「ハッピーアワー」(濱口竜介監督 2015)
この映画の監督、濱口さんは、実は女性でした!と言われても、私は驚かない(笑)。いや、もちろんれっきとした男性のようだし、私の身内の中に実際に会った者もいるらしいので、男性に間違いはなさそうです。
ただ、この映画を観ていて、どうしてもこの映画は女性の手で作られたんじゃないか、という「錯覚」に何度も襲われる感じがして仕方がなかったのです。
いつのころからか、まるで平安朝の宮廷文学のように、仮名文字を駆使した女流文学が隆盛をきわめ、男の漢文学の水準をはるかに超えて、源氏物語みたいなものを生み出してしまった、あの時代がまた来たのかと思うほど、新しく書かれる活きのよい小説と言えばきまって女性作家の作品、というふうになってしまった日本の現代文学の幾人もの女性の手練れ作家と同じような、時代の空気を存分に吸った才能ある女性映画作家が、とうとうこんな堂々たる作品を生み出してしまったか、というような感じ・・・。
それは女性だけの源氏物語(光源氏抜きの)みたいに堂々としていて、4人の女性が集まって男の話などしていると、紫式部や清少納言(二人はあまり仲良くなかったみたいだけど)、和泉式部に赤染衛門と四才女がくつろいで、雨夜の品定めなどして、「ええ男がおらんなぁ」などと夜っぴいてだべっているようじゃありませんか。ええうちのお坊ちゃん揃いの男衆と違って、彼女らは男性社会で深い傷を負った手負いの獣みたいなものですから、迫力も半端じゃない。
いまでいえば、山田詠美と井上荒野と多田葉子と川上未映子なんかが雨の夜に飲みながら品定めとかしてたらちょっとコワイでしょう(笑)。
だれがやっても、どっちみち、「もう男なんぞ要らん」という結論に導かれるような気がしません?そういえば生物学の福岡伸一先生もエッセイで、生物の進化にはもともとオスなんて要らなかった(そういう道筋もありえた)ってなことを言ってらっしゃいませんでしたか?人類学者の山極京大総長にも、たしか「父という無用のもの」なんてセリフがありましたね。
男性がこの映画を真正面から見るのは少々覚悟が要りますぞ(笑)。
それはさておき、この映画の監督は私の錯覚とは違って男性の監督なので、なんでこの人は、こんなに女性の気持ちが分かるんだ?とそちらのほうに興味がわきます。もちろん肉体的、生理的な性別などは大したことではなくて、精神の世界では、私たち自身すべからく両性具有的な存在なのでしょうから、肉体的な男性が撮ろうと女性が撮ろうと、繊細で鋭敏な感性で描かれた映画はいつでも撮れるものなのかもしれません。
濱口監督のこの作品のメイキングや脚本が掲載されている『カメラの前で演じること』も、最近発売された三浦哲哉の『『ハッピーアワー』論』も、ブルーレイと一緒に買ってきたけれど、この映画は予備知識も先入観もなしで観たい、と思ったので、それらの資料類には一切目を通さず、手ぶらで、昨日、パートナーのいない昼食後から夕食時まで一人で、長男のくれたホームシアターのちょっとしたシネコン的雰囲気の大画面で見ることができました。
ブルーレイ2枚で317分、実に5時間を超える大作ですが、最近老人性嗜眠症の傾向がある私としては珍しく、まったく居眠りすることもなく退屈を感じることもなく、ディスクを2枚目に換えるのももどかしく、最後まで観て、久しぶりにいま生きているこの日本社会の「同時代」に深く根差し、30代後半にさしかかった女性たちのポリフォニックな目を通してその同時代を描き切った作品に出合ったな、という満足感を覚え、本当に堪能させてもらったな、という感想を持ちました。
この5時間もの大作を一度さらっと観ただけで「論じ」たり「評し」たりすることはもちろんできませんが、いくつかの印象だけは控えておくことにしましょう。
この作品のすばらしさは、まず昔風に言えば主人公、主役にあたる4人の30代後半の女性たちを演じた役者(ひょっとしたらプロの役者ではないかもしれませんが)の、4人それぞれの明確な個性の違いが、ほんとうに自然に、くっきりと、徹底して、見事に表現されていることにあると思います。
それは私がこの文章の冒頭に書いたようなことの背景にある男性とか女性とかに対する先入観、ふだん漠然ともっている特徴づけのようなものを、ことごとく粉砕してしまうような力強い表現で、そこに生きておしゃべりし、行動しているのは、もうまったく女性でしかありえない女性らしい女性なのだけれど、その女性「らしさ」というのはこちらの先入主としての「女性らしさ」ではなくて、ここに現れれる「あかり」や「桜子」や「芙美」や「純」それぞれの「あかり」らしさ、「桜子」らしさ、「芙美」らしさ、「純」らしさにほかならないのです。
その一人一人が目の前で創り出していく個性以外の何物でもない。だから私たちの例えば「あかり」はこういう女性だろう、という先入観もまた、観ているうちに何度もゆさぶられ、そのつど新鮮な驚きとともに、更新されていきます。
まだしも「あかり」や「純」はわかりやすくさえあり、「桜子」など私なんか彼女の言葉を聞いて茫然とするほかない夫と同じで、件の夫君といっしょに階段からずっこけて落ちてしまいそうでした。
それはもう「女性」についての、いや「桜子」というひとりの個性についての発見につぐ発見でした。
「芙美」についても同様で、彼女がこういう女性だということに彼の旦那と同じように私もなかなか気づけなかった。なんでこいつはこんなに不機嫌なんだ、と彼と一緒に思ったり(笑)。
あんなふうに「傷つかれ」たんじゃ、旦那も立つ瀬がないじゃないか、と私など彼に同情したくらいです。思わず、自分がパートナーにこれまでどういう接し方をしてきたか、顧みさせられました。ああコワ(笑)
まだ「純」のほうは分かるのです。彼女の夫が、どんなにか学識もあり、社会的地位もある、若く、優しく、妻を愛する「いいひと」で、まったくDVなどとも縁のない紳士的な男性だけれども、彼のその「優しさ」や「愛」の中に、あるがままの生きる「純」は存在しない。
あくまでも彼の、そういいたければ幻想世界の中の「愛妻」であって、独りよがりで一方的なその「愛」は、自己肯定のすさまじさのゆえに一層始末が悪くて、「純」の必死の声がまったく届かない。
だから彼女は、その「平穏な家庭生活」の一日一日は彼が彼女を「殺してきた」日々に過ぎなかった、ということになります。それはこの男を見ていてよくわかる。
だけどこの男も、芙美や彼の夫が主催する新人作家の新作朗読会でエスケープしたゲストの代わりに登場して代役を見事につとめ、そのあとの「打ち上げ会」でも彼を忌み逃走した妻をなお愛していると言い、職を捨てて彼女を追うと堂々と自己肯定的な主張をする姿を見ていると、いやな男だけれど、この男なりの堂々たる存在感を示していて、そういうところがこの映画、すごいなぁ、と感心してしまいます。
話がそれましたが、「純」の夫の場合はまだしも純が忌み、逃走したのも理解できる。
でも「芙美」の場合はどうか。拓也だったか。彼は自分が編集者として育てて世に出そうという新人作家の朗読会を開いています。その新人作家はたまたま若くて色白の可愛らしい女性なのだけれど、別にそうでなくても、自分が見出して育てて世に出そうという作家に入れ込むのは当たり前で、仕事ではあるけれども個人的にポジティブな思いがなければ成功のおぼつかない仕事でしょうし、取材に温泉へいこうがいくまいが、やましいことがなければ「仕事の範囲」という男の意識は当然でしょう。
でも、あとで妻の芙美が言うことには、「あなたが彼女のことを言うときの声がいやだった」と。その声が高く弾んでいた、と。
つい夫の拓也のほうに寄り添って、そういう女性の言葉を聞いてしまうこちらとしては、それはないだろう!と文句の一つも言いたくなります。いや、そら仕事であろうとなかろうと若い可愛らしい女性と付き合うのは楽しいさ。
年寄りと付き合えば、まずは病気の話だの孫の話、目の前には禿げた額やら薄くなった髪や醜く抜けた薄汚れた歯並びや皺やシミだらけの顔を眺め、咳や痰のからんだ聞き取りにくい声を聴くだけならまだしも、へたをすると長々と愚痴や自慢話や自分には何の興味もない他人の過去の話を聞かされたあげく、お説教や教訓めいた話まで聞かされる羽目になるかもしれない。
これとは真逆に、若い可愛い女性と語ればもうその生命の息吹がほとばしるような明るいやわらかな笑顔、鈴が鳴るような高くよく通る快い声、澄んだ目、豊かに流れるような黒髪、溌溂と動く四肢、そしてまだ何も書き込まれていないまっさらな紙のように初々しい感受性、そのちょっと大人っぽく背伸びした、あるいは逆に子供のふりした、初々しい言葉つき、仕草・・・
だから男なら誰だって、別に下心などまったくなくたって、若い可愛い女性と付き合う機会があれば、それは楽しい、嬉しい機会にちがいないし、自然に自分も声が弾み、気分が高揚するでしょう。
だからって、誰もがへんな気を起こすわけじゃないし、妻や恋人を裏切るような方向へ行くわけじゃない。この拓也だってそうですよね。芙美に非難されるまで、自分がその新人女性作家のことを語る声が芙美を傷つけていたなんて、気もつかなかったんですから。
彼はとても誠実で、新人作家に好きだと言われてファミレスで一晩いっしょにいて朝帰りした、というのも信じられるし、きっと本当でしょう。そのことを正直に芙美に話している。
そして、芙美があなたの声に傷ついていた、と非難するとき、むしろ過剰に正直なほどに、或いは自分もその新人作家に好きと言われて嬉しかったかもしれない、というようなことまで言っています。
誰だって自分が嫌っているのではない、むしろ好意を持っている相手に好きだと本気で言われて嬉しくない人はいないでしょう。だからといって、彼が浮気性なわけでもなければ、不誠実なわけでもないはずです。
だけど、もちろんあからさまに彼が若い可愛い女の子に関心を示せば、それは彼の妻なり恋人なりは不愉快に感じ、嫉妬をおぼえるでしょう。それもまた自然なことです。
だけど、だからといって、ちょっと可愛い子に関心をもつ男性が、妻や恋人を傷つける者として非難されても仕方がないでしょうか?
では逆に女性が、ちょっとかっこいい仕事場の男性に、いいわぁ、と好感をもつとして、職場にこんなかっこいい人がいるのよ、と夫や恋人の男性に言うとして、彼女はその夫や恋人を「傷つける」不誠実な人、裏切った人でしょうか。
それは嫉妬深い男性なら、恋人や妻がほかの男性にぽわーとなっていたら、あまり愉快じゃないかもしれないし、嫉妬する人もあるでしょう。でも大抵の男性は、自分の妻や恋人との基本的な信頼関係に影響を及ぼすようなこととはみなさず、笑ってからかうくらいがオチでしょう。
ところがこの芙美さんは拓也君が自分をずっと傷つけてきた、と非難するわけです。まるで夫と妻との基本的な絆を傷つける行為であるかのように、です。それは「心の中で姦淫する者は姦淫したのである」という新約聖書のセリフと同じ、人間が人間であることを無視した無理難題ではないでしょうか。
ここは納得がいかない(笑)。いや、女性ってそんなにまで繊細なの?と。もしそうなら、とてもそういう女性と恋をしたり結婚したりなんて無理じゃないだろうか・・・私だけじゃなく世の中の男性すべて・・・とまでいかなくても、99%は無理やろ!、って思ってしまいます。これって私が不誠実で浮気な男なんでしょうか(笑)。
少なくとも、ここでの芙美という女性はそういう鋭敏・繊細、というか過敏で神経症的なまでにそういう男女の微妙な心理の内奥まで立ち入って、白か黒かを判定しないと気が済まない女性として設定されているようです。
ふつうは拓也が内心で感じていたような新人作家への好意は、妻に「告白」すべきものでさえなく、そんなことをすれば、かえって何かうしろめたいがゆえに、それを取り繕うために語るような結果になってしまう類の、男性としてごくありふれた、一過性の女性一般への関心にすぎません。街に出かけて公園のベンチにでも坐って休んでいたら目の前をすてきな女性が通った。あ、綺麗な人だな、と好意的な感想を抱いた。それは恋人や妻を「傷つける」ことになる裏切りでしょうか・・・
拓也の心の中まで覗き込んで、本当はあなたも彼女が好きなんでしょう、とそんなのを追究されたら、たしかに俺も彼女に好意をもっていたかもしれない、とは思うけれども、それは「あなたをそのことで傷つけて悪かった」、と詫びなくてはならない?
それはたまらん夫婦関係やなぁ、と私などは拓也にいたく同情します(笑)。
この作品のラストで、どうやら芙美に引導を渡されて車で出ていった拓也が事故にあってあかりの勤務する病院に運ばれたらしいことが示唆されていて、芙美がまだやり直す機会は残されているんだな、と気づいて病院に来ていて、あかりと会話するシーンで、拓也が目覚めたら、ざまあみろ、と言ってやりたい、と彼の傍へ行くところで終わっています。あのなぁ、ざまぁみろはねえだろ!と(笑)。
濱口さんはここでも徹頭徹尾女性の味方(笑)。
それから一番たよりなさそうだけど、おとなしい主婦らしく、従順な嫁らしく、またまっとうな母親らしく見えた「桜子」さん。これがだんだん本性をあらわして(笑)・・・私などほんとに、最後は、きまじめで不器用そうな、でも仕事はきちっとやって家族のために給料をごまかさずに持って帰りそうなサラリーマンの夫君と同じで、彼女の言葉に唖然とし、茫然とし、階段からずっこけて落ちた彼にいたく同情して、交差点でうずくまって涙する彼に言葉をかけてやりたくなりましたよ。
ひどいじゃないか!って桜子さんに抗議したい(笑)。
でもこんなに性格の異なる個性の強い4人だけど、いかにも今の世の中に、私たちの周囲をちょっとみまわし、親しく付き合ってきた人たちを思い出すだけで、あぁ、いるいる、こういう人いるよなぁ、と思いますよね。
いや造型はみごとで、これはもうフィクションでしかありえない密度と強度なのだけれど、これを薄めたり少し崩してみたりしたら、もうそこらじゅうに「あるある」「いるいる」という出来事であり、ひとでしょう。
それだけそれは、この作品が今の日本の私たちが生きる状況に深く食い込んで確かに岩盤に杭を打ち込んでいるということの証みたいなものでしょうね。
現実にこういう女性が自分の恋人や妻だったら、ちょっとたまらんなぁ、というきつさはあるけれど、それは少しも嘘っぽくないし、ものすごい迫力で何かこう自分の一番うしろめたいところを突かれるというか、こちらが人に見せびらかすものでもないし、とそっと隠している胸のうちの思いまで手をつっこんでこられて、隠していたものを心臓外科医みたいに手づかみして、ほら、あんたこんなもの私に隠していたでしょう、と突き付けられるようなところがあります。
いや、そんなたいそうな隠しものなど私ごときにあり得ようはずもないのですが、ないはずのうしろめたさをグサリと突くような、ですね。
おそらくそのへんが、今の日本社会の男と女の間に横たわるはるかな距離を正確に表徴しているのでしょう。
桜子の夫の唖然とした表情というのは、日本のほとんどの男性の表情ですよね。せいいっぱいものわかりのいい、男性からみたら典型的なフェミニストで女性からみても申し分ないだろう、こんな男性がいてもらってはこちらの立つ瀬がないからやめとくれよ、といいたいような拓也君みたいな男性でさえも、女性から見ればあれですからね(笑
大変なものをあばきだしてくれましたよね、濱口さんも・・・
でも4人の女性の一緒に飲んだり、旅行に行ったりしているときの、あの楽し気な明るい表情は素敵です。この映画を明るくしているのは、彼女たち三十代後半の女性たちのたくましいパワー感と、紆余曲折しながら、そして自分たちの個性を曲げずにほとんどけんか腰に自分を正直にぶつけあって容赦しない、しかも生涯の心を許せる友であるという友情でしょうね。なんか男性の友情とはまた違った、過剰な感情的な起伏、そのつど距離が無限大になったり無限小というかゼロまたはマイナスくらいまでなってしまうような極端な距離の取り方というか、違ったものを感じましたし、そういう触覚的な友情それ自体はある意味で羨ましいような友情でしたね。男性のは視覚的か聴覚的な友情で、ちょっとこういう触覚的な、精神的に相手の肌に触れにいったり離したりするような友情というのではないですから。
それにしても互いに個性をぶつけあい、見解の違いがあらわになるときの彼女たちの姿はすごい。日本の女性もあれだけ自分の個性をクリアに表現できるようになったんだ、と変な感銘を受けました。
昔、韓国のメロドラマ「冬のソナタ」をみていて、チェ・ジウがヒロインを演じて、あれほど深く強く男を愛していながら、彼の求めに応じず、また同時に彼女を熱愛する幼馴染とも一緒にならず、一人で自分の道を歩き出そうと愛する男に別れを告げるとき、みごとに自分自身の論理的な言葉で自己主張するシーンがあって、その上で彼に「私はあなたには謝らないわ。私の一番大切なものをあげたんですもの」と、ずっとあなただけを愛してきたんだよ、ということを告げて去っていく颯爽とした姿を見せてくれて、韓国の女性はすごいな、と思いましたが、日本の女性もいまやそういう自立した本当に強い女性になりましたね。単に女性と靴下が強くなった、なんて揶揄される程度の強さなんかもう遠い昔のことで。
しかし、一方的にこの4人の女性の強さを押し出すだけでなく、たとえば朗読会のあとの打ち上げ会で、芙美と桜子が失踪した純のために弁じて純の夫を舌鋒鋭く批判するシーンで、それを聞いていた何も事情を知らない新人作家のカワイ子ちゃんが、純の夫は自分の言葉で話しているけれど、「あなた方二人はそうではないんじゃないか。純のために弁じているようだけれど、本当は自分のためではないの?」と問いかけるところがあります。
何も知らないくせに、とたしなめられて彼女は黙るけれど、こういう場面をつくりだしている映画の作り手のほうはすごいですね。フェアだし、う~ん、と考えさせられるところがありますよね。
4人の女性が正義を独占しているわけじゃないんです。みんなそれぞれ深く傷ついていて、今も揺れ動きつづけて必死で生きている。アホな男たちよりよほど自分の頭で考え、深く傷つきながらそれを克服しようと抗い、正直に、真剣に生きている。
でもそれはもう一つのエゴイズムにすぎないかもしれないし、勝手な言い草なのかもしれない。誰よりも自分たち自身につねにそういう自問を刃のように喉元に突きつけながら生きている。
そういう女性を4人も見せられたら、彼女たちの夫ばかりではなく、われわれ男性のはしくれの観客としてもタジタジです
このストーリーの中で、あの新人のカワイコちゃん作家が朗読する作品はどういうのでしょう。途中でカメラがエスケープした鵜飼などを追うから全部聞けたわけではないけれど、ちゃんとした短編になっていませんでした?
それに、この作家に鵜飼のピンチヒッターでトークショーをやってのけた純の夫(公平?だっけ)の喋った内容も、あとで打ち上げに参加した席で作品というか作家に辛口の評価をしてみせた弁舌も、彼のキャラらしく小難しい言い回しを使ったり、上から目線的な語り口ではあったけれども、それなりにサマになっていて、いっぱしの文芸評論家みたいな分析もしてみせていたと思います。
この辺も彼を単に妻の心の読めない独りよがりのワカランチンみたいに思って観ていると、おぅおぅ・・・こいつは、と或る意味で彼という人物を見直すところがありますね。
いやな男だし、つきあいたくはないけど(笑)、対幻想にかかわるところ以外では、周囲から「できる男」、「いいひと」、と評価されてきたという設定どおりの一人の男として、彼なりのしっかりした存在感を示していました。
こういうところがこの作品のすごいところだなぁと思いました。つまり4人の女性に寄り添った目線で見ていて、否定的に観てしまいがちな、妻の気持ちにきづかず、気づいても「遅すぎる」男たちもみな、きちんと一人一人個性を持ち、考えを持ち、それぞれの感じ方をもった男性として徹底して表現されているな、と思えるところが、です。
鵜飼兄妹なんかも、すごく面白い現代的なキャラでしたね。ほんとにあぁいうちょっといかがわしい講師がいて、いかがわしい講習会をやって、そう多くはなくてもそれなりに人を集めてなにかやっているような会って、身近にいっぱいありますね。
そして、何の意味があるんだと思えるようなしょうもないことをやっているようでもあるけれども、ちょっと面白いところもあって、参加者が半分面白がり、また楽しんで、そこそこ満足して帰っていく、という感じもすごくよくわかります。
椅子の重心をみつけて本来ならすぐ倒れそうな姿勢で床に立ててみせる最初のパフォーマンスで参加者をいっぺんに引き付けてしまうやり口なんか心憎いし、なんでもないペアを組ませての身体動作からはじめて参加者相互の身体的接触を増やし、ひとつのゲームをする人数も増やしていってある種の共同性をつくりだしてしまう手口なんか、実によく研究されていて、これって、そのまま新興宗教の勧誘とかいかがわしい何とか教室に素人を誘い込む手口に使えそうです(笑)。
もちろん、このイベントで鵜飼が言う、「人と人とが直接触れ合う」ことの意味が、この作品で4人の親友たちの間の触れあいにも、また彼女たちのそれぞれの夫の触れあいに対しても、ひとつの喩として機能していることは明らかで、ここで鵜飼が「みなさんも子供のころはもっと誰とでもしじゅう触れ合っていましたよね、でも・・・」というあたりの口上なんかも、なるほどねぇ、と本当に自分だってそんなこと考えもしないで忙しい日常を送っている中で、誰かに誘われてふと覗いてみただけのこんなイベントで、こんな体験してこんなふうに言われたら、自分の中で忘れていた何か大切なことを指摘されてハッとするような経験をするだろうな、と思いました。
ただ、この作品では鵜飼という存在自体が、あとであかりのエピソードに絡んでは来ますが、4人の物語に対してそれほど大きな位置を占めているわけではなく、このイベントで語られ、4人の女性たちも体感するような、触れあいの意味とその喪失ということが、全体の喩のように置かれていること以上のことは私には感じられませんでした。
この作品はラストは、芙美とあかりが病院で出会い、拓也とやり直そうという芙美の気持ちが、彼のそばへ行って「目覚めたらざまぁみろって言ってやる」、という彼女の言葉で語られていて、作品全体のしめくくりとして救いになっている、とてもいいシーンでした。あのまま拓也が出ていって別れたのではあんまりだ(笑)。
まぁ5時間以上もある作品なので、こうタラタラ語っていくとなんぼでも続くようなところがありますが、作品自体は非常に豊かなコンテンツにもかかわらずコンパクトなテンションの高い作品なので、ぜひ現物をごらんください。
私自身は、いまたちまち頭に浮かぶ印象に残っていることって、こんなところなので、とりあえず手ぶらで一度見た、その記憶がなまなましいうちに走り書きしておいたということで、ここらで打ち止めにしておきましょう。
最後にもう一言だけ妄想を付け加えておくとすれば、最初に光源氏不在の源氏物語と言ったように、この作品には世界の半分(笑)、男の世界を喪失しているので、じゃ今度残りの半分をつくってもらえないかな、と思わなくもありませんでした。そんなものはこれまでさんざん作られてきたんだ、と言われるでしょうが、そうではなくて、この濱口作品を新たなベースにして、こういう女性たちに対峙できるような4人の自立した強く優しく揺れ動く男性たちを主人公にした映画・・・無理かなぁ、まだ。男はそこまで進化していないか・・・(笑)
Blog 2018-6-20
濱口竜介監督「ハッピーアワー」再見
ブルーレイで見た「ハッピーアワー」をやはりこれは劇場のスクリーンで見て、いい音で聴いておくべき映画だろうな、と思っていたので、出町座での通し上映で、一番見やすい時間帯、12時半からはじまって午後6時半ころ終わる今日の回に行って見てきました。
今回も5時間の上映時間を少しも長いとか退屈だとか感じないで楽しむことができました。いらちの私のとしては5時間なんて映画でこんな経験をするのはたぶんはじめてでしょう。
1回目はストーリー、人間関係、かわされる言葉をフォローしていくのに精いっぱいなところがあったけれど、まだ見て間がなかったので、記憶力の悪い私でもそれは一応頭に入っていたから、少しゆとりをもって見ることができました。
初回に見たときは、あの「重心」ワークショップに、それ自体としては非常に強いリアリティがあるのだけれども、作品の中に置かれていることには違和感があって、あそこが突出しているようにも感じ、あれを取っ払ってしまっても、鵜飼とあかりの出会いの処理ができれば、そのほうがバランスがとれるんじゃないか、なんて感じたところがあって、三浦さんのハッピーアワー論で、あそこでテーマになっている重心を見出そうという話が全体の骨格になっていることが非常に明晰に指摘されて、なるほどなと納得すると、今度はあのワークショップが全体のサマリーみたいに見えて来て、そういうものを作品自体の中に置くのはどうなんだろう、という作品全体の中でのありようへの疑問は強くなっていました。
しかし二度目に見た時は、あの場面だけ突出しているようには感じられませんでした。というより、あぁいう場面はいっぱいあるな、と(笑)。ワークショップのあとの、純が浮気して離婚裁判中であることを明かして、あかりがそんなん聞いてへんで、と怒る打ち上げ会の場面、あるいは有馬温泉の朗読会の場面、さらにそれに続く打ち上げ会の場面・・・私の感じたのは、これおかしいんじゃないか、という違和感ではなくて、ある種の「過剰さ」なんじゃないか、という気がしました。
一つ一つは素晴らしい場面で、むしろそれがなかったらこの作品は成り立たない、どれも外せない山みたいなところですが、全体の作品の中であたかもそこが相対的に独立した存在感をもっているようなところがあって、こちらの、ふつうの物語を追っていって、次にどうなってこうなって、という展開の中でバランスを欠くような印象があったわけです。
それは例えば鵜飼の重心についてのちょっといかがわしさのあるレクチャーだとか、若い女性作家こずえの自作の朗読だとか、さらには二つの打ち上げ会での議論、口論における一人一人の相当理屈っぽい長広舌とかに具体的には現れる「過剰さ」です。もっと言えば、彼らが語る言葉のあまりに論理的で明晰であることの「過剰さ」です。
一見ごくありふれた37歳という年齢の女性4人と、どこにでもいそうなそれぞれのパートナーをはじめとする周囲の人々の間で、いかにもいまふうな男女のあるいはそれと関わっている女友達どうしの気持ちのやりとり、揺れ、すれちがい、ぶつかりあい、理解と無理解、鋭敏さと鈍感さ、それぞれの資質との結びつきよう、そういったものをリアリズムで描いているように見えるけれど、少し考えてみればわかるように、みなさんはこの映画の登場人物のように見事に論理的に明晰に自分の気持ち、意見を言葉にできますか?公平のようなエリートや作家は例外とみなすとしても、4人の主役の語る場面を聞いていて、あんなふうに語るのは決して「リアル」じゃない、つまり現実のそこらのありふれたああいう境遇の人物の語る様子をそのまま写しても、ああはなりません。
大体「声」がちがう(笑)。あんなに語尾まで明確に、論理的な言葉を明瞭に発声する語りの声というのは、ふつう私たちの身の回りで聴くことはできないでしょう。それはお芝居のセリフ回しのような「約束事」というのとはちょっと違うような気がします。
あれは監督はじめこの映画の作り手たちが創り出した「現実」だと思います。それは通常の「リアリズム」の時空からは大きくはみ出す「過剰」だと私には見えます。
そして、いままで、「親密さ」や「パッション」を見て来て、この映画を観ると、たぶんその「過剰さ」に濱口監督の表現の譲れない核心みたいなものがあるんだろうな、という気がしました。
「Passion」の感想のときにも書きましたが、ふつう、私たちが多くの場合経験するのは、「言葉がいつも遅れてやってくる」という感じ方です。でも例えばこの作品の4人の主人公は、言うべきときにちゃんと言うべきことが言える。「言葉はいつも遅れてやってくる」というズレの感覚、それを宿命のように感じる一種の諦観、後ろめたさや悔いのような感傷を拒否して、時差を消して言うべき時に言うべきことを的確に言う・・・それによって、言葉がそれ自体でひとつの肉体を持ち、生きた思想として自立して、いわば人格を持ち、同様の他者とぶつかったり、自分を相手に渡し、相手を受け取る、そんな身体を言葉がもちはじめるような気がします。
たぶんそれがこの作品を強くしている。ピアノをたたく指の強度≒音の強度が強くてひとつひとつの音が立つように、登場人物一人一人の言葉がそれ自体一個の身体のように存在感を持って立っている印象です。
今回は少し気持ちにゆとりがあったせいで、日向子があかりにキスしているところを「何してんねん」と鵜飼が顔を出すところや、拓也がこずえを車で送っていって「好きです」と言われ、「まじか!」とうろたえて運転が怪しくなる場面とか、いくつか笑える場面で笑って楽しむこともできたし、雑誌ユリイカの濱口監督特集で細馬宏通氏の音についての精密な論考やこの作品の音づくりの担当者へのインタビュー記事を読んでいたので、聴こえてくる「音」にも注意を払って観ることができ、的確に選ばれた音曲の入るタイミング、ノイズの断続のタイミングやセリフに被る音楽、あるいは有馬温泉の激しい勢いで落ちる滝の音のような自然音と登場人物の心理表現のようなところで、その非常に抑制の効いたきめ細かなしつらえに気づかされるところがありました。
芙美と拓也の関係とか桜子とご亭主良彦との関係、さらに純と公平との関係については、私は古い世代の人間だからでしょうが、やっぱりこの女性たちの言い分にはついていけないところがあります。いや、彼女たちのパートナーが日本の男性の多くと同様に女性の立場や気持ちに恐ろしく(女性からみて)鈍感で、女性から見て著しくアンフェアな関係に気づかずに、あるいは気づいても見て見ぬふりをして歳月をやりすごしてきたというのは理解できなくもないし、そのことで日々傷ついてきた、抑圧されてきた、自分を殺してきた、という言い分も一定の理解はできますが、例えば私などからみて拓也のような男性というのはそういう意味ではそんなに罪な男だろうか、と。
あかりが持ち前の直観で、芙美と拓也の関係には「薄い膜がかかったような表面的なもの」のように見える、と言ったり、芙美自身が最後には気持ちを語って、「ずっと傷つけられてきた」と言い、また朗読会のあとの打ち上げ会が終わるころ、拓也がみなを車で送ろうとして芙美が断ると、じゃ自分はこずえを送っていかなくてはならないからと芙美には電車で帰るように言い、芙美にきょうはなぜずっと怒ってるんだと訊いたときに、桜子はその言葉を拾って、「なんで芙美が怒ってるか分からへんの?芙美の気持ちを考えたことある?」みたいに怒りの言葉を投げ返すところがあります。
たしかに若い可愛い女性作家の取材に温泉へ同行して、つききりで世話する拓也が自分でも気づかずにいつもよりウキウキした声でしゃべっているのを聞かされてきた芙美が、拓也がこずえに好意を感じていることを直観して、不愉快に感じて来たことは理解できます。
でも、それは普通は、パートナーへの「裏切り」とはみなさないでしょう。可愛い、あるいは美しい異性に惹かれるのは自然なことで、パートナーがあろうとなかろうと、それは別段かかわりはない。そこから何か具体的にプライベートなかかわりを積極的に持つように踏み出していったりすれば別でしょうが、仕事の上で取材に同行したり、朗読会に出演させた作家を送っていくのは当然のことで、そこでパートナーの方を大事にしたらそのほうがよほどおかしいでしょう。
普通の女性なら、仕事だ、ということでそこは割り切って、自分の軽いジェラシーによる不快感のほうを抑制するでしょう。若い可愛い女の子とパートナーが二人で過ごすのは気がかりだったり不安だったり嫉妬をおぼえたりはするかもしれないけれど、その気持ちを高ぶらせて切れてしまうとか、自分への裏切りだと考えるほうがどうかしているのではないか。
そういう意味では、どうみても拓也のほうがまっとうで、実際こずえと男女の関係になったわけでもなく、帰宅後に芙美には率直にすべてあったことを語っていて、むしろこずえに好きだと言われたときは思いもよらなかったために動揺していました。彼がこずえと一緒にいて楽しかったり、心弾むのはそんなに悪いことだろうか?それが芙美への裏切りだろうか?そういうことがいくら繰り返されたからと言って、「日々傷つけられてきた」なんていうのがまともでしょうか?私にはいまもその点は疑問です。
繊細な現代の若者の心が、恋人や伴侶のそういうちょっとした、浮気心ともいえない程度の、ベンチに二人で腰かけていたら、美人が通りかかって彼がちょっと視線をそちらへ向けたのをとがめる女性みたいなもので、それは喜劇の中でこそ、女性が嫉妬して男性をつねったり、睨んだり、ってなことはあっても、現実的な感情のやりとりの中で本気で傷つくということが自然なことでしょうか。
芙美のような女性が言っていることは、ちょうど新約聖書でイエスが説く倒錯的な倫理のようなもので、戒律に「汝姦淫するなかれ」というけれども、私はおまえたちに言う、心の中で姦淫したものは実際に姦淫したのである、という、個人の魂にまで浸食していく例の教義と同じことです。
キリスト教にとっては民族的な地域性を出られなかったユダヤの共同体の宗教から、世界宗教へ脱皮していくために、個人の内面を支配する教義を編み出すときに不可欠だった倒錯の倫理だけれど、芙美のような女性の要求しているのは、これと同じことではないでしょうか。
現代の若い日本の女性は、そこまで繊細なんだよ、そこまで抑圧され傷ついているんだよ、ということの表現かもしれないけれど、これをやられたら日本中の男性でその「罪」を免れる者はたぶんいないのではないか・・・(笑)
そこだけは前に初見で書いた感想と変わりませんでした。動揺して自動車事故を起こして意識不明の拓也君はあまりに可哀想だ(笑)、と思いました。桜子のご亭主良彦さんも、休日まで返上して頑張っているお役人の鑑のような人だけれど、桜子に言わせれば、やっぱりずっと桜子を「傷つけて」きて、そのことに鈍感だった夫ということになるようです。
たしかに「おれ(男)は外(で仕事)、おまえ(女)は内(家庭)をしっかり守る」なんていう男女の役割分担みたいな図式をいまだに手放さず、息子の不祥事の始末を話し合う場でも、「お茶を入れてくれ!」と桜子が台所へ立つのを当然のように叫んで、実母にさえも頭をどつかれる鈍感さは女性からみると許しがたい鈍感さかもしれないけれど、作中でも誰だったかが言ってたけど「いいひと」ですよね(笑)。
ちゃんと給料(たぶん残業代も入れたら、そこそこ高給)を持って帰って、桜子を専業主婦でいさせてくれて、家庭での彼女のありように口を出すわけでもなく、浮気するわけでもない。ちょっと古い男女観やら世間体みたいな因習的なものに囚われているところはあるにしても、またいくらかワーカホリックで帰宅が毎日遅いとか休みも出ていくとか、世界が狭くて精神的に貧しい男だとかいろいろあるかもしれないけれども、女性のほうが「亭主元気で留守がいい」みたいなポジティブな気持ちでつきあえば、自由で思うようにできる相手でもあるかもしれません。
ただ、この桜子さんもそんな楽で安易な生活を求めているわけじゃなくて、夫婦の本質というのか、対幻想そのものを求めているので、仕事にかまけて自分のことは子育てして家事をしてくれていればいいような家政婦みたいな存在としてしか見ていないんじゃないか、みたいな扱いであったり、セックスレスだと言っていたから、そういうことだと、なんのための夫婦なんだ、ということになるでしょう。
だから、彼女の場合はある程度理解ができます。でも、それは突然自分がたまたまいかがわしいワークショップで知り合っただけの、住まいも知らない赤の他人と衝動的にセックスして朝帰りする、と言う形でしっぺ返しするようなことかどうか。やっぱりもっと以前に、正面から夫にぶつかって自分はこう思っている、ということを話し合って解決する努力をすべきことですよね。
そういう意味で、私はこの作品はいい作品だと思うけれど、登場人物である女性たちには、今も大きな違和感を覚えています。ほんとうは若い人とこういう話をして、どこが私の考えでおかしいのか、彼女たちはどう感じたのか知りたいな、という気持ちはありますが、残念ながらもう若い人とつきあう機会がきわめて限られていて、日常的には会う機会がないので、ひとりであれこれ考えているだけです。もしたまに会ってくれるOGの中に映画好きの人がいたらこの映画はぜひ見て、また会うときに話してくれると嬉しいですね。
Blog 2018-10-22