愛のむきだし

(園子温監督)

「愛のむきだし」(園子温 監督)


タイトルを聴くとちょっと引いちゃいますが(笑)、新聞で問題作みたいな取り上げ方をしたのを見たのと、「ウェブ上で、これを見ずして映画を語るな」という月並みだけれど、最上級の持ち上げ方をしているのがあったので、じゃ、というので十三の怪しい通りの怪しいビルの6階にある第七芸術劇場へ足を運びました。さながら、昔うちの近所にあった「京一会館」といったところでしょうか。  

さて、この映画、午後2時10分から始まって、終わったのは午後7時すぎだったか、10分の休憩をはさんで、4時間ほど。慢性睡眠不足の上に花粉症の薬と頭痛薬を合わせてのんでいたので、きっと途中で眠くなるだろうな、と思って行ったのですが、これが不思議と少しも退屈しません。面白い!  

が、名作だとは言いません。いい映画だ、とも。なんといえばいいのか、「怪作」とでも言うほかはない、超B級映画。誰かが花田清輝だったかを評した言葉を借りれば、ホームランと見紛う大ファウルといったところでしょうか。  

この手の映画は昔も今もメジャーな映画館で配給で上映されるのではなくて、京一会館のような、近所の主婦なんかからは、「いかがわしいポルノ映画ややくざ映画ばっかりやっていて、目を覆いたくなるようなポスターが貼ってある映画館」で上映されるものなのでしょう。  

映画がテレビに押されて壊滅状態になったときに、才能ある若い監督たちがその種の映画の装いのもとで、映画作りを支えてきたのは記憶に新しいところですが、京都では京一がなくなって、いまはみなみ会館くらいしか、そういうところがないようです。  

この映画、PTAの顰蹙を買いそうな、エロも流血も暴力もみんなあります。性も宗教も家族もごった煮です。だけど、それをみんな包括して4時間飽きさせずに見せてくれるテンポのよさとスケール感があって、それはなかなかのものです。  色々あるけれど、何の映画だと言えば、監督が正直に語っているように、純愛映画で、その点ではまったくウブで純情で、玄人筋に悪評高いセカチューこと、「世界の中心で愛を叫ぶ」と変わるところがありません。  

しかし、泣きどころをいじってもらって泣かせてもらうために映画館へ行く人は別として、いまの世の中で、セカチューのように生真面目に純愛を描くと、どこか嘘っぽい。  

私だって安っぽいお涙頂戴の人情噺でも涙腺はゆるむから、泣きたいときは嘘っぽくてもそういうのを見てカタルシスを感じるのは健康ですが、だからって、その作品が心を揺さぶる名作である、ってことには全然なりません。

この映画はそれとは少々違っています。そういう嘘っぽさに対する恥じらいがあって、嘘だよ、ジョーダンだよ、ありえねぇよ、大法螺に決まってんだろ!と公言しながら話をつくっていきます。  

最初に「この映画は事実にもとづいている。」というような断り書きが出てきます。映画を見てこれを思い出すと笑えてきます。これはきっと監督のジョークでしょう。  

近年ヒットする映画やTVドラマの多くがマンガを原作にしているのは周知のことですが、この映画もいわばギャグマンガないし劇画の仮構線をベースにしています。  

といっても、マンガが原作というわけではなくて、原案・脚本も園子温とあるので、監督自身がオリジナルなアイディアをあたため、自分で脚本も書いて撮っているわけです。

でも、明らかにストーリーの展開、登場人物のキャラクター、彼らどうしの関係、言うこと為すこと、すべてマンガ的です。別に否定的な意味で言っているわけではありません。リアリズムで撮っている映画ではなくて、マンガ独特の単純化や誇張や飛躍やギャグがふんだんに使われているし、設定そのものがマンガ家が考える舞台装置や人間関係やキャラクター設定と同じ水準で、マンガの主人公が動き回るような世界を最初に仮構して、その中で登場人物たちを動かしている、という意味です。  

個々にはいくらでも証拠を挙げることができます。まずはいまどきの日本でキリスト教信者(牧師)の家庭で・・という設定から、これはもうリアリズムの世界ならありえない、まともな監督ならぜったい避けるであろう設定です。  この作品から、キリスト教がどうとか宗教観がどう、というようなテーマを引き出そうとするのは馬鹿げています。そんなのは、主人公が実は王家の血を引くお姫様で、とか、実は財閥の御曹司で、なんてのと変わらない漫画的設定に過ぎません。むしろ、大真面目に演じているけれど、一見してそれと分かるチャチなインチキくさい「マンガ的」設定でさえあれば、良かったのです。  

ああいう親に素直に従って、懺悔のために「罪」を犯す少年(それも「盗撮」!・・笑)という設定を、リアリズムで「ありえない!」なんて考えたらこの映画は成立しません。そういう「マンガ的」世界を作って、その仮構線上でキャラクターを動かし、関わらせるのがこの作品の意図するところだし、現実に対峙しようとする映画の作り手が、いくらなんでもセカチューにはしたくない、と思う意地であり、含羞であるわけでしょう。  

それぞれのキャラの設定も、大立ち回りも、それから盗撮のテクニック(!傑作!)も、女装も、流血も、爆弾も、みんなマンガ的。  

この作品は4時間で少しも飽きさせないけれど、2時間でつくることはできたと思います。また、マンガ的な仮構線を全部とっぱらい、キリスト教も父子関係も盗撮エロもコイケのような意図的な邪悪さも全部消去してしまって、愛する妹なり恋人なりを彼女が自発的に真剣に惹かれていった新興宗教的な組織(イエスの箱舟のようなおだやかなものでもよい)から、取り戻そうとする兄ないし恋人というだけの設定で、この映画と同じ純愛の主題で1本のまっとうな映画をつくることもできただろうと思います。

ただ、そのためには、よほど性根を据えて、人がそういうものに惹かれるのはなぜかを追い詰めて、「純愛」と対峙させるのでないかぎり、セカチュー的なうそっぽい純愛映画になってしまうことは言うまでもありません。  それを回避する一つの方法としては、この映画のように最初から「マンガ的」仮構線を設定してしまう、ということは理解できるような気がします。

それにしても、こういう映画を見ると、なにもマンガを原作にしなくたって、監督自身がもうどっぷりマンガ的感性に浸って育ってきた世代で、マンガ的な世界がこの世界そのものになりきっているんだろうな、という感慨を覚えます。だから、意図してもしなくてもそうなっているのかもしれません。

監督自身が自作を註して、キリスト教がどうの、宗教がどうの、聖と俗がどうの、などと小理屈を言うのを聴くと、創るということと、創った自作を解説することとは全然違うことだな、と思わずにはいられません。創り手が必ずしも自作の最良の解説者で間違うことがないとは限らないのです。そういう意味では一旦創ってしまった作品については、創り手は普通の観客とちがう特権的地位を占めるわけではないと思います。  

さて、この映画のマンガ的世界に入り込んでしまうと、その展開は小気味良くて、役者も生き生きしているし、十分に楽しめます。  

ヨーコ役の満島ひかりは本当に可愛くてシャープで(セクシーで、はい)、一所懸命役を演じていて一遍にファンになってしまいます。最初にユウと出会う「奇跡」の瞬間の大立ち回りは、よくあるふにゃっとした女優の立ち回りと違って、実にカッコイイし、ゼロ教団に入った彼女がユウに引き戻されて監禁され、逃げ出して砂浜で取っ組み合って、ユウに向かって新約聖書の「コリント人への手紙」を血を吐くような言葉で語るシーンはすごい熱演。

ユウもこれは、はまり役。どこが、というと、「さそり」に化けるところが。女装がこんなに似合って綺麗な俳優もそういないのでは?  そして、一番コワイのは,なんと言っても敵役であるコイケ、こと安藤サクラ。この人が一番ねちっこい存在感がありました。この人だけはマンガ的世界を突き抜けて、こっち側へせり出して来そうな迫力がありました。こういう人が傍にいたらコワイ。  はちゃめちゃな女を演じていた渡辺真起子も、すごい個性的な女優さんだし、ユウの父で神父テツの渡部篤郎も含めて、この作品はいい役者さんを使っています。  

この監督は観客の楽しませ方を知っているし、純愛映画を作っても決してセカチューにはしない含羞の人でもあるようです。  私は自主制作映画を作っているような若い人に、その種の映画によくあるような、ふつうの大人が見て、失笑してしまうようなシーンが一つでもあったら、そんなのはダメだ、ということを時々言ってきました。  

学生などのつくる自主制作映画には、自分ひとりの思い入れがつよくて、本人は大真面目なのだけれど、ごくフツーの大人の観客がみれば、そんな馬鹿な、と感じるようなridiculousなシーン、失笑するしかないようなシーンがたいてい一箇所はあります。  

それは作り手が、自分の作品をまだ客観視できずに、ただ「自分の表現したいことを表現する」という意識に凝り固まって、自分では大真面目になにかの意味を込めたつもりが、客観的に見ると意味不明だったり、単に滑稽だったり、あまりにも幼稚だったり、といったことになってしまうのだと思います。    だから、若い作り手には、フツーのサラリーマンとか世の中でちゃんと仕事をして社会人としてやっている大人が見て、「気恥ずかしくなるような」シーンが一つでもあったら、それはダメだよ、という言い方をしてきました。

さすがにメジャーでプロの作った作品にはそういうところはまずありません。それは作品の良し悪し以前に、彼らは商品にするために、そういう傷は最初からちゃんとなくしておく術を知っているということでしょう。  

どこが違うかというと、作り手に、観客の姿が見えているかどうか、という違いだろうと思います。むろん観客の姿が見えていても、観客に媚びてつまらない映画をつくることもあるし、観客の姿が見えないまま表現して、それが結果的に観客の広く受け入れるところとなる映画もあるでしょうけれど。  

で、この「愛のむきだし」には、そういう意味では「気恥ずかしくなるような」シーンが結構一杯あります。ふつうだと、私はそれだけでダメだ、と判断するところです。でも、今回この映画をみて、少し考えをあらためました。実際、面白かったし、「気恥ずかしくなるような」ところがあっても、ちゃんと見るに値する映画というのはあるんだな、と思ったのです。  

それがなぜか、と考えた結果、私なりの答が、上に書いてきたようなことでした。ほんとなら(従来の私の映画観を厳格に守るなら)、最初にキリスト教が出てきて食事の前に十字を切って、父親の言うことを素直に聞いている少年が出てきたあたりで、映画館を出ても良かったのでした。でも、出てこなくて4時間座っていて良かったと思います。       

blog 2009年03月11日