「狂った果実」(中平康監督) 1956
先日亡くなられた津川雅彦さんに敬意を表して、もう一遍見てみよう、と古いビデオが残っていたので取り出して観ました。石原裕次郎がもうすごい人気が出ていたときでしょうけど、この映画は津川雅彦のための映画になっていましたね。ほんとうに初々しくて男前で、映画俳優になるべくして生まれてきたような家族・親類に囲まれてデビューした人だから、主役級の映画が次々作られなきゃ不思議なようなものだけど、人の生涯と言うのはわからないものですね。よくは知らないけれど、その後必ずしも作品にめぐまれなかったみたいで、私などが知っている彼は中年以降の、テレビの大河ドラマみたいなので狸爺の家康や秀吉のような役をやったり、ちょっと助兵衛な、でも陰湿でも粘着性でもないからっと陽性のおじさんや爺さんをやったり、というような津川雅彦でしかありません。
ただ、当時の若者に刺激を与えたいわゆる「太陽族」映画で純粋で一途な青年を演じたこの作品は、そういう後年のキャラとはまるで違って、もう一つのあり得た津川雅彦を想像させるような、素敵な若者でした。同じような映画を私はもう一本だけ見たことがあって、それは佐田啓二が主演の警察もので、佐田刑事の親友の警官の息子で、父が亡くなってからも、純粋一途な警官だった父の気性を受け継いだ若き警官という役柄で、元刑事がやくざの違法賭博グループか何かの見張り役をしていて、昔の掲示仲間を見分けてガサ入れからうまく逃れていたのを、新人だったために津川雅彦演じる警官が見抜けず、手入れを成功させる、という映画で、これが佐田たちの若いころからその世代の息子が成長して警官の新人になるくらいまで、えんえんと警察の家族の物語を追っかける、上映時間の長い映画だったのを覚えています。
昔はあまり日本映画を見に行くなんてこともなかったので、なぜこんな映画をいつ見たのかも記憶にないのですが、ひょっとすると夏休みに親戚に家に海水浴をさせてもらいに泊りがけで行っていたときなどに、浜で大きなスクリーンを立てて上映していた映画のようなので見たのかな、なんて思っています。両親はこういう映画を観るような人ではなかったし、あまりほかの人に連れて行ってもらったこともないし、どう考えても自分で選んで見に行く映画とも思えないので不思議です。でもそのときの津川雅彦の初々しい新人警官の立ち居振る舞いも表情もとてもよく覚えています。タイトルも忘れてしまったけれど、「狂った果実」とそう違わない若いときの作品のはずです。
「狂った果実」は有閑階級の子弟ながらちょっとグレてもいるような連中、いわゆる「太陽族」が葉山だったかどこだったか海水浴場のある海辺の別荘みたいなところで何か面白いことはないかとゴロゴロして無為の時をすごしたり、水上スキーみたいなことをしてエネルギーを発散しているような中で、そういう遊び人としては先輩格の兄貴裕次郎と性格がずっとキマジメで一途な弟の津川雅彦が一緒にそこへきて、たまたま出会ったちょっと謎を秘めたようなところのある、気位の高そうな女北原三枝を見初めて、津川のほうがひとめぼれしてしまい、海で再会すると追っかけることになります。
でも女は正体を明かさず、不思議な女のまま、半ば誘惑するように津川の求めに応じて相手をします。兄貴の裕次郎は自分とは性格も正反対の生真面目な弟が大好きで、彼がのめり込むのが心配でもあり、同時にこの謎の女に興味も惹かれて、彼女の正体を探ります。そしてあるとき彼女が夫と一緒のところを目撃し、彼女が既婚者であることを知り、彼女にまぁ弟をからかうのはやめろ、みたいに直接警告するに及ぶのですが、そうこうするうちにミイラ取りがミイラになって、彼女と関係をもってしまいます。
そうして津川が女と待ち合わせて友人のヨットを借りて遊びに遠出しようと約束していたのを知って、裕次郎は先回りしてヨットを借り出し、女を拾って海へ。それを知った津川はモーターボートで彼らを追い、ついに夕暮れ近い海で2人のヨットを発見します。そして2人のヨットの周りを、ぐるぐると何度も何度も回ってボートを走らせ、ついに・・・と衝撃のラストへ。
こんなふうに、もともと仲の良い兄弟が女の登場で三角関係になって、というありきたりの話ではありますが、登場人物のほとんどが、ピチピチした若者たちで、いまの若者のようにクールでもなくスレてもおらず、既存の秩序からはみ出た若者たちではあるけれども、汚れておらず、しらけてもおらず、熱いところがあって、純情一途な初々しさに輝いています。
彼らが青春のエネルギーを発散させる方向性を見いだせず、持って行き場がないままに、内輪で暴発させてしまうに至る、そんなお話です。当時の若者たちが自分の心情なり置かれた状況なりを重ね合わせて見るのにふさわしい映画だったことは想像に難くありません。
純情一途の津川雅彦に比べれば兄の裕次郎やその友人たちは、遊びなれたブルジョワのはみ出しドラ息子たちで、頽廃的な日々に染まっているとはいえ、象徴的なのは、最初のほうで彼らが集まってわいわい議論しているときに、既存の知識人や評論家・文化人の類をぼろくそにけなすようなことを言い合って同調しているところなどに見られます。いまのこの種のちょっと頽廃的な日々を送るような若者なら決してそんな熱い議論はしないでしょう。それは薄っぺらい議論には違いないけれど、彼らの既成の権威への生理的反発だけはホンモノで、既成の道徳、倫理、組織、規律といったものに反発し、そこからの自由を求めている感覚だけはちゃんと伝わってきます。
そして異性に対しても、まだ白けていないし、熱い想いや求めるものがあった時代の若者たちの姿がたしかにそこにはあります。昔は若さって、こういうことだったよな、と思わせるだけのものはあるのです。
裕次郎や津川雅彦のお相手をする女性というのは、北原三枝です。私は好みの顔ではないせいか(笑)、裕次郎や津川雅彦が驚くほどの美人だ、美人だ、と言い、お熱を上げていく感覚にちょっとついてはいけませんでした。まぁ裕次郎にとっては美人に見えて不思議なかったでしょうが(笑)。
だから、最初津川がひとめぼれするときも、まるで高嶺の花とか深窓の令嬢かも、みたいにはしゃいでも、とてもそうは見えないなぁ、まぁ謎の女ではあるかもしれないけど、と思って見ていました。
むしろ彼女は正体を裕次郎に見破られて、妖婦的に純情な津川を誘惑しつつ裕次郎とも関係をもち、ちょっと睨みのきく女みたいなコワイ表情をするところのほうが、ずっと似合っていました。そういう意味ではこの作品の中で北原三枝はなくてはならない役を巧みにこなし、存在感がありました。
そしてラストのシーンは素晴らしかった。モーターボートをヨットの周囲に何度も何度も、ただエンジン音を響かせて疾走させるだけのシーンがえんえんと続くのも、ほんとの最後の最後のシーンも。
Blog 2018-9-5