祇園の姉妹(溝口健二監督)1936
これは以前にも京都文化博物館で、たしかまだちゃんとしたホールがなかったころに見たことがありますが、今回も同じ文博の立派なフィルムシアターで見せてもらいました。
最初に見た時は、これが溝口の代表作と言われるものなのか・・・ん~・・・という感じで、正直のところそんなに素晴らしい作品なんかなぁ、と思ったのをかすかに覚えています。
伊藤大輔ではないけれども、社会主義が日本の映画人の間でも時代の流行のようにもてはやされた時代の「傾向映画」とどこが違うのか、たしかに祇園町の世界がとても的確にとらえられてはいるようだけれど、旦那たちに色香を商品として生きる芸妓が男性たる旦那たちと情を結ぶようにみえて結局は性的な慰み者としてしか扱われず、姉のようにどれほど情を尽くしても簡単に捨てられるだけで、そういう姉に反発する妹のように状況に精一杯抗ってみても厳しく跳ね返されて一層深く傷つけられるだけ、というのを祇園の姉妹芸妓の目を通して、いささか短兵急に描いている、社会派みたいな作品だなぁ、と思っていたのです。
かつての旦那でいまは店が倒産して落ち目になった古沢に情をつくす古風な姉「梅吉」と、女学校出のドライな現代娘である妹「おもちゃ」とを対照的にして旦那との関係をくっきり浮かび上がらせ、結局は同じところへ帰着していくことでその「問題」を描こうとした、その筋書きにも、やや図式的なところを感じていました。
今回再見して、前には筋書きを追うことであまり深く気づかなかった、旦那たちとこの姉妹のやりとり、とりわけ妹の「おもちゃ」と彼女が言いくるめて姉の旦那にしてしまい、その着物を買わせることにも成功する呉服屋の旦那との丁々発止のやりとり、そのセリフと演技のすばらしさには舌を巻くようなところがあって、登場人物の風情や彼らが行き来する祇園の小路の光景、屋内の光景にもとても惹かれました。
しかし、やっぱりはるか以前に見たときの物語そのものへの多少の違和感というのか物足りなさの印象はそう変わりませんでした。
ところが先日、出町座に行ったときに、木下千花という人の分厚い『溝口健二論』というのを見つけてパラパラ開いてみると、驚くようなことが書いてあったので、立ち読みで全部読むわけにもいかず(笑)、ちょっと懐が心配ではありましたが、買ってきて、第4章の「『風俗』という戦場ー内務省の検閲」でこの作品について書かれたところを読んで、私が感じていたことの原因がすっかり氷解するのを感じました。
この作品は当時の内務省から検閲で非常に細かな、しかも映像の表現する意味の大きな改変を伴うような削除がなされ、戦後の占領軍GHQ下のCCD(民間検閲支隊)の手でも削除された箇所があって、前者はフィルムで108m(3分56秒)の切除、後者はどうやら20分もの削除が行われた可能性があるそうで、内務省の検閲後の公開版でも91分25秒あったものが現行版はどれも69分になっているのだそうです。
2割もが削除されて私たちに見る術もない、という事実にまず驚きますが、木下氏はその検閲箇所を当時の検閲資料を精査して明らかにしていて、その結果が示すこの映画の物語の内容自体の改変に関わる部分にはさらに驚かされます。
一番私に衝撃的だったのは、姉の梅吉が妹のはかりごとの結果、情を交わした落ち目の古澤が出て行き、梅吉は彼が自分の意志で梅吉を見捨てて何も言わずに出て行った、と落ち込み、妹の強い勧めで、あらたな旦那に骨董屋の主人をあてがわれ、その主人は「おもちゃ」に梅吉があんたにぞっこんだと聞かされてやってきて、梅吉に「ぶぶをひとつ」と茶を出す場面があります。
そのときの梅吉は、自分が情を交わし尽くしてきたにもかかわらず自分を捨てていった(とおもちゃのはかりごとで思わされている)古澤が忘れられず、彼に義理立てするこころもちからか、新しい旦那に擬せられた骨董屋の主人と間近に向き合って二人きりで茶を飲む場面をちっとも喜んでいる風情ではなく、ほんとうにいやいや、渋々相手をしている、という風だったので、観ている私にとってはこの梅吉は色街の芸妓には普通はあり得ない、純情一途に古澤という男に惚れて、彼が破産しても義理を忘れない古風な情の深い女性、と思い込んでいたし、そう見るのが自然だったと思います。
それはそのように描かれていたし、そこが裏を返せば、パリパリのドライな現代娘であるおもちゃとの対照で、際立っていて分かりやすくはあるけれど、いくぶん図式的に過ぎて、人物造形がいささか単純化されているようにもうすうす感じていたところでした。
ところが、木下氏が指摘している検閲で削除された元のシナリオでは、この骨董屋の主人聚楽堂が「世話さしてくれるか?」と問いかけ、 梅吉がはっきりと「お願ひします」と応える場面が存在したというのですね。そればかりか、その直前の、おもちゃと梅吉との会話の中でも、こんな言葉が交わされているのだそうです。
梅吉「なア、あて聚楽堂さんの世話になろうと思うてんにやけど」
おもちゃ「ほんまか、姉さん」
梅吉「ふん、ほんまや」
おもちゃ「ほんまに」
梅吉「ふん」
おもちゃ「まア 嬉し 姉さんがそんな気になって呉れはって、あてほんまに、こんな嬉しい事あらへんわ、えらいえらい ほんまに姉さんは えらいわ」
これで梅吉という女性の人物像はがらっと変わります。もちろんドライな妹のようになってしまうわけではないけれど、色町の芸妓としての彼女の単純ではない奥行きのある人物像に変わってしまいます。かつての旦那に情を入れ込んで純情一途彼に身も心も尽くして義理立てし、他の旦那には見向きもしない、という単純な人物像ではない。
このほか、おもちゃがたぶらかした呉服屋のおやじ、実は嫁さんに頭の上がらない番頭あがりの婿養子と、彼がおもちゃの旦那になったことがばれて嫁さんとかわす言葉などに、祇園の姉妹の生きる世界がどんなに差別された下層世界であるか、それを甘い言葉には色香に迷ってすぐ惑わされるけれども、旦那たちが一皮むけばどう見ていたかといったことも、検閲で削除された夫婦の会話の中の差別的な表現を含むやりとりで見事に浮かび上がってきます。
検閲によるこれら大幅な削除・改変は、こういう被差別地域の存在、その地域の特定を避けるためであったり、性的にあからさまな事項が映像的に表現されるのを禁ずるためであったり、あるいは内務省の検閲のように、姉梅吉を情と義理に準じるけなげな女性像に仕立てる倫理的要請であったり、理由は様々ですが、こうして指摘される個所をつぶさにみていくと、いま私たちが見ることのできる作品が、いかにもともとの溝口が創り出した作品とは違ってきてしまっているか、戦慄をおぼえざるを得ないほどで、元来わたしは評論とか学者の詮索など関係なく、目の前の作品を見て、どんなに素人でも良い作品は心を動かすところがあり、そうであってこその芸術作品なので、その主調低音が聞き届けられればそれでいい、という考え方なのですが、戦前の作品についてはとりわけそういう素朴な考え方が成り立たない場合があるんだな、ということを思い知らずにはいられませんでした。
オリジナルな溝口の作品では、もっともっと一人一人の人物像に奥行きがあり、単純な対立図式などで読み解けない豊かな人間像が描かれ、また祇園街の旦那衆や芸妓の姿も街の姿も、いまよりはずっと豊かな陰影をもって描かれていたのだ、ということを木下氏の論によって垣間見た思いでした。
blog 2018-11-16