ペンギン・ハイウェイ
(石田祐康監督)
石田祐康監督「ペンギン・ハイウェイ」
昨日またまた出町座へ行って、石田祐康監督の「ペンギン・ハイウェイ」と、それ以前の作品幾つかを集めた「石田祐康監督特集」というのを観てきました。
「ペンギン・ハイウェイ」は森見登美彦の原作で、出たときに読んでいましたが、そのときはさらっと読みながして、一風変わった印象は残っていましたが、たしか「宵山万華鏡」の出たあとで、私は彼の作品ではこの「宵山万華鏡」が一番好きで、祇園祭の夜に金魚模様の浴衣を着て人波を縫うようにチョロチョロ走り回る幼い女の子たちのイメージ(記憶力の断然乏しい私のことですからだいぶデフォルメされているかもしれませんが)が未だに脳裡に焼きついているようなありさまなので、そのあとに出た「ペンギン・ハイウェイ」のほうは、ほとんど印象に残っていなかったのです。なんか田舎のバス停か何かに、ひょっこりペンギンが現れ、場違いな姿でポツンと立っているイメージとか、大勢のペンギンに追われるのか追っかけるのか、よく分からないけど、珍騒動みたいな図柄とかが、小説のイメージとして断片的に残っているだけで、主人公の少年がどんなキャラだったかとか、友達にどんな子がいたかとか、あのチャーミングなお姉さんのこととか、ちっとも覚えていなかったのです。
だから今回映画化されたのを見て、おや、こんな作品だったのか、と全く新しい作品を見るように見ることができました。こんな作品だったのか、というのは、「こんな素敵な作品だったのか!」という意味です。まだ原作は一度も再読していないので、原作に忠実なのか、ずいぶん映画化に際してオリジナルな脚本になったのか、そのへんは知りません。
でもこのアニメは、中学生の孫が見てなければ見ろ見ろ、と勧めてもいいし、大人の観客にも勧められる、素敵な映画だと思います。それはお子様向けとかファミリー向けの映画という意味ではなくて、とっつきやすさはどんな観客にも開かれた優しい作品だけれど、そこに描かれた世界が訴えかけてくるものは、もうとうに人生の幼年期をはるか昔に過ごし、失ってしまった大人たち、あるいは私のようにもう人生をほどなく終えようと言う老人にとっても、温かく、限りなく切なく訴えてくるようなものです。
これは小学校の4年生か5年生くらいでしょうか、でもいわゆる「子供らしさ」を欠いた、内向的で頭がよく、知的好奇心だけは異常に肥大した、成熟した大人のように冷静な理系男児が主人公で、その少年の目でひと夏の奇想天外なできごととそれをめぐる少年少女の冒険の顛末が語られています。
この少年の立ち位置や気持ちにすっと入っていけるような気がしたのは、あぁこの子は同じ年頃のころの自分に似ている、と感じたからかもしれません。もちろんこの少年のように頭がいい子ではなかったし、この子や一緒に「研究」プロジェクトを遂行しようとする級友の女の子のように、優れた科学者らしい父親たちの薫陶を幼いころから受けて、10歳前後から先端科学の謎に知的好奇心を燃やすような天才ぶりを発揮する並外れた子供ではもちろんなく、ハイソな家庭環境でもなかったけれど、3年生の終わりに見知らぬ土地へ引っ越しをして孤独で内向的だった自分、草っぱらで三角ベースなどして転げまわる子供らしい子供であるクラスメイトたちに自然に溶け込めるタイプでもなく、「子供の科学」を愛読してジャンクボックスをひっくり返してはいろんな電気で働く小道具を作ったり壊したり、自然科学クラブなんて帰宅部に近いクラブに所属して休日には先生と郊外に出かけて鉱物採集をしたり化石を掘ったりするのが好きだった自分を自然、彼と重ね合わせていたようです。
彼が一回りは年上のお姉さんと「友人」で、そのおっぱいに関心を示しながら、対等に扱ってもらって、ふつうなら初恋物語と言ってよい、でも彼らしい透明感のある憧憬をいだきながらつきあっていて、あるとき突然そのお姉さんが自動販売機で売っていたコカ・コーラの缶を投げ上げると、それがペンギンになって落ちてくる、という不思議な現象が起きたのが発端で、やがてそこいら中がペンギンだらけになる。そして、ペンギンの行く森の中へ入り込んで突き抜けていくと、そこに不思議な球体の「海」が浮かんでいて・・・と奇想天外な展開になっていきます。
それはもうあっけにとられながら、な、なにが起きたんだ!?と作品の世界の周囲の大人たちと同じように驚きあきれながら展開を楽しんでいけばいいので、終わってみれば、これはやっぱり少年のアドレッセンスの熱い、透明な、そして限りなく切ない、年上の素敵な女性への初恋(憧憬)とその終焉、彼女との別れ、したがってまた自分のアドレッセンスへの別れを描いた作品であって、そんな誰もが別れをつげなければならなかった、かけがえのないアドレッセンスのひとときへの、限りない愛惜を歌い上げた作品だと、私には思われました。
男の子なら誰にでも似たような思い出があるでしょうが、この年頃のちょっとおませで大人びた子にとっては、一回りくらい年上の生き生きとした美しいお姉さんに、ちょうどこの少年のような強い憧れを懐くものです。それは子供の淡い憧憬にすぎない、と人は笑うかもしれないけれど、この作品に正確に描かれているように、大人がひょっとしたらぎょっとするかもしれない性愛もちゃんと含まれているし、全身全霊を挙げて入れ込むような炎のような愛情の強さも激しさもあるし、しかも透明で清冽なことはその後二度とそういうところへは戻ってこれないような自分自身のありようでもある・・・
ただ、そこまでくると、もうこれはただアドレッセンスへの別れを歌い上げた作品にとどまらず、人が人に出会い、愛する上で、たとえばこの少年はもう10年早く生まれていれば、確実にこの「お姉さん」に一人の青年として愛を告げたはずで(笑)、愛する人とそんなふうに、宇宙的時間でいえばほんの一瞬に過ぎない時間のずれによって、ただちに思いを満たすことができず、「お姉さん」も、そしてまた幼き日に彼女を愛した自分自身もまた、ただ永遠の時間の彼方へ去っていくだけ、すべては過ぎ去っていくだけです。でもそのたったひと夏の、一瞬の出会い、ほんの10年のずれが自分にはどうすることもできない状況をそのままに、素敵な出会いをして、また別れていかなくてはならない、こういう構図というのは、アドレッセンスとの別れはただ一度きりかもしれないけれど、私たちの人生に幾度となく訪れるでしょうし、ひょっとしたら私たちの人生全体の構図そのものなのかもしれません。・・・映画をみおわったあとの、切ない気持ちがそういうところまで感じさせてくれます。
この作品のお姉さんのキャラもとても素敵です。10歳の私でも彼女に心を焦がしたでしょう。実際の女優さんが演じたとしたら、決してそうはならないでしょうが、アニメの透明な線と質感が、少年にとってのこの女性のそうあるべき魅力を最大限に表現しえていたと思います。
蒼井優とか西島秀俊とか竹中直人とか、声優をやっているキャストがすごい(笑)。きっと原作や脚本を読んでそういう今を時めくような旬の俳優さんたちがむしろ自分から喜んで声優を買って出たのではないかと想像(空想)します。最後に思わず涙しているラストに聴こえてくるのが宇多田ヒカルの歌う主題歌「Good Night」。それらのスタッフに値する作品になっていると思います。
「特集」の方の、この作品にいたるまでの短編にも、「フミコの告白」のようにスピード感のある面白いアニメがありました。また雨が永遠に降り続いて高台に移住したら、下の世界にロボットみたいなのが棲みついて、幼い子がその世界へ降りていってそのロボットと交感するアニメも私は好きでした。
この石田祐康監督特集や濱口竜介監督の「寝ても覚めても」に至るまでの作品、あるいはこれからの三宅唱監督の作品の連続上映のように、ひとつの主要な作品を上映すると、その監督のシリーズの特集を組んで見せてくれるのは、メジャーな映画館ではありえない、出町座の素晴らしいところです。いま出町座は若い人がいっぱい集まってきています。無理もないと思う。ほんとうに企画が、こういうのがいま見たいな、と思えばまさにそれを見せてくれる。こういう見方がしたないな、と思えばまさにそういう見せ方をしてくれる。
先日、ロベール・ブレッソンをビデオで見て、彼の映画で女優デビューを果たしたアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説「少女」を読んで、プロの作家になった人だけに単なるもと女優の私小説にとどまらず作品としてすごく面白かったので、この人のほかの作品も読みたいな、と思っていたら、昨日映画の始まる前に出町座のカフェの背面にある書棚を見ていたら、ちゃんと彼女の作品の邦訳本が2冊並んでいました。誰や?こんなイキなはからいをするやつは!(笑)。もうわが家には本を持ち込んではいけないのに、また買ってしまった!
Blog 2018-10-13