『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(ラース・フォン・トリアー監督、2000年。デンマーク映画。)
なんといってもビョークの歌、音楽が最大の魅力でしょう。チョコからの移民であるヒロイン・セルマは女手ひとつで12歳の息子ジーンを育て、昼間は工場で機械相手の作業、夜は内職、合間には何よりも大好きなミュージカルの舞台公演をめざしてレッスンを続けている女性ですが、遺伝的な視覚障害者で完全に失明する寸前。息子もその宿命を背負っていますが、13歳になれば手術が受けられ治癒する可能性があるというので、彼女は必至で手術代を貯めるために働いてきたのです。カトリーヌ・ドヌーヴ演じる彼女の無二の親友キャサリンや彼女を愛するジェフなど彼女の障害を知る周囲の友人は彼女のことを心底心配し、支えようとしますが、彼女はどちらかというと、素直にその気持ちを受け入れるのではなく、また遠慮からでもなく、いくぶん性格的な頑なさと現実から逃避しがちな夢想的な資質から、やや意固地にそれらの厚意を遠ざける姿勢をとっています。
こうしてヒロインの資質、性格、姿勢に共感できない人は、この映画に否定的にならざるを得ないでしょう。彼女の強いられている移民で女手一人で遺伝病をかかえた子供を持ち、自分も失明寸前で、貧しい、そういう幾重ものハンディキャップを抱えた女性に同情し、息子を失明から救いたい、という一途な想いからとる行動や彼女の考え方に、息子への純粋な愛を見て肯定的にとらえる人は、この映画にについても肯定的な評価になるのではないかと思います。
実際、このヒロインの考え方や行動を映画の作り手がどう設定しているかは、なかなか微妙なところがあります。見方によっては、彼女は息子のことが第一で、それは母親としては理解できなくはないけれど、自分の置かれた状況や周囲の配慮についてはかなり無頓着で、自分でやれるから、と周囲の厚意に対して意固地に突っ張って見せるけれども、実際には周囲の支えなしには何もできず、現実に彼らの厚意に甘えているにも関わらず、そのことに自覚的ではないように見えるので、自分と息子の世界にしか考えが及ばない、視野の狭い、いわゆる「ジコチュー」な女性にも見えます。
そうしてみると、彼女のミュージカルへの入れ込みようも、現実逃避の一環にすぎないとも言えるでしょう。危機的な状況に追い詰められると、いつも彼女の妄想が始まり、周囲の世界は、自分がヒロインで人々の輪の中心で踊る、ミュージカルの舞台に早変わりします。その幾つかのシーンがこの映画の美学的な意味での映画としての魅力になっていることは事実です。
ドラマとしては、彼女の住むトレーラーの住居の家主である警官のビルとリンダの夫婦は、ビルが大きな遺産を継いだはずだったのが、リンダが浪費家で、とうに破産していて、借金で銀行に差し押さえをくらって危機的な状況にあります。ビルは或る夜、セルマの所へ来て、その「秘密」を打ち明け、セルマも自分の失明に瀕する「秘密」を打ち明け、二人だけの沈黙を約します。ビルはセルマが息子のために貯金していることを知り、後日、自分が苦境にあって自殺も考えている、助けると思ってその金を貸してくれと頼んで拒まれ、或る夜、セルマがもう何も見えない事を利用してセルマのトレーラーから出ていったと見せかけて居残り、セルマが貯金を隠している箱のありかを確認して後日それを盗みます。
セルマがビルに返してもらうために母屋を訪れると、ビルの妻リンダは夫ビルから偽りを聞かされ、自分もビルがセルマのトレーラーに夜になって訪れたことを目撃していたものだから、セルマが夫を誘惑したと思い込んでいて、彼女に出て行けと罵ります。リンダを振り切って2階のビルの所へ行ったセルマが返却を迫り、金を取り戻そうとすると、ビルは金のはいったバッグを離さず、拳銃を持ち出して争い、銃が暴発します。ビルはセルマに自分を撃て、殺せ、と叫び、あくまでも金は自分のものでセルマが盗んだ、と妻に警察に連絡するよう叫びます。もともともう袋小路にはいって投げやりだったビルは撃ってくれ、殺してくれ、と金を手放さずにセルマに迫り、セルマは目の見えないまま拳銃を撃ちますが決定的な弾を撃てず、ビルが金を離さないので、金属製の貸金庫の引き出しみたいなのを振り上げてビルの頭を打ち据えて殺してしまいます。
この殺人のあとふらふらとビルの家を出て、迎えにきたジェフと出会い、鉄道の線路上を歩いて、列車がくるところで例の妄想に移り、川にかかる鉄橋を徐行する列車の上に乗ってそこにいる人々と一緒に歌い、踊ります。ジェフと彼女は歌でやりとりし、前を向いて生きよう、頑張ろうと励ますジェフに対して、もういいの、この世界で、見るべきものはみんな見てしまったわ、と歌うビョークは本当に魅力的で、この場面はこの映画の中で最高に楽しく、美しく、しかも追い詰められ、あらゆる不幸を背負いこんだ不運な女性のたどりついた思いを、天が下に新しきものは無し、われは見るべきものは見つ、という歌にこめて、哀感を誘うすばらしい場面です。
同様に、夜勤まで引き受けたセルマが工場で機械相手にせっつかれて作業のスピードについていけず、機械を壊してしまうようなミスを犯すなど、徐々に失明がばれそうになって、もう隠しおおせないところまで追い詰められているときに、妄想が周囲をミュージカルの舞台に転じ、工場の中のあらゆる機械音がミュージカルの音楽のリズムとなり音色となって加担し、働く周囲の仲間たちがセルマをその輪の中心としていっせいに歌い、踊る、あの場面も現実から妄想の世界への移行が自然で、工場の環境を最大限生かした、すばらしい場面です。
最後に刑場へ引かれていく彼女を支えるために同情的な女性看守がタップでリズムを創り、恐怖に崩れ落ちそうなセルマが再び妄想の世界を取り戻して歌い踊る場面や、首に縄をかけられて恐怖に泣き叫ぶ彼女に、キャサリンが息子ジーンが手術を受けたことを彼の眼鏡を渡すことで悟り、気持ちを落ち着け、彼女の唇から再び歌がこぼれる。「これが最後の歌じゃないわ。みながそうさせない限り」というような歌、そしてバタン、と羽目板が開いて彼女は絶命する・・・
そのあたりの妄想・ミュージカル世界への転換は、列車や工場のシーンに比べると、悲惨さもあるし、移行も必ずしも自然ではなく、楽しくも素敵でもないので、作品的な効果としても疑問がありますが、いずれにせよ、セルマという女性のミュージカルへの入れ込みかたと、現実に追い詰められたときにその世界に転じる現実逃避の必然的なシーンとして、その歌い、踊る人々の仮象の世界が、この先行きのない暗すぎる映画に、せいいっぱいの対照的な明るさ、この女性の生きる意味、希望、肯定的なもののすべてを表現していて、それは成功していると思います。
現実とこういう妄想世界とのつなぎは非常に難しいと思いますが、少なくとも列車や工場のシーンではそれがうまくいっていました。
ただ、この作品、現実の部分だけを取り出してみたときのドラマとしては、まったく不出来だと思います。最初に書いたように、周囲の人々に対する姿勢の意固地さや配慮のなさ、自分の現実への認識の甘さ等々、彼女の資質や性格にはヒロインとして観客が思い入れしにくい点が多く、身勝手な女性で、あぁいう成り行きも自業自得の面があるのではないか、と思わせてしまうというのは、ドラマとしては失敗ではないでしょうか。
もちろん、ただ結末が悲惨で後味が悪いというだけで作品を否定すべきではないと思います。アンナ・カレーニナだった、ボヴァリー夫人だって、言ってみれば身勝手な不倫による自業自得の結末だ、ということになりますが、それでも彼女たちをそこへ追い込んでいく周囲との関係や当時の社会の規範的なありかた、さらに彼女たち自身の心の動きに、すべて納得のできる必然性があって、少しも不自然ではありません。でも、セルマの考え方、言動には、マダム・ボヴァリーやアンナのような、それなりにその立場に立てば観客が身を入れて寄り添っていける必然性が感じられません。
自分が面倒をみるべき息子を抱えているのに、裁判で適切な自己弁護もせず、妄想にふけり、有能な弁護士が再審請求で勝てる、と言う言葉にも、その費用が息子の手術代であったはずの金から出ていることを知ると拒否して、彼女の命を救おうとする友人キャサリンの努力も無にしてしまいます。
こういう人物造型にはドラマとしておかしな点や矛盾が多いのです。それほどセルマに寄り添ってきて彼女の気持ちを熟知しているキャサリンなら、弁護士に言い含めて、セルマには絶対に金の出所を喋らせるような不用意なことはしなかったでしょう。
また、セルマはいかにも息子ジーンへの愛から、その手術代のために貯めた自分の金を使わせないために有能な私撰弁護人を拒否してみすみす自分を死刑に追いやる決断をするように描かれていますが、常識的に考えて、息子があぁいう状態で取り残されるなら、まず自分が何としても長らえて息子を守らなければ、と考えるのが母親でしょう。
手術は成否も確率の問題だし、またいつそれをしなければ絶対にダメかもそんなに確定的でるはずがない。また、手術もそのためにためた自分の貯金が別のことに使われたらもう絶対に出来ないか、と言えば、様々な機会があり得るかもしれない。いくらなんでも直線的にこれを結び付けて、死刑への重い道行を納得させるのは無理でしょう。
さらに、もしこの作品のようにジーンの手術代を弁護に使わせないために、命が助かったかもしれないのにみすみすその母親が死刑に追いやられたことを、当の息子ジーンが知ったら、いかに母親の自発的意志だとしても、果たして母の愛をありがたいと感謝し、自分は幸せな気持ちになれるでしょうか。そんなことはあり得ないと思います。
しかも、セルマにそれほど愛一筋の生き方をさせたいと映画の作り手が思ったのだすれば、そのわりには、彼女と息子との関係は、この作品の中で、ほとんど描かれていないのです。ほとんどがセルマの思い込みの世界にすぎず、彼女が息子をいかに愛し、その眼病の発病をおそれているか、そのような母親の気持ちは本来なら彼女と息子との日常的な姿の中に描かれ、観客が自然に納得するようでなければドラマとしてはこういう筋書きにしたので、無理やりそういうことにしました、という以上のものではありません。
自分を陥れて罪を着せ、殺人を犯すにいたらせたビルとのやりとりについても、ビル夫妻の経済的苦境をビルが打ち明けたことを秘密にした生前の約束があるから、と裁判で語らないのも、まったく滑稽なほど不自然なことです。妄想の中でのことなら仕方がないけれど、ここは現実のドラマの部分でのことだから、まったくどうかしています。
こういうドラマとしておかしなところ、矛盾は、言い出せば切りがないほどあります。つまり、妄想に転じて、歌い、踊る空想の世界では意外性も楽しさもあるけれど、彼女を追い詰めてそういう妄想へと現実逃避させるその現実は、しっかりと現実として納得のできる合理性をもって描かれなくてはならないのに、ドラマがいい加減で、必然性も自然さも感じられず、無理に息子への愛情一筋と、ミュージカル好きの妄想癖のある女性ということで、最悪の不運な状況さえ設定すればその妄想に転じる部分が描ける、と考えてでっちあげられた世界であるため、見る側が最後まで腑に落ちない、納得のできないつくりになっています。
Blog 2018年5月27日