画として見るだけで、かりに自分が感心したあるシーンが、誰かに、それは誰某がとっくにやった方法の模倣だよ、とかそれは誰某監督へのオマージュだよ、なんてとくとくと指摘したとしても、私にはどうでもいい無用の蘊蓄にすぎず、そのシーンが今見ている作品にとって意味のある生きたシーンだったら、どこの誰に源流があろうと本当はどうでもいいことです。
逆に、その源流となった作品が、その時代にどんなに新鮮に思われ、後の誰某に影響を与えたとしても、今その作品をみて面白いとか心動かされるとか、そのシーンが生きていると感じられなければ、そんなものは現在の観客であるわたし(たち)にとって意味のないものだと思います。歴史的な発明とそれを生み出す努力に敬意を払うことは大切だとは思いますが、現在生み出される作品のうちにそういう過去ばかり探したがるのは蘊蓄の好きなインテリの悪い癖で、目の前の作品に過去の作品への言及がありオマージュがあること自体がその作品の価値をあげることはいささかもないのに、そういうものを指摘しては喜んで持ち上げているような映画評論家というのは、結局そういう蘊蓄ある自分を見てくれ、見てくれ、と言っているだけのように思えて鼻もちがならないものです。
閑話休題(笑)。この「操行ゼロ」は「if」のようなシリアスでクールなタッチではなく、もっとずっと粗っぽく、と言って悪ければ楽しそうに、子供たちのいたずら、乱痴気騒ぎを楽しみ、一緒になって煽り、盛り立てる、温かくてユーモラスなタッチで子供たちの反乱が描かれています。
それを映像として一番よくあらわしているように感じたのは、寮の共同寝室での数度にわたる子供たちの乱痴気騒ぎで、とくにあとのほうの枕投げをしあって、枕が裂けて飛び出したらしい羽毛が部屋中に舞い上がって浮遊する中を、子供たちが髑髏の旗を押し立てて行進してくる場面です。ここは乱痴気騒ぎが極まって結果的にほとんど美しいと言っていい光景を創り出し、感動的でさえあります。
いまネットで調べてみると、あの学校はコレージュ、公立中等教育機関なのだそうです。冒頭は、夏休みが終わって帰省先から寮へ戻ってくる生徒が列車内で悪ふざけをしているシーンから始まっています。「アタラント」号のトリックスター君もやっていたような手品をやったりして友達と次々色んな小道具を繰り出して芸を競うようなことをやってみせたり、禁煙車両なのに煙草をふかして煙で充満させたり。同じ車両で眠っていて煙で死んだんじゃないかと子供たちがささやいていた男が新任の教員で、あとでわかるのは彼だけが生徒たちのいたずらに寛容でどちらかといえば味方らしい。それ以外の大人たち、寮長(舎監)、校長、教師(太ったちょっと男色趣味らしい男など)はみな規律の鬼で生徒たちの敵。生徒らは古臭い校舎、二列にずらっと並べられた一望監視の監獄空間のような共同寝室に閉じ込められ、与えられる食事は「豆ばかり」とか。窮屈な規則・規律を強いられていて、少しでも違反すると「操行ゼロ!」を言い渡されます。
タイトルのこの「操行ゼロ」は、学校の規律・規範を破った時に科せられる、日曜日の外出禁止という罰で、生徒たちに科せられる罰としては重いものだそうです。
とても温かくて、ユーモラスな作品だと思いますが、これがフランス政府から上映禁止の憂き目に遭ったというのですから、どこの国でも共同規範に抗う行為を賛美するかのようにみえる表現には過敏なんだなぁと思います。
さきほどから粗っぽいタッチとか、乱痴気騒ぎと書きましたが、この映画はいわゆるリアリズムの映画ではありません。子供たちの乱痴気騒ぎにもラストの反乱の描き方にも、映像の様式性というのが感じられます。先に挙げた羽毛が寝室中に広がってとびかうシーンも、あそこまではいかんだろうとか、子供たちの行進がスローモーションでとらえられていたり、共同寝室で子供らがいったん寝たふりをしてまた起き出し、寮長をベッドに縛り付けてベッドごと立ててしまうようなところも、リアリズムで行けば、こんなやり方をすれば寮長がすぐ起きて来てとがめるだろう、とか、拘束した寮長をこんなふうにベッドごと立ててしまうなんてありえないじゃん、とかいっぱい半畳を入れたくなるようなシーンがあります。それはこの映画の抽象度が要求する様式的なありようなのだと思います。
ラストも屋根の上でみな後ろ向きの姿で並んだ子供たち4人が手を振るシーンで終わっています。
教師たちのキャラクター設定やその動きなどにも或る意味の様式化が顕著です。とくに生徒に寛容な新任男性教師のほとんどパントマイム的な演技など。
もうひとつオッと意表を突かれたのは、何だったか描かれたイラストみたいなのが一瞬アニメで動くシーンもありました。スマホやパッドの画面をとらえているわけじゃないので(笑)リアリズムならありえない、ちょっとしたいたずらです。多分映画の技術に詳しい映画好きが見れば、他にもいろいろと当時としては新しい実験的な試みがあるのかもしれません。
そういうのは映画史の中では次代にひきつがれていったのかもしれませんが、いま見ればたぶんこれがそうだ、といろいろ指摘されてもふーん、と思うだけで、そのことに作品として見た時に心を動かされる要素かと言えば、ほとんどはむしろかえってそういう部分が古臭いものにみえるような気がします。
心に残るのはむしろ子供たちの乱痴気騒ぎ、あの暴発するエネルギーの生み出す羽毛の散乱する空間であったり、てんでに沸き立ちながら旗を押し立てて行進する子供たちの姿、そこに感じられるある種の強度ではないでしょうか。
Blog 2018-9-26