「祇園囃子」(溝口健二監督) 1953
昔おなじ溝口の「祇園の姉妹」は映画館で観ていましたが、「祇園囃子」のほうは見ていませんでした。「祇園の姉妹」ももう忘れてしまいましたが、色街での自分たちの境遇の理不尽に抗うような、割と強い女性を描いた印象があって、戦前の映画としては珍しいな、と逆に、靴下と女性が強くなった、などと戯言が言われた戦後の作品のような印象を持っていたのですが、それは錯覚で、もろ戦前の映画でした。
他方こちらの「祇園囃子」はその理不尽な境遇にいわば屈せざるを得ない女性をいわば美的な情緒と切なさの感情でオブラートにくるんでしまうような描き方をした作品なので、こっちのほうがむしろ戦前の映画のような気がしてしまいました。でも、こちらはまぎれもなく戦後の、監督自身がその重要な支え手であった日本映画のひとつのピークをなすような黄金期の映画なのですね。
文学にも映画にも、昔の作品をとりあげて、いわばポリティカル・コレクトネスの立場みたいなものから、その登場人物や人間関係の描き方のうちに女性差別や様々な差別的な観点やセリフや設定が見られるのを取り上げては批判するという一つのムーブメントがあるようなので、そういう流れからするとこの作品などは問題が多くて、いろいろ批判されそうなところがあるかもしれません。
ここに登場する木暮三千代演じる祇園の芸妓と彼女を姉さんと慕い、舞妓になりたいと身を寄せる若尾文子演じる少女とが、色街のしきたりと権力関係の中で、姉が妹を想う気持ちから借りた重い借金が足かせとなって、自分の意志に反して、色街を支配する置屋の「お母さん」の仲介する「旦那」の利害を決する権力をもつ役人に身を任せて屈服せざるを得なくなるという話で、本来的には非常に後味の悪い物語です。
ただそういう境遇の中で世間知らずの妹をかばい、そのために身を犠牲にする姉の愛情やどんな相手であれ人間としての義理を果たすというような或る意味では気っ風のよいところ、そして理不尽さに耐えて色街で支え合いながら生きて行こうとする姉妹のけなげさ、哀れさ、切なさが観客の心を動かすような映画です。
この作品では木暮美千代が素晴らしい。彼女がこんなに魅力的に見えた映画は私の乏しい経験の範囲では初めてで、その演技力にも心を動かされました。また、世間知らず、恐いもの知らずで、無鉄砲をして、結局自分が頼り切っている姉に迷惑をかけることになるアプレゲールの舞妓若尾文子もいい。
そして、脇を固める置屋のにくたらしい婆を演じる浪花千栄子がすばらしい。あの権柄ずくの物言いと表情は見終わってからも強烈に印象に残ります。若尾文子の父親で、いまは落ちぶれて、保証人のはんこも断ったくせに後に木暮のところへ金の無心に来るどうしようもない父を演じた山形勲もまた、とてもほかの映画で見る悪役のあの山形勲とは思えない演技で、驚きました。
祇園の風景がまた素晴らしいカメラでとらえられています。宮川一夫のはずだから、やっぱり違うな、と思いました。最初の若尾文子が右手前から姉さんの所を探し探し行って、むこうから大原女のような物売りが手前へ降りてくる、あの冒頭のシーンからしていいですもんね。
Blog 2018-9-24