血槍富士(内田吐夢監督) 1955
京都文化博物館で開催中のヒストリカ国際映画祭のプログラムのひとつ「血槍富士」を見てきました。敗戦後も中国に1944年までとどまって復員した内田吐夢監督が、井上金太郎監督(原作、脚本も)による「道中悲記」(1927)のリメイクとして撮った、13年ぶり、戦後初の作品だそうで、企画協力として伊藤大輔、小津安二郎、清水宏の名が記され、撮影は吉田貞次。1955年公開、94分のモノクロ映画です。
主人公は片岡千恵蔵演じる「槍持ち」の権八で、加藤大介演じる仲間の源太と共に、主人である若様小十郎のお供をして東海道を江戸へ向かいます。前後して道中の街道を行く人は、小間物屋で岡っ引きでもある伝次、身売りされるために父親に連れられていくおたね、芸をさせるまだ幼い女の子を連れた旅芸人の女おすみ(喜多川千鶴)、あんまの藪の市、伝次が泥棒ではないかと疑う大金を持ったあやしい男、じつは女衒久兵衛に預けた娘を取り戻すために銀山で働いて得た大金を懐に急ぐ藤三郎(月形龍之介)、巡礼姿の旅人、実は盗人風の六衛門と多彩で、これに権八の槍持ちにあこがれてついてくる少年で親なし児の次郎も加わり、旅は道連れのこのひとたちが、実に豊かな人間味のあるバラエティを見せてくれます。
本筋は、ふだんは本当に家来想いの優しい若様小十郎が、いったん酒が入るとがらりと人が変わってしまい、文字通りの酒乱となって騒ぎを引き起こしてしまうので、権八や源太は彼に酒を飲ませないように監視役をつとめているのですが、堅物の権八の目をかすめて小十郎は本来自分も酒の誘惑を断てない源太を連れ出しては平気で飲んでは騒ぎを起こしています。これが伏線になります。
そして、クライマックスで、やはり権八が宿の裏で子供たち(権八が親しくなったみなしご次郎と旅芸人おすみの娘)が遊ぶ姿を楽しそうに眺めている間に、主人小十郎と源太がまた店で酒を飲んでいるところへ5人ほど威張り散らした武士が二人の女を無理やり引きずるようにして連れて入ってきて隣の席に陣取って騒ぎ、小十郎と源太が差し向かいで飲んでいた席に乱れ入り、小十郎が色をなすと、源太を下郎の分際で主と差し向かいとは身分をわきまえよと罵り、小十郎に対しても、下郎と対等に酒を飲むとは武士の風上にもおけぬと侮蔑します。ここに至って小十郎は怒りを発して5人の侍と斬りあいになりますが、多勢に無勢、源太ともども、あえなく斬られてしまいます。
次郎から報せを受けた権八は主人の槍を手に店へ向かいますが、ときすでに遅く、小十郎は果てておりました。茫然とし槍を両手で天に掲げて仁王立ちの権八。われを忘れて槍を振り回し、5人の侍たちと戦います。槍など実際に使ったこともなさそうな武術は素人の権八、酒樽を突いて噴き出した酒があたりを酒浸しになるなか、5人の侍と無茶苦茶な素人槍術で渡り合い、長い柄の槍の強みで5人のうち4人まで仕留めてしまいます。
なお残る一人と戦う中で相手に槍を握られ、とられまいと争って槍も相手の刀も地面に落ちて、酒まみれ泥まみれの地を争い転がって取っ組み合った末に、槍を再び手にした権八は最後の一人も刺し殺します。刺された武士が手前を向いて格子状の扉にすがりつくように倒れると、その向こうに刺した権八が立っているという構図がこの戦いのラストシーンです。
役人が駆け付けますが、結果的には主人の仇討をしただけだということと、殺された武士たちの所属する藩へ知らせたところ、下郎に討たれるような武士は当藩にはおらぬ、と返事があったとかで、権八はおとがめなしの放免。小十郎の遺骨を遺骨箱に入れて首にかけ、権八はまた旅立っていきます。なお槍持ちになりたい、連れて行ってと頼む次郎をしかりつけ、槍持ちなんかになるんじゃない、と言って一人去っていきます。
こういうメインストーリーに、巡礼に化けた盗賊風の六衛門が次郎の目撃証言でつかまるエピソードや、預けた娘を取り戻すために大金を稼いで持ってきた藤三郎が、娘は死んだと聞かされて絶望しながら、たまたま久兵衛に30両で買われていくおたねを娘のために貯めていた金で救ってやるエピソードなどがからんで、とても豊かな人間模様を創り出しています。権八らを温かい目で見ていて、つかずはなれず、主人の貸してくれた印籠を忘れて来たのを届けてくれて助けの手をさしのべたり、ほっこりした時間を権八と共有したりする旅芸人の女おすみが、非常にいい感じです。
祭りの路上で三味線を弾き、歌って、幼い娘を躍らせ、多くの見物人を集めているシーン、そして、権八とともに、次郎と、仲良くなった娘とが一緒に遊ぶ姿を笑顔で眺めているシーンは、この映画の中でも、非常にいい場面です。
時代劇として異例なのは、主役が下郎の槍持ちなので、自分に剣術槍術の心得があるわけでもなく、最後の決戦も、ただ主人を殺されて我を忘れ、死に物狂いで槍を振り回しているうちに仇の武士たちを殺す結果になっただけですから、なかなか首尾よく突くこともできず、酒樽に槍が刺さって酒が噴き出したり、槍が庇につっかえたり、突くというより振り回して敵を近づけず、バタバタと叩いて反撃したり、という無茶苦茶槍術。リアルと言えばリアルだし、様式的な殺陣のような美しさはないけれど、敬愛する主を殺された権八の切実な気持ちが伝わってくる立ち回りでした。
内田吐夢らしい、身分制を否定するような言辞を小十郎に吐かせたり、ラストでも槍持ちになりたいという次郎を叱りつける権八の言葉などにもそういう思想が現れています。小十郎は酒が入ると人が変わって酒乱になって問題を起こす、という伏線は十分すぎるほど張られているけれど、最後に5人の武士たちと斬りあうことになるきっかけは、決して酒に溺れての酒乱ゆえではなくて、主人だろうが下郎だろうが同じ人間、それを侮辱し、またそういう考えを侮辱して、武士という特権的身分を背景に威張りしhらしている輩への怒りゆえであることは明らかで、最後は酒乱の若様が引き起こした事態というのではありません。そこに監督の主張があったのでしょう。
最後に宿を出て皆に別れを告げる時の彼のいでたちは、主人の骨を白い箱に入れて首から掛けて前で支えているというもので、私たちが敗戦直後によくみた戦友の骨をもちかえる復員兵の姿であったり、戦争で死んだ身内の骨を抱いた残された家族の姿であったり、そういうものと重なってきますし、ラストで流れるのが「海ゆかば」だというのも、戦争が落とした影には違いないでしょう。
でもそういういかにも、という戦争の影が感じられるようなところよりも、この映画にふんだんにしつらえられている滑稽味。可笑しみの要素が私にはとても楽しかった。内田吐夢の作品を語るうえで、きまじめな社会派的な思想性を取り出すことは誰でもやっているけれど、同じようにあきらかな彼のユーモアについては、それほど強調されないのはどうしてなんだろう、と思います。
街道でのんびりと野点をしている殿様がいて、旅人たちがみな足止めを食っている、そこへ同じような大名行列が来てぶつかるけれども、3人の大名たちが仲良くまた野点をして楽しんでいる、あの場面はとてもユーモラスだし、権八と次郎とのやりとりの中にもいっぱい可笑しいところがあって笑わせます。小十郎が酒を飲んで酒乱の悪癖を発揮する場面で餌食になりそうだった赤鼻の旅人3人組なんかも道化の役をしていました。
千恵蔵と言う役者は、こういうちょっと軽妙な滑稽味のある役どころもこなせる幅の広い役者さんだったようで、メインストリームは悲惨な話で、主人へのロイヤルティでは生真面目この上ない忠義物で堅物の権八ですが、その堅物であるところが、対蹠的に柔らかな旅芸人おすみや、やんちゃな少年次郎によって相対化されて、たくまざる滑稽味をかもしだすところが、この映画でも魅力のひとつになっていると思います。
やっぱりこの映画も大きいスクリーンで見て良かったな、と思いました。最初の街道を行きかう人々をとらえていた映像だけ見ても、あぁいいなぁ、と思えました。
Blog 2018-11-3