騎士団長殺し(前触れ)
きょうは出勤途上に『騎士団長殺し』2巻を買って、早速車中で読み始めました。きょう発売で大層に宣伝していました。読んだのはまだほんの80ページちょい。速読は3,888円(税込み)がもったいないからゆっくり読む(笑)。でも面白い。赤いミニに乗ってやってくる二人目の人妻との情事の場面の会話なんて本当に素敵で笑ってしまう。
「ぼくにはとても新鮮に見えるけど」
「ありがとう。そう言われると、なんだかリサイクルでもされているような気がしてくるけど」
「資源の再生利用?」
「そういうこと」
「とても大切な資源だよ」と私は言った。「社会の役にも立つ」
彼女はくすくす笑った。「正しく間違えずに仕訳さえすればね」
そして我々は少し時間を置いてから、もう一度資源の入り組んだ仕訳に意欲的にとりかかった。
なんの話だけ分かります?(笑)
この作家の30代半ばのころの分身のようなキャラの主人公。あまり人付き合いのまともにできそうにない、どこか人に背を向けて、硬い殻をもって自分の世界に閉じこもって他者を拒否するようなところのある、したがって他者への言葉は淡々として繊細でユーモアがあって温かく見えるけれど、実はとてもクール(冷たい)、というか不感症的な人間、どうってこともない空っぽの男なのに一種の時代好みのスタイルが身についているために、孤独のポーズが女性を引き寄せるような男、だから悔しいけど女にモテて、すぐベッドインしちゃう(笑)そんなひどいやつが相変わらず物語の中心にいて彷徨しています。
ちょうど漱石の後期の作品を読むといつも、何で食っているかわからないような、高等遊民的にみえる頭でっかちというのか心でっかちというのか、そんな若年寄り的な非行動的な青年が精神の彷徨を繰り返しているようにみえるのと同じなのでしょう。
こうして細部を楽しんで、先がどうなるかさっぱり分からない、たぶん書いている時点で作者にもさっぱりわからない、そんな楽しい小説が読めることはめったにないから、やっぱり何年ぶりの長編だとかPRしているのは村上春樹に関してはそれだけ待つ甲斐があるというところでしょうか。
村上春樹『騎士団長殺し』を読む
発売日に買ってすぐ読みだして、なるべくゆっくり愉しんで読もうと思っていましたが、結局途中でやめられず、だいぶ前に読んでしまって、なにかこのブログで感想でも書きたいと思って机の横に積んでおいたのですが、だんだん億劫になってきました(笑)。
別に書評家でもないので、書かなきゃならないわけでもないし、読んで楽しめたらそれで充分。今回もとても面白かったし、或る意味では分かりやすく思えました。加藤典洋さんによれば「村上春樹は難しい」(岩波新書)らしいから、深く読めばそうなのかもしれません。
深く読まずに(笑)さらっと読めば、これは最初からコキュの話だなってすぐわかってその線で読んでいけますね。寝取られ男。
イケメン男に最愛の妻を寝取られて、青天の霹靂のごとく大ショックで呆然自失。車を駆って北国まで出かけ、どの町や村へ行ったかも定かには覚えがないようなありさまで、ようやく落ち着いた先が友人の父親の屋敷で、この父親が主人公と同じ画家、それも著名な日本画家で、もともと洋画家だったのに戦中のヨーロッパへ行ってウィーンで反ナチ組織に関与して捕まって恋人を殺されたり自分も拷問を受けた後、過去を封印されて送還され、日本画に転向した曰く因縁をもった画家。いまは病院で死にかけているこの画家の家に友人の好意で逗留することになり、そこで絵を描きながら妻を失って負った傷を癒している。
そんな日々に画家が屋根裏に隠していた「騎士団長殺し」なる奇妙な絵を見つけ、また、裏山の社のそばにあった奇妙な穴の底から聞こえる鈴の音に導かれて、「ご近所」として知り合った、一人で広大な屋敷に住む免色という男の計らいで穴を掘り、鈴を取り出すと、ますます不思議なことが次々に起きます。やがてその絵の中の騎士団長の姿かたちを借りた「イデア」が姿をあらわすあたりから物語は非現実の世界を彷徨い始めます。それは作家の頭の中の一寸先も分からない手探りの彷徨の世界へ我々を巻き込んでいくようなところがあります。
まあこう要約的に書いたって、読まなきゃこんな荒唐無稽な話をしてもわけわかんないでしょうから、この辺でやめますが、へんな言葉づかいのこの騎士団長が登場して、なかなか話がぶっ飛んで面白くなってきます。「私」が絵を教えている教室の生徒でもある、免色とのイワク因縁のある少女が実に思春期の少女らしい、とても扱いにくく同時に魅力的なニンフェットとして描かれています。まだ小さな胸のことを二人の秘密のように「私」と話す少女を淡くコケティッシュでありながら蕾のような可憐さで描いていく、この作家はこういう人物を描くのはとてもうまいなと思います。
ついでに言えば、或る意味であからさまな会話が、実に気の利いた品の良い言葉のやりとりとして描かれていて、この少女に限らず情事の相手である人妻との会話にしても、会話の部分がとても素敵なのはこの作家のほかの作品と同じで、読んでいて楽しい。
少女は少女なりの冒険に挑み、「私」は「私」で迷路を手探りで彷徨い、あやうくダウンしそうになりながらも、頑張ってこの少女の危機を救うことによって、自己回復を遂げていく、というのが、乱暴なあらすじの紹介になる?・・でしょうか(笑)。
なんでそうあっさり元の鞘に戻れるの?出て行った奥さんは子供まで生むのになんで?「私」の夢の中でイデアとして受胎させた子らしいのでまるでキリストなんですけど、この子はどうなるの?「私」はせっかく単なる肖像画ではない絵を描くことで自己回復したと思うのだけど、そんな絵を捨てて「単なる肖像画」を描く商売画家に戻るってのはなぜ?(これは加藤典洋さんも新聞の書評家何かで書いていましたが)等々、色々疑問はあって、加藤さんによれば、それは第3部、つまり続編が当然あることが前提とされているから、なんだそうです。また4年だか7年だか待たされるんじゃないでしょうな。私はそれまで生きてるかどうか分からん後期高齢者なんだから、書くなら早めにお願いしますね。
Blog 2017.3.26