月曜日のユカ

(中平康監督)

「月曜日のユカ」(中平康監督) 1964


    これは「狂った果実」と同じ中平康監督の映画ってことで、まだ見てなかったので今回観ました。


    主演のまだ若い加賀まりこが演じているのは、可愛いけれど、ちょっと頭が弱いんじゃないか、といいうのか、頭のねじが、1本か2本外れている感じの女の子。若い恋人もあるけれど、彼女が「パパ」と呼ぶ中年のおじさん(加藤武)のパトロンがいて、彼女は母親から幼いころから「女は男を喜ばすために存在する」と言われて育った子なので、男に尽くすのが信条で、ひたすらパパを喜ばせようといつも考えています。

 ところがある日曜日、パパが自分の家族と一緒に人形店にはいっているのを目撃し、そこでパパが実の娘に人形を買ってやるのをみて、そのときのパパの嬉しそうな表情を見て、あんなに嬉しそうなパパの表情は見たことがない、わたしもパパに人形を買ってもらって、パパの喜ぶ顔がみたい、とちょっとピント外れの思い込みに没頭してしまい、月曜日にしか会えない愛人のユカは、月曜日にパパに人形を買ってもらったという場面を演出しますが、もちろんパパはあんな嬉しそうな顔は見せてくれません。

 そのパパは仕事の関係で、ユカに関心を示した外国人の船長にユカを提供する約束をします。それを聴いたユカの若い恋人修は怒り、ユカを叱責し、酒に酔ったあげく船長を襲って逆に殺されてしまいます。

 パパは船長との約束どおり、ユカを船へ連れて行きます。ユカは誰とでも寝ることに抵抗はないけれど、たったひとつ、キスだけは絶対にさせないという戒律を守っていたので、ここでも大声で叫んで抵抗しますが、たぶん力では抗する術もなかったでしょう。しばらくして彼女は船から出て来て、とにかく船長のご機嫌をとれたと喜ぶパパと波止場へ行きます。

 そしてユカに感謝し、喜ぶパパと波止場の倉庫の脇の空間で踊ります。踊っているうちにパパは手を振りほどかれて、海へ落下してしまいます。彼は泳げず、ユカに助けを求めるけれどユカは無表情に見ているだけで、その場を立ち去っていきます。

 こんなストーリーですが、たしか当時、このまだ新進女優だった加賀まりこは「小悪魔」というような形容詞で呼ばれたんじゃなかったかと思います。かすかな記憶があります。


 たしかに彼女はコケティッシュな女性です。でも、いま見ると、自分で何か悪意をうちにため込んで、相手を誘惑し、堕落させたり、復讐するとか、そういう印象はほとんどありません。誰とでも平気で寝るし、恋人がいても同時に中年のパトロンに飼われているような状況にもあっけらかんとしているようにみえます。娼婦のようにできるだけ自分の肉体を高く売ろうという魂胆もない。むしろ相手が中年のパトロンであっても、精一杯尽くして喜ばせようとし、その男の喜びが自分の喜びだと感じる純粋無垢なところのある女性として描かれています。

 いま見ればそんな女性がいるわきゃないよ、と思われるだろうし、なんだか非現実的なありえない話や人物のように思えるでしょう。
 でもこの映画がつくられたころ、ちょうど私は大学へ入ったころなのですが、郷里の広島へその冬だったか帰って広島駅のすぐそばの路地を東へ入った小さな飲み屋で同期の友人と二人が尊敬していた一つ上の先輩に誘われて夜になって飲見に行ったのですが、行く途中にほんとうに広島の看板としての駅のすぐ脇にまだ沢山の女たちがたむろして焚火をたいてあたりながら、通っていく私たちに声をかけてきました。


 戦後の復興期をようやく終わって経済の高度成長期に入ろうという時期でしたが、そういうところは比較的大きな都市の結構人の集まるような場所でも一歩路地へ入ればたくさんあったし、ユカの母親のような生き方をしてきた者が生き延びていくための自分だけのモットーだか戒律だか、そんなものを編み出して、生臭いものをそぎ落として子供にもなにか透明な心の羅針盤みたいに手渡していたなんてことは、ありえないことではなかったような気がします。

 そんな母親に育てられて、どんな男に体を開くことにも格別の抵抗はなく、モノのように自分を所有し、思うままにするパトロンにも、自分の自我や人格が透明なものであるかのように、ただパトロンのために奉仕し、その喜びを自分の喜びとする、というふうになったのがユカで、もちろんそこに娼婦的な金銭欲さえないのは、彼女が頭のねじが1本か2本外れている設定のもとで、ドストエフスキー的な白痴としてその行為も身体も聖化され、浄められているからでしょう。
 
 こういう彼女の無垢は逆に、周囲の醜悪さを際立たせることになります。家族の幸せを絵に描いたようなパトロンの人形店での家族との光景が、どんな背景とつながっているかが鋭く対照されています。同時にそれはユカのありえないような「勘違い」を露呈させ、ラストにいたってユカ自身がパトロンと自分の関係を、また自分が母からうけとり、後生大事にしてきた透明な羅針盤を投げ捨て、根底から火繰り返さざるをえない結末へ導くことになります。

 さきほど私の学生時代にもまだ、こういう女性がそこらにいても不思議はない空気は残っていたようなことを書きましたが、では果たして今はそんな空気はすっかり消えてしまったと言えるかどうか。パトロンがユカを提供する自分より強い立場の権力が欧米人らしい船長なのは、当時として自然な設定でしょう。具体的な存在としてこういう船長もパトロンもユカもいなくなったかもしれません。でもどこかその痕跡が、空気が、見えない関係が、いまも影のように尾を曳いているようなことはないか、とふと思ったりします。

                            Blog 2018-9-5