イ・チャンドン監督「シークレット・サンシャイン」
「オアシス」のイ・チャンドンの監督、脚本、製作による2007年の2時間22分に及ぶ長尺の映画。
原題は「密陽(ミリャン)で、邦題はその漢字をそのままカタカナ英語にしただけだけれど、それならなぜ「密陽」のままにしないのか不思議です。現実のロケ先である韓国の実際の都市名らしいけど、作品の中で登場人物によって「密陽の意味を知っていますか?」「意味?考えたこともないね」「秘密の密に陽ざしの陽。秘密の陽ざしなんて素敵でしょう?」「秘密の陽射しか・・・いいね」という会話が交わされ、また別の人物、キリスト教信者で最初に主人公に聖書らしきものを読むように勧める薬局の女が、見えないけれど存在する神の光について講釈を垂れると、主人公イ・シネが店内の陽の光の当たっている所へ行って、「これが光りよ、何にもない!」と言うように、作品の中では神の光としての意味を帯びて登場します。
物語は夫を交通事故で失くした寡婦シネが一人息子を連れてソウルから、夫の出身地でつねづねそこに住みたいと言っていた地方の小都市密陽へ移住してくる途中、車がエンコして、密陽から自動車修理工場の社長キム・ジョンチャンが助けにくるところから始まります。密陽についての上述の会話はこのとき彼とシネの間で交わされる象徴的な会話です。
シネはピアノがうまく、自宅で子供相手のピアノ教室を開きます。近所の洋服屋へ行っては女主人にインテリアをもう少し明るくすれば客がたくさん来るようになると、初対面でちょっと出過ぎた「アドバイス」をしたり、キリスト教信者の薬局のおばさんキム執事に教会へ誘われたり、息子ジュンが通う弁論教室の先生と知り合ったリする中で、人々の目は夫を亡くしたシネに同情的であると同時に、「少し変わっている」シネのキャラを違和感も覚えながら見守っています。
最初にシネと知り合ったジョンチャンは言ってみればシネに一目ぼれしたようで、シネにつきまとい、ちょっと「小さな親切よけいなお世話」的な世話焼きをつづけ、シネは迷惑そうです。
シネはここで土地を買い、家を建てようと思う、と周囲に言いふらします。実はあとで、同情される立場を鬱陶しく思い、見栄を張って資産家のようにみせかけただけの虚偽であったことが分かるのですが・・・。
そんな中でジュンが突然いなくなり、犯人からの身代金の要求電話で、誘拐されたと分かります。シネはひたすらジュンを無事に返してほしい一心で、誰にも言わずに、ありったけの金を用意して犯人の指示どおりの場所へ運びます。その金額は犯人が要求したものよりもはるかに少ないものだったようですが、彼女にはそれだけしか用意できなかったのです。
じきにジュンの遺体が見つかります。ジュンを焼き場の炉に送って泣き崩れても、もう流す涙も枯れたシネに、夫の母親たちは、お前のせいだ、夫も子供も殺して、涙一つ出さないのか、と罵りの言葉を投げつけます。
家を覗き込んでいた少女が、前に友達と遊んでいるところを父親に無理やり引っ張られて車にのせられたときの少女で、ジュンが通っていた弁論教室の先生の娘であったことから足がついたらしく、犯人がこの弁論教室の先生であったことがわかり、つかまります。
ジュンを殺されてからシネは次第に精神に異常をきたします。それまでは拒否して近づかなかった教会にふらりと足を向け、信者たちとともに賛美歌を歌っているとき、彼女は一人生理的に苦しい胸を押さえながら獣のような絶叫を挙げ続けます。ここで一気に子供を失った悲しみが彼女の中で炸裂し、感情が叫びとなって身体から溢れ出します。ここのところはとりわけシネを演じる女優チャン・ドヨンの鬼気迫る演技になっています。
それからシネはキリスト教信者の輪に入り、神に帰依してすっかり晴れ晴れとした、言ってみればあまりにも晴れ晴れとした、宗教者固有の表情に変わります。この変貌もみごとなものです。目には見えないけれど、いつも神がともにいてくれて心が平安だと彼女は周囲に語ります。
彼女につかず離れず世話をやいていたジョンチャンも、教会へ通うようになります。
信仰にのめり込んでいくように見えたシネは、あるとき刑務所にいるジュンを殺した犯人に面会に行くと言い出します。神は汝の敵を赦し、汝の敵を愛せよと言っているから、自分も彼を許したいのだ、と。ジョンチャンをはじめ周囲の人たちは、心の中で許せばいい、わざわざ会いにまで行く必要があるのか、と懸念します。
その懸念は現実のものとなります。ジョンチャンとともに犯人のもと弁論教室の教員は、意外にも健康的で平穏に満ちた様子で、あなたの罪を許したいと思って来たというシネに、犯人は、もうその必要はない、神に懺悔し、神は私を許して下さったので、私の心は平安を得ている、と言います。ついてきていた牧師や他の親しい信者たちはこれで一件落着、めでたしめでたしという空気を醸し出している中、シネは一人男の言葉を聴いて呆然とし、刑務所を出る駐車場で気を失って倒れます。
ここから、シネは益々深く心を病んでいきます。なぜ私が赦す前に神は犯人をお赦しになったのか、シネにはそれがどうしても受け入れられません。もはや神が自分とともにあるという信仰は失われ、変わらず彼女のことを心配して世話をやくジョンチャンを拒み、ひとり閉じこもり、荒れ狂い、薬局の執事の夫を誘惑し(このあたりもチョン・ドヨンの演技は鬼気迫るものがあります)、CD店では万引きし、とうとう手首を切って自傷行為に及びます。彼女が上を向いて呟く言葉は直接神に挑むような呪いの言葉に聞こえます。
信仰を持たない者が多くの不幸に見舞われ、神の不在を語るとき、信仰者は、それは神の与えた試練なのだと語ることがしばしばあります。この作品でも信仰者の立場から見れば、シネの受難はヨブの受難のごとき神の与えたもうた試練なのかもしれません。
しかしこの作品に関する限り、私たちの目には、最初そう見えたシネの受難は、シネがどん底まで追い詰められて心を病んでいくとき、そのシネの引き起す異様なできごとの一つ一つが、むしろシネが神に与える試練のように見えてきます。シネが狂ったように叫び、器物を破壊し、ひとの亭主をその肉で誘惑し、また万引きするとき、その一つ一つは神の受難、シネが神に与えるこの上なく厳しい試練であるかのように見えます。
精神病院で治癒して退院するシネを迎えるジョンチャンは、彼女の求めに応じて美容店に連れていきます。そこへ女店主が自分より腕がいいという見習いの少女が登場します。これがジュンを殺した犯人の娘。彼女は最初に犯人の弁論教室教員の車に乗ったときに出会ってからポイントになるところで二、三回登場します。ひとつは、犯人逮捕のきっかけになる、この少女がシネの家の中を外から覗き込んでいる場面。もう一つは、シネが車窓からこの少女が同じ年頃の少年グループから暴力的ないじめを受けているのを目撃しながら、何もしないで車で去って行くシーンです。
美容室をカットの途中で飛び出していくシネも含めて、シネは犯人を決して許していないことが分かります。ラストでシネがほっとするような表情を見せるとしても、それはもう以前のように神の存在を信じて心安らかに犯人をも許すというような心境からではないことがはっきりしています。
ラストはシネの自宅の庭で、ジョンチャンに連れられてシネはここへ戻ってきます。庭で椅子に座って、彼女はカット途中の髪を切ります。穏やかな日差しをあび、穏やかな時間が流れていく。切った髪は地面に落ち、風でふわりと移動し、カメラもそれを追うように移動して地面を映し、密やかなほとんど気づかないほどの穏やかな光のほかには何もない地面をしばらく写したままエンディングです。
これは現代のヨブ記のようなもので、亭主を事故で失い、一人息子までも誘拐殺人で奪われ、自分の一番大切なもの、自分の生きがいをすべて奪われてしまうシネの物語。ヨブのようにそれでも神を信じるということはシネにはできません。普通に言えば心を病んだ状態になってからの彼女は、むしろ神に挑むようなところがあります。
教会に通って晴れ晴れした表情のシネはまだ自分勝手に神を思い描いているだけだったけれど、犯人に面会して神が勝手に許しを与えたことを知ってからのシネは、むしろ本当にそこに神が居るかのように神に挑み、神を呪詛し、神と激しい口論をしているかのような独り言を呟きます。それはほかの者には理解できない神とシネとの対話のようにみえます。そうなってからのほうが、シネは神を憎みながら神と対峙する世界に入って、神よ、お前は本当に居るのか、居るならなぜこのような現実を許すのかと鋭く挑みかかっているように思えます。
穏やかな光に満ちた庭のラストシーンは、決してハッピーエンドを意味していません。シネは依然として心を病み、不安定な状態で、これはほんの一瞬のやすらぎの時に過ぎません。
しかし、この作品の中でほんとうに象徴的な「密陽」が射しているとすれば、そしてその光の中にこそ目に見えない神が佇んでいるのだとすれば、それはこの作品の最初から最後まで変わらないジョンチャンのシネに対する姿勢でしょう。最初は一目ぼれの下心かと思ってみていたけれど、途中からはなぜこの男はこんなにシネに親切なのか、シネに迷惑がられながら、ここまでシネの世話をしたがるのか、ほとんど分からなくなってきます。最初と最後にあらわれる他都市に住むシネの弟が、最初にジョンチャンに「姉のタイプじゃないことだけは確かだ」と彼に「忠告」します。その男が最初から最後までまったく微動もしない同じ態度でシネに接し続けます。
そこには男女の色恋のような濃い色合いはついていません。レストランを予約して楽しみにしている彼は初々しい思春期の初恋の相手を待つ少年のようだけれど、その純粋で透明感のある気持ちと接し方は終始変わりません。
物語そのものはシネの厳しい受難を軸に展開するので、そちらに目が行ってしまうけれど、実際には最初から最後までこれはジョンチャンとシネの二人の物語ではないでしょうか。それは目の前の映像として展開される作品の中にちゃんと見えているのに、私たちが見ていない一番大切なものなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
二人を演じる、イ・チャンドンとソン・ガンホも、さすがという演技をみせてくれています。
長い長い物語ですが、冗長な印象はまったくありません。シネを演じるチョン・ドヨンは市原悦子のようなお手伝いさん顔だけれど、その演技力はまさに鬼神のごとき迫力で、「オアシス」のコンジュを演じたムン・ソリのことを合わせて考えれば、このイ・チャンドンという監督は女優の持つ資質をその底の底まで鷲掴みにして可能性の極限まで引き出し、作品の世界に100%解放し切るだけの力量を備えていると考えざるをえません。
(blog 2017.8.28)