キム・ギドク監督「絶対の愛」
原題は「Time」(時間)だそうです。でもこの原題にも邦題にも拘泥する必要はないでしょう。
映画は、整形手術の生々しい映像から始まります。禅問答で人間は糞袋だと喝破するような話を聴いたことがありますが、生物学的にもいくつか穴の開いた袋みたいなものであることは確かでしょう。その袋の表面はつるんとしていくつか凹凸があって、見慣れた景色でもあるから、われわれはその美醜を細かく気にしたりしていますが、一旦少しでも裏をめくってみると、赤剥けた色のヌメヌメ濡れて光る不定形の生き物みたいに気色悪い裏地が覗くといった具合で、正視するに堪えないような手術の実況生放送という印象になります。まぁこの監督らしい、最初に一発かましておく、といった映像ですね。
もう一つ冒頭に後で効いてくる印象的な場面があります。それはこの美容整形外科のビフォア・アフターの女性の顔面が開くドアの両方に描かれた玄関を出てきたサングラスにマスクの深紅のワンピースが印象的な女性に、通りを急ぎ足で来た若い女性がぶつかり、サングラスの女性が手にしていた硝子額縁入りの自分の「前の」顔写真を落として壊してしまい、ぶつかった女性は私が直しますから、と詫びてその写真と毀れた額を持ったまま、彼氏の待つ喫茶店へ急ぐ、というシーンです。その写真を見た彼氏は、くたびれた顔だなぁ、というような感想を言います。たしかに髪は乱れ、表情は疲れ果てた女の表情です。
さてその喫茶店で向かい合うのは、愛し合っている一組の男女、ジウ(ハ・ジョンウ)とセヒ(パク・チヨン)です。女性のほう、セヒは嫉妬深く、ジウが自分に飽いてしまうのではないかと強い不安にさいなまれていて、ジウがちょっとほかの女の子に目をやったとか、親切にしたなど些細なことに目くじらをたてて喫茶店の衆目環視の中で激しくなじります。その後も同衾しながら女の不安を増幅させるような状況が描かれます。
そんな状況設定を呑み込ませたところで、このセヒという女性が原題に言う「Time」の腐蝕作用でジウが自分に飽いて愛を失うのではないかという不安を募らせ、邦題に言う「絶対の愛」を獲得するために整形しようと思い立つ、という展開です。ここで愛の問題を顔に集約することで、誰かを愛するとはどういうことか、その誰かというときのアイデンティティは何によって保証されるのか、という一種哲学的な問いが自然に生まれてきます。
この作品で重要な役割を果たす美容整形は、そういう問いかけを生む道具で、別段美容整形の是非が問題にされているわけではありません。日本に比べて韓国では比較的美容整形への心理的抵抗は少ないのだそうで、社会的な広がりを見せているようです。
ジウには何も告げずにセヒが姿を消し、ジウはほかの女性と戯れ、やがてセヒと冒頭で向き合っていたいきつけの喫茶店の新顔ウェイトレスのスェヒ(ソン・ヒョナ)に惹かれて、深い関係に進みます。実はこのスェヒがセヒの整形後の顔で、スェヒの内面であるセヒはジウがスェヒに惹かれるにつれ、スェヒに、つまりは現在の自分に激しく嫉妬すると同時に、なお姿を消したセヒに心を残すジウが、実は過去の自分を愛していて、現在の自分つまりスェヒを愛してはいないのではないか、という疑念に苦しむことになります。
それは変わらない内面としてのセヒに自分のアイデンティティを感じるか、現在のこの外貌をもつスェヒに自分のアイデンティティを感じるかで、嫉妬する自分と嫉妬の対象とが必然的に入れ替わるわけですから、いわばジウを鏡として自己愛が分裂した状態だから、自己言及のパラドックスみたいな出口のない状況に陥るのは当然です。
ジウはまだセヒがどこかにいて自分の所へ戻ってくると考えているから、その愛はリアリティを保ったままです。スェヒはその愛に嫉妬しているわけで、そのままで、もしセヒの自分への愛が本物でなければ当然スェヒとしての自分は捨てられるわけで、もう自分はセヒに戻れないことはスェヒには当然わかっているわけですから、スェヒとしての自分を彼が愛しているかどうかが決定的に重要になります。
それで彼女は、監督がよく引用する新約の言葉で言えば、「汝の神を試むべからず」の戒律に反してジウの愛を試そうとして、「もしセヒが戻ってきたら、セヒをとるのか私をとるのか」と迫り、セヒの名でジウを呼び出します。セヒが戻ってきた、と信じるジウは、セヒが戻ってきたと正直にスェヒに告げ、スェヒに別れを切り出します。このへん、常識的には、スェヒでなくても、それはないやろ!と半畳入れたくなるところです。
恐れていた事態に直面したスェヒは、セヒの仮面をつけて、セヒに会うために喫茶店へやってきたジウに、自分がセヒであることを、そのことによって明かします。ここでノルシュテイン監督の「話の話」の雪の林で樹上の烏と戯れる少年と樹下でそれを見上げる少年が、父親がウォッカの瓶を叩き割って立ち上がった瞬間、樹上から落下して樹下の少年と一つになるように、ジウの中でセヒとスェヒが一つになってくれればセヒ≒スェヒの自己愛の分裂は回避され、彼女はアイデンティティを回復できたかもしれませんが、ジウが一貫して愛したのは永遠に失われたセヒ。逆の言い方をすれば、ジウはセヒへの愛を一貫することで、自己分裂を回避しているわけです。
ジウはなぜそんなことを!とセヒのしたことを非難し、セヒの仮面をつけたスェヒを拒みます。ところがその後の展開は、われわれ観客の大方の予想できないもので、今度はジウのほうがセヒが整形した病院で手術を受けます。スェヒが医者を問いただすと、6か月後には彼が新しい顔になって戻ってくるだろうから待ちなさいと言う。
待っている間にスェヒの不安と焦慮は益々募り、サングラスにマスクの男を見るとジウではないかと思い、また6カ月が近づくにつれて、喫茶店を訪れる若い男たちがみなジウの新しい顔に見えて来る。手を握ってその感触を確かめては、ジウではないかと思い、誘惑かと誤解されて危ない目にも会うけれど、間一髪で救われる。助けてくれたのはどうやらいまだ姿をみせないジウらしい、とスェヒは気づき、垣間見えた男の姿を追います。
そしてジウらしい男を追っていくとき、逃げる男は自動車事故に遭って顔をグシャグシャにされて死んでしまいます。よろめきながら整形医のところへ行く彼女に、整形医は言います。「もとの顔に戻そうか。それとも、まったく別人になりたいか。」後者の言葉に、スェヒの消耗し果てた表情に不気味な笑みが浮かび、目に新たな光が宿るかのようです。
ラストシーンは例の整形外科の出入り口で、サングラスにマスク、深紅のワンピースの女が出てくるのへ、道路を急いで来た若い女がぶつかって、サングラスの女の手にした額縁が地面に叩きつけられてガラスが割れて飛び散ります。額の写真は女の「前の」顔で、それはスヒョンの疲れ果てたような髪の乱れた表情でした。
そして、彼女、サングラスの女、つまるところスヒョンの整形した、観客にも未知の顔をもった女にぶつかった若い女性は、セヒなのです。彼女は、自分の責任で壊した額縁を、直して返します、とわびて額縁を抱えて行きます。これから彼女はジウの待つ喫茶店に行くはずです。つまり彼女は未来の自分に遭遇したわけで、ここで「時間」はメビウスの輪のようにねじれて接続され、永遠の円環を構成する、という仕掛けで、これは現代の寓話ですよ、と読者に明かしてくれているんですね
この映画で素敵だったのは、海岸に設置された幾つものアートの造形で、それが実に絵になる形で物語の中で使われています。これは韓国の島に実際にある浜辺の野外彫刻群だそうです。ペミクミ彫刻公園という、「仁川国際空港のるヨンジョンド(永宗島)に近いモド(茅島)の南西部」で「彫刻家が所有する浜辺」の公園だそうです。
ジウが自分も顔を変える決断をするのは、もちろん彼なりのセヒへの一貫した愛ゆえであって、セヒとスェヒに分裂した彼女に合わせて自分もまた旧ジウと新ジウあるいは新しい未知の青年に分裂し、それぞれに対応させるなり、旧い顔を共に捨て去ることができるなら、二人とも新たなアイデンティティに依拠して関係を構築できるという思いからでしょうか。しかし、それならなぜ彼は整形を終えてもスェヒの前に姿を見せないのでしょうか。
おそらくそこにはセヒとまったく同じジウの計算違いがあるのではないか。ジウの新しい未知の顔を、もはやジウは永遠に消えて代わりに登場する私が私であるアイデンティティを備えた男を、いま必死になって彼を求めているように見えるスェヒが愛するようになるかどうかは、本当は誰にもわかりません。そして、もしスェヒがその未知の彼を本当に愛するようになれば、内面のジウはかつてのセヒと同様に激しく嫉妬することでしょう。ここにも循環があります。
自分が求めたかつてジウであった「かもしれない」男が事故で死ぬのをきっかけに、スェヒは「全てを忘れたいか」という医師の言葉に乗り、観客にも明かされることのない未知の顔に再度整形してわれわれの前から去って行きます。たとえ自動車事故に遭って死んだのがかつてジウだった男ではなく、ジウがまだどこかで生きているとしても、もはやジウにもスェヒにも、互いがジウであったこと、スェヒであったことは分りません。
メビウスの輪だと言い循環だと書きましたが、実はここでその輪を脱していく契機も示されているのではないでしょうか。
仮面というのは本当の顔と仮の顔、演じること、虚と実等々といった連想を呼び、ある種の哲学的な喩として頻繁に使われてきたと思います。古くは安倍公房の「他人の顔」なんかも学生時代に話題になっていました。しかし、どちらが仮面でどちらが素顔か分からなくなる、みたいな問題意識自体が、こういうキーワードの組み合わせで成立していて、一つの既成概念としての月並みな問いを立てているので、それ自体を壊してしまえば、いまそこにある顔が唯一の現実でしょう、という王様は裸!みたいな言葉が真実らしく思えてきます。
さんざん複雑な回り道はしたけれど、最後に美容整形外科を出ていく女の未知の顔が、この女の心の旅の果てに見出した、そしてこれから彼女が生きて他者と関わって行く唯一の現実であり、自分の顔であることは確かなことに思われます。そして、それはもはやかつて彼女が関わったジウが生きていようがおるまいが、関わりのないことなのです。
男女の愛をメビウスの輪として描いた典型的な、ごくシンプルな作品として、私が好きな映画は、アニエス・ヴァルダの「幸福」という古いフランス映画(1965年)です。キム・ギドク監督の映画と対照的に血も暴力もおどろおどろしい描写もない、美しい光景を見せながら、静穏で優しい雰囲気を漂わせながら、淡々と展開する作品ですが、こわ~い作品です。この作品はメビウスの輪が完璧に閉じて破れ目一つないところが、こわさを際立たせています。
描かれた世界は全く異なりますが、日本の作家で言えば庄野潤三の「静物」のようなこわさのある作品です。どちらかと言えば私の好みはこちらの系統です。村上春樹が幾つかの短編の問題作を取り上げて若い人向きに丁寧な読み解きをして見せた著作がありましたが、その中でこの「静物」を取り上げているのをみて、おう、さすがだね、と思いました。ハルキファンでまだ庄野さんのこの短編を読んでいない方は、文庫本であるはずですから、ぜひ。
(blog 2017.7.7)