『誰よりも美しい妻』(井上荒野)
『切羽へ』の作家を読むのは、「切羽へ」と、エッセイ集と短編集『夜を着る』に次いで4冊目です。
どれを読んでも面白くて期待を裏切られません。たぶん今後もそうでしょう。そう言い切れるだけの安定感と、舌を巻くほか無いほどの手練れぶりがいたるところで見られ、小説を読む楽しさを堪能させてくれます。
それにしてもコワイ小説ですねぇ。こういうのを読んで震え上がらない男性がいるでしょうか?(笑)
ただし、三十代以降、六十代までの男性?(六十代まで加えたのは、私のミエかも・・笑)
妻を騙しおおせているつもりの浮気なヴァイオリニストの夫も、この美しくて慧眼な妻の掌でチョロチョロ泳がせてもらっている幼児のようにみえます。少なくとも当面は。
ここには疑惑にとらわれて夫の行動をひそかに調べたり、かまをかけたり、厭味を言う妻もいなければ、嫉妬に駆られて夫や愛人に激情をぶつける妻もいません。
また復讐のためであれ、心の空白を満たすためであれ、自分も浮気して見返してやれ、という妻もいません。かといって、夫に心を閉ざし、凍りついてしまうのでもないし、もともと「愛情が無い」わけでもありません。「まったく私は、惣介を愛さずにはいられない」(P81)のです。
私が夫を愛することをやめたら、夫は廃人のようになってしまうだろう。少なくとも、ヴァイオリンは弾き続けられないだろう。それは、それほど夫が私を愛しているからではない。私が夫を愛しているからだ。私が自分を愛し続けることを、惣介は信じているからだ。宗教のように。
この「美しい妻」の反応は、夫に裏切られる妻を描く、これまでのどんな(夫の)不倫小説に登場する妻の反応とも違って見えます。でも、読んでいると、この女性が特異な女性には思えません。むしろいままで私たちが読んできたパターン化された男女のありようが、ひどく単純化された嘘っぽいものだったように思えてくるから不思議です。
男は終わると冷淡になる、とはよく聞くことだが、惣介も例外ではなくて、しかもそれを隠そうとしない。でも、そんなふうに振舞われることが、園子はいやではない。面川遥とか、それ以前の多くの恋人たちと寝たあとは、たぶん惣介は冷淡だと思われないように、幾許かの演技を---へたくそで、すぐばれるような演技を---するのだろう、と考える。すると何か、微かな優越感を覚えさえするのだ。
ずいぶん屈折した愛情というか、妻の夫に対する所有感覚?のようだけれど、この「美しい妻」の、このような感じ方、夫の受け止め方というのはディテールまで一貫していて、ウブな私などは自分がいかに女性というのをまったく知らないかを思い知らされ、「ははぁ・・・」と感心するばかり(笑)。
もちろん、こういう女性はいかにすべてお見通しの慧眼をもち、「神様」のように「人の運命をつかさどる」ような存在であったとしても、通俗的なフェミニストに言わせれば、結果的には男にとって都合のいい女性だ、といわれるのでしょう。
実際、惣介は釈迦の掌の上で遊ぶテンネンの幼児性でもって、やりたい放題、面川遥への残酷さ、友人に代わって抗議に来た十和子を遥に代えて愛人にしてしまうしたたかさです。
でも、そんなことはどうでもよろしい。男も女もそう単純じゃない、ってことがこの作品を読めばよほど教条的な人でないかぎり分かるはずですから。 惣介と園子の息子・深の視点で描かれる部分もなかなか面白い。
岩崎みく、と深は思う。
彼女のことを考えているのだが、やっぱりヴァイオリンを弾きたいような気もした。二つの気分は、よく似ているのだ。
ふと思いが、母に飛んだ。母は女で、岩崎みくも女だ、とふいに気がついた。
そうか、と深は思う。それはなんだか納得がいくことだ。
深の隠語「海」と「山」も思わず笑ってしまう。
また、惣介の前妻で、かつては嫉妬の激情を園子にぶつけたこともあるが、いまでは園子と「あのバカ男」惣介のことを話す相手である緒方みちるの視点。
みちるから惣介を易々と攫っていった、腹立たしく美しい女のことを、みちるは今はもう恨んではいなかった。むしろ今は園子のことを、生贄みたいに思っている。
ただ奇妙なのは---それは不眠の原因の一つ、深酒の誘因の一つでもあるのだが---園子は生贄それ自体のように見えるけれど、その生贄を惣介に捧げたのも、園子本人みたいに思えることだった。
そのみちるが小説のラストシーン近くで、(惣介の友人で惣介の浮気も知っていて園子に近づいていた広渡が園子から去っていった直後に)園子に、もう会いに来ないで、と電話をかけてくる。電話もだめ、手紙もいらない、と。いわば自分の虚構を共犯者のように共有して自分の日常を支えてくれていた二人を失った園子の描写。
受話器を置いた電話の前で、園子はじっと身を固くしながら、降り積もった埃に似た淋しさが体の中で舞い上がり、何かべつのものに形を変えて、再び体の底に降り積もるのを待った。
こういう一行に出逢うと参ってしまう。昔、三島由紀夫の「春の雪」が出たとき、その中のほんの一行、合歓の葉が閉じるように膝を閉じた、というようなところにしきりに感心していたら、友人の一人が怪訝な顔をして、そういう感心の仕方はおまえだけだよ、と言われて、そんなもんかな、と思ったけれど、この作品についてもこういうところを取り上げて、うまいよなぁ、と感心していると、同じことを言われるでしょうか。
作品のラストを読むと益々コワイ小説だなぁと思います。
誰にも言っていないし、ぜったいに言えない、と思っていることがあった。広渡にも、みちるにも、勿論惣介にも、それに今この瞬間まで、自分自身にも、あきらかにできなかったこと。
・・・どうです?気になるでしょう?それがどんなことかは、もちろんこの作品を最後までお読みになればわかります。ぜひどうぞ、お薦めの一冊。
blog 2008年08月27日