Ghost of Yesterday
(松野泉監督)
"Ghost of Yesterday" at the Ritsei Cinema
昨夕、立誠シネマで一回限り上映された、”Ghost of Yesterday" をパートナーと二人で観て来ました。先週土曜日から今週にかけて立誠シネマで毎夕上映されている最新作「さよならも出来ない」の監督の11年前、24歳の頃の作品で、彼にとっては大学の卒業制作で撮った作品に続く長篇第2作でした。
平日の早めの夕刻とあって、さすがに観客は少なかったけれど、最初から最後まで、そして監督挨拶まで含めて熱心に観て下さる方ばかりでした。
制作されて間もない頃、ビデオで観たり、京都シネマで上映してくれた時に観てはいましたが、10年の歳月を経て今見ればどうだろう?と多少の不安とこちらの見方が変わることで新たな発見もあるかというささやかな期待の両方を持って観ていました。
帰途、パートナーが「今見てもこの映画はしっかり作ってあるから,安心して見られるし、いい映画だと思うわ。身内びいきかしら?」と。いや、私も実はそう思って見ていました。確かに2時間という長尺は監督自身が笑いながら挨拶で言っていたように、観客に親切とは言えないかもしれませんが、実に泰然とした趣があり、構成がしっかりしていて、24歳でよくこんな作品が作れたな、と今振り返ると奇跡のような気がして来ます。
脚本も私が以前に文化事業論の中で映画制作を取り上げた時に一つの例として参考にさせてもらおうと資料を探していた時、たまたま彼が放り出して部屋に転がっていたこの映画の脚本のきちっと綴じた原稿の束の表には、確か第7稿と書いてあったから、相当徹底的に考え抜かれ、何度も書き直されたものだったでしょう。構成がしっかりしているのは脚本がきちんとしたものだからに相違ありません。
今はメジャーの映画の多くが人気漫画かベストセラー小説を原作にして、ビジネス的に売れる映画を作ることが優先され、まともなオリジナルの脚本はむしろ稀だと言っていいでしょう。そんな中で、結果的に満足できる水準の脚本が書けるかどうか、またそれを映画化した時の興行的な成否はリスクが大きく、賭けみたいなものかもしれませんが、若い映画人がそういう困難にチャレンジすることを心から応援したい。
この映画は高木風太という彼の友人で、今ではメジャーな映画の撮影に参画している名カメラマンがカメラを回してくれていて、映像は一級品だと思います。
宝ヶ池の風景、クリスマス衣装で酔っ払って歌い踊る疑似家族を窓のフレームを通して外から撮った映像、決定的な場面での屋内の造作と登場人物のクローズアップされた表情が重なり合う時の捉え方の巧みさ(冒頭の車内からフロントグラスを通した風景、徹(とおる)が偽の「父」と母の決定的な行為を目撃する場面、洗面台で徹が身を屈めると妹の表情がそこに映っている場面、疑似家族の「父」を激しく拒絶した徹の気持ちが転回する重要な沈黙の時間の彼の表情を様々な視角からとらえた映像など)等々は、もう十分に風太君の力量を示しているでしょう。
監督は昨夕の挨拶で、11年前に上映した時、観客の女性たちが近くにいる自分に気づかずに作品について話していて、父の墓へ徹(とおる)が偽の父を連れて行く場面で、黒谷でロケした長い上りの石段を上がってくるのをロングショットでずっと写しているシーンを、「長かったねえ」と言っていたのを覚えているが、自分も今改めて久しぶりに旧作を見ていて、確かに長いなぁ、と思った、と笑い、最新作「さよならも出来ない」では、少しは観客のことを考えられるようになったと思うので、この11年間で少しは成長したところもあったのではないかと思う・・・というようなことを話していましたが、私はあの京都市内を遠く借景のように捉えたロングショットはとても素敵な美しい場面だと思ったし、この作品の中でも幾つかみられる、パッと明るく視界の開けるような実にいいシーンの一つだと思って観ました。偽の父さんが墓石の前で手を合わせるのに対して、何ですか?そういうの止めてください、と徹が言う、あぁいうセリフもよく考えられています。
監督自身が担当した音楽、音響(共同担当)はいうまでもなく、人物が見えずに、あるいは音の発生源は見えずに、音だけ聞こえてきたり、タイミングがずれてその姿が現れたりする、そんな映像と音の重ね合わせが、実に細部まで神経が行き届いていて、いわゆる「凝った」作りになっています。
2時間の長尺にもかかわらず、そのような細部の作り込みが徹底していて、そこはさすがに芸大の映画学科で基礎的なトレーニングをきちんと積んだスタッフの総合的な力量を感じさせるところがあり、同じ土俵に並べられて、それなりに賞をとったりしていた他の作品のひどい粗っぽさ(それはそれでど素人としてのインパクトを感じさせるところが値打ちでしょうし、勢いだけあれば、かえってプロらしくないところが審査員に評価され易い面はあるのですが)とは同日に論じられないように思いました。
この監督の最初の長編が京都の国際学生映画コンクールで入賞した時も審査員の一人が、監督がフィルムへのこだわりを持って撮ったことを批判して、監督に対してというより、彼を生み出した芸大の映画学科の教育を揶揄するように、デジタルでいくらでも撮れる時代なのに、いまどき後生大事にフィルムでの映画づくりにこだわっている姿勢や映像教育をアナクロニズムと断じ、たまたまその映画にロケ場所としての自宅の空間と車を貸したためにクレジットに監督と同じ姓があるのを目に留め、親が協力しているなら、なぜそういうことをアドバイスしてやらないのか、みたいなことを言ったのを、当の身内として、見当違いなことをいう人だな、と苦々しく思って聞いたので、今でも覚えています。もちろん20歳も過ぎて自立して映画を撮っている息子に制作に関して余計な口出しをするなど思いもよらないし、ましてそういう馬鹿げた「アドバイス」をするほど愚かな者は彼の周囲にはいなかったのです。
フィルムで撮ればやはりデジタルとは映像の質感が違う、かどうかというようなことは、技術的なことがわからない私にはわかりませんが、作品を作った監督やカメラを担当した風太君のような繊細な感性を持ったクリエイターならそんな違いに敏感だということがあっても、少しも驚かないし、違和感はありません。それに、大阪芸大の映画学科が、安易にビデオカメラを向けさえすれば撮れる「映画」づくりなど採用せずに、徹底して古風なフィルムでの丁寧な映画作りを教えてくれたことも、良かったと思っています。それはのちに色々見ることになった、映画学校などのデジタルで作った映画の粗雑さを数多くみて、それはフィルムかデジタルかの技術的な差異ではなく、映画作りに対する姿勢の問題だと気づいたからです。
”Ghost of Yesterday"はどんなに未熟な点を数多く持っているとしても、その時の作り手たちが世界についても映画についても絶対にタカをくくるようなことなく、全力を挙げて丁寧に作った作品であることは、11年後の今観てもはっきりとわかるし、これから何度観ても、その印象が変わることはないでしょう。
監督自身、大学の卒業制作だった長編第1作からこの第2作に至って、大きく飛躍したと思います。私は残念ながら第3作を見ていないのでそれについては何もいえませんが、第4作に当たる長期間を置いての最新作「さよならも出来ない」は、ほとんど素人のワークショップ受講生との共作ではあるけれど、彼が脚本、監督を責任を持って作った作品とみなしてよいでしょうし、監督自身が挨拶で語ったように、確かに観客にとってより鑑賞しやすく、人間に焦点を当てた作品になっていて、作り手の意志がよりコンパクトに集約された緊密な作品に仕上がっています。でもその泰然とした作風、細部まで神経の行き届いたプロフェッショナルな映像、音響、美術等々、楽しめるところには旧作と共通点があるようにおもいます。
最後にGhost of Yesterday で出演してくれた人たち、スタッフとして参画してくれた人たちのことです。彼等は、それぞれ映画制作の現場で今も活躍している人が多く、立誠シネマでの上映をきっかけにネットで調べて、それらの方々の名前を映画関係のサイトで見出してはパートナーと喜びを共にしています。
主役の兄・徹役を務めた監督の友人西村君はアニメ制作会社でプロとして東京で勤務しているようですし、もう一人の主役寿美菜子ちゃんは、超人気アニメ「けいおん」や「プリキュア」の声優として有名になり、武道館で公演するような4人の歌手タレントグループ「スフィア」の一番若いメンバーになって活躍しています。カメラの高木風太君は河瀬直美さんの映画のカメラなど、持ち前の第一級の撮影の腕を発揮して活躍中と聞いています。
また、ホームレスと言うのが似合いすぎる(笑)偽「お父さん」役をつとめてくれたプロの演劇人である玉置さん、心を病んだお母さん役を怖いほど見事に演じてくださった原さん、皆素晴らしい演技でした。スタッフも記録や美術をやってくれていた塩川さん、あるいは園部さんのことはすごく印象に残っています。塩川さんも映画の美術で活躍しているそうです。
ラストシーンはマンションの屋上みたいなところで、靴も履けないためにスリッパなんか履いて、極寒の中、奇跡のように撮影時に降りだした雪がみぞれとなり、びしょびしょに濡れて凍りつく超薄着で震えながら撮影して、ガチンガチンに固まった体で帰ってきた彼らを迎えた撮影最終日のことは忘れられません。ずっと監督の良き先輩であり相棒として寄り添い仕事をしてくれたプロデューサー伊月肇さんが、この日、「きょうは、神様が降りてきたね」と、呟いたのを今も忘れられません。
(blog 2017.6.26)