「弓」(キム・ギドク監督)
2006年の作品です。この作品は今回初めて観ました(たぶん・・・笑)。
製作年度をシャッフルしたみたいに恣意的に観ているので、監督がどんな作品からどういう道筋を経て最近の作品に至ったか、というようなことは全然考えることもできず、見てすぐに忘れないうちにメモがわりにいきなりブログに思い付きで書いているので、映画の観方としては見当はずれなものが多いかもしれません。
さてこの「弓」の主役はハン・ヨルムという女優さんで、老人にボロボロの釣り船に10年間囲われている少女の役。彼女は私が感動した「サマリア」で窓から飛び降りて死ぬ女子高生役だった女優さんのようです。あの作品での演技も素晴らしかったけれど、この作品で彼女はその魅力を最大限に発揮してくれます。
彼女は言ってみれば神に仕える巫女のような存在ですが、それにしては(あるいは、だからこそ、というべきか)ものすごく色っぽい(笑)。釣り客に送る流し目や、重要な役どころになる青年に送る視線は、ときに無邪気な少女そのままでありながら、ときに少女とは思えないまことに艶な表情で、これで男が気を惹かれてはならぬ、と老人に矢を飛ばされてはたまらない(笑)。
タブーだからこそ、魅力がいや増しに増す、というところもあるでしょう。女性でありながら触れることを禁じられた、そのような存在というのは、神の花嫁にほかならないでしょう。でもそのことはずっと伏せられているので、老人が世間の男たちとはまるで違った行動原理を持っているらしいことは分るので、単なる変態的異常者でないだろうとは思っても、青年らの見る通り、自分の身勝手な欲望なり空想なりによって娘の人生を支配し、これを奪い続けている許しがたい存在にしか見えません。
老人自身と老人と少女との関係が浄化されるのは最後の最後で、他者としての青年の介入によって、少女の幸せが自分を離れて青年と共に船を出ていく選択にあることを自身の弓占いで知った老人が、二人が小舟で去るのを容認しながら、自死を図り、それに気づいた少女が引き返して老人のもとにとどまり、老人が望んでいたとおりの結婚式を挙げて小舟で出て行き、初夜の作法通りに振る舞う中で、老人は弓とも楽器ともなるその胡で美しく優しい曲を奏で、白衣の少女がうっとりと目を閉じて寝衣に横たわって眠るのを見て、老人は天に向けて矢を放ち、矢は蒼穹に消えていきます。老人は船の舳先に立ち、入水します。
小舟は青年の留まる船のところに還り、小舟に横たわる少女を見て小舟に移る。少女は眠ったまま、神と交わるごとき肢体の動きを見せ、呻き声を挙げ、青年が驚いて少女を揺り動かしたとき、天から戻ってきた矢が少女の下腹に広がる白衣の裾に突き刺さり、初夜の儀式の後のごとく白衣は血で染まります。
この韓国式の結婚衣装とフォーマルな結婚式の模様は、とても興味深いし、美しいシーンでもあり、そこからこの矢が舟底に突き刺さるまでのシーンは明らかに神と巫女、神の花嫁としての少女との交わりを象徴的に示す映像で、老人は身を投げることで浄化され、神になる、と考えてもあながち見当違いとは言えないでしょう。
そこから振り返れば、一貫して伏線が張ってあり、弓は武器として少女に近づいて聖なるものを世俗の手で汚そうとする者を厳しく退け、少女を守る神の鉄槌でもあり、同時にそれは楽器としてこの世のものとも思われない純粋で深く優しい浄土の音楽のような楽曲を奏でる愛の小道具でもあります。世俗の目から見れば老人の少女への想いは、邪まな老人の身勝手な欲望にすぎませんが、そうした世俗の目では理解不能な、神の世界に属する至高の愛だと、この作品は言いたげです。
そういう解釈は容易だし、作り手の方も、そういう方向で観てほしいというヒントを次々繰り出しています。でも、私はこの映画は監督が意識しているかどうかは分からないけれど、真に背徳的な作品だと思います。それはこの老人と少女の世界を寓話として読むなら、作り手がそう読ませたがっている神の花嫁の寓話ではなく、そいつを地上へ引きずりおろしたときに見える、インセストの寓話として二重に読むべきではないかと思うからです。
もちろんストーリーの設定としては、この船を訪れる客の釣り人たちが何度か訊くように、この老人は少女の「ほんとうのおじいさん」ではありません。
けれども、いまはDNAがどうの、法的にどうの、というような科学や法律の話をしているのではないので、幼いときに拾って10年船の中で起居を共にし、少女の裸身を流し、少女の食事を作ってきた老人が心的に「肉親」でなくてほかにどんな肉親があるでしょう?
そこをいったん呑み込めば、この物語は単に世俗の愛に神のごとき絶対の愛を対峙させて描くような近代的な或る意味で月並みな作品ではなくて、太古の昔、おそらくは人類が始まって以来、文化というものが自然から乖離して以来のタブーの垣根を最初からさりげなく外してしまい、完璧なインセストの実現する世界を、至福の世界として描いている作品なんだ、とは言えないでしょうか。
それは薄汚い話ではなくて、東洋的な浄土の世界でだけ実現しそうな、絶対の愛として浄化され、聖化された形で、それを描きたかったのだろうと思います。そのために小道具としての弓が、武器、楽器、占いの道具などとして巧みに使われています。
ただ、私は前半の老人の描き方は、それなら難があると感じました。もっとラストで聖化されるにふさわしい描き方があるのではないか。少し卑小すぎて笑ってしまうところがあります。釣り人の男たちを嫉妬する老人とか、カレンダーの少女との結婚予定日にハートマークを描き、ペケ印をつけていく老人とか(笑)。
でもまあ、私の空想的な見方にひとつの可能性があるとすれば、愛を描くのにインセストをタブーとしない世界を至福の神の愛のごとき完璧な世界として描くことで、人類のタブーをさりげなくひっくり返すようにして現代の私たちの世界で愛と称するものの姿を根底から相対化してみせた壮大な作品のようにも見えてきませんか?(笑)
老人も少女も、私の記憶違いでなければ、ひとことも発しないのではないでしょうか。占いのところで耳に口を近づけてささやいてはいるけれど、実際の声はたぶんラストシーンでの神との行為の際の少女のよがり声というべき呻きくらいで、ほかは釣り人達の声ばかりです。
これは、先日観た「うつせみ」の男女もそうでしたが、いわば絶対的な愛で結ばれている二人の間には言葉は無用、というのがキム・ギドク監督の根本にあるのでしょう。逆の言い方をすれば、言葉はいつも汚れていたり、空虚であったり、間違っていたり、それ自体が他者を傷つける暴力にほかならなかったりするものだ、と。
神との交合を終えた少女は、きっとただの少女として青年と結ばれ、世俗の少女となって幸せに暮らすのでしょう。神の世界であれ何であれ、インセストの世界は閉じた世界で、少女はそこから出ていかなくてはなりません。青年は彼女が外へ出るのを援けるためにやってきた外部の人間であり、親族的な世界を超えていくために不可欠な他者であったのでしょう。
少女のふだんの着衣やボロ船の壁面に描かれた菩薩像、結婚式の衣装などカラフルで美しく、少女のすらりとした脚をはじめ美しい肢体を、この作品のカメラは見事にとらえていて、そこもこの映画の見どころです。
(blog 2017.7.14)