『鹿男あをによし』(万城目学)
この作品はテレビドラマ化されて人気を博しました。原作は読んでなかったけれど、パートナーがドラマの方をえらく気に入って、面白いというので、ごくたまに見ることがありました。
玉木宏は「のだめ」で、綾瀬はるかは「白夜行」でとても良かったので、パートナーからそれまでの粗筋を聞きながら断片的に見て楽しんでいましたが、やっぱり切れ切れでは面白さがよく分かりませんでした。鹿がしゃべったり、人間が鹿の頭になっていたり、へんなドラマだなぁ、くらいで。
今回、遅ればせながら、出張中の広島で読んで、なるほど原作も大変おもしろい小説だなと思いました。先日読んだ『鴨川ホルモー』と同系の作品ですが、作者の腕は数段進化していることが見てとれます。
若い人は素直に面白がって読んでいるでしょうが、『鴨川ホルモー』の小鬼と同様、喋る鹿の登場に、なに?これ、とつまずいてしまう、東京産の日本的私小説に泥んでこの手の作品に慣れていない読者は、『鴨川ホルモー』のときに私がやったように、天ぷらのエビの身とコロモを無理やり分けてみると分かりやすいでしょう。
鹿と狐と鼠のトライアングルや鹿島大明神など神がかりの話をひとまず天ぷらのコロモとして全部剥がしてしまうと、あとに残るのは『鴨川ホルモー』よりもう少し年長の、青年期に別れを告げる時期にさしかかった繊細で不器用な青年(大学院生)を主人公にした青春小説、ということになるでしょう。
大学の研究室で研究者としての道を歩み始めたところで、この主人公の青年はつまずきます。助手ともめごとを起こし、研究室の中でも居心地の悪い立場になり、神経衰弱に罹っているとみなされて、教授の思いやりなのか、あるいは体よく追い払われるということなのか、二学期の3?4ヶ月だけ、産休教員のピンチヒッターで奈良の女子高校の講師に就くことになります。
神懸りの話をとっぱらってしまえば、そうやって新しい任地で、はじめて社会へ出て、しかも女生徒たちばかりを教えるという慣れない仕事に就いて、新米教師をからかったり反撥したりする生徒の扱いに戸惑い、同僚たちの関西ならではののんびりした気風に戸惑ったりしながら、京都、大阪、奈良の三校で大和杯をめぐる恒例のビッグスポーツイベントで生徒と一体に取り組まざるを得ない経験を通して、次第に生徒とのコミュニケーションがとれるようになり、教師と生徒とのしかるべき絆を形成していく、という、典型的な「青春モノ」にほかなりません。その意味で、漱石の『坊ちゃん』のバリエーション、主人公は軟派の坊ちゃんと言ってもいいかもしれません。
そこへ例によって、この作家独特のコロモがついています。それが鹿、狐、狸と鹿島大明神やらお宝の三角縁神獣鏡やらが登場する神懸りと歴史的な薀蓄で、物語の進行は、この奇想天外な仕掛けによって成立しています。
鹿さんや鹿島大明神の側から見れば(つまり種明かしされた後には)ごく単純な事情とそこからくる必然的な成り行きを、ふつうの人間の側から見るために、分からないことだらけの謎に見え、物語の展開はその謎解きのプロセスだとみることもできます。
読者は主人公の青年と同じふつうの人間として、鹿さんや鹿島大明神の側からもたらされる成り行きに巻き込まれ、その部分的な局面だけを垣間見させられることによって、ずっとwhyという問いをぶら下げ(suspend)ながら、次々に起きる時系列の「不思議な」出来事を追いかけざるをえません。 その「不思議」の奇妙奇天烈さに惹かれ、なぜだ?どういうことなんだ?という謎解きの物語としてのサスペンスがこの作品の一つの魅力だろうと思います。
そして、もう一つの魅力は、コロモをはぎとった青春物語としての魅力。堀井イトが剣道の試合で一人また一人と撃破していくシーン(まるで「あしたのジョー」と力石との死闘)のような、爽やか熱血スポコン青春ドラマと同質の魅力。健全で血わき肉躍るスリルと迫力に満ちた描写ですね。
ふつうの青春モノだと、この若い主人公の教師と堀井イトとは、石坂洋次郎の『若い人』(やその後に輩出したそのバリエーション)のような、濃厚な性愛であれ淡い憧憬であれ、男女の関係にもっていくところでしょう。
でも作者はそうはしていません。あくまでも初めて社会へ出て教員などやらされたうぶな青年の不安、力み、つまずき、戸惑いと、それゆえの、生徒や同僚との間に生じる波紋等々を彼に寄り添って描き、鹿、狐、鼠たちの投げかける謎は、そんな青年の揺れ動く青年期固有のありようと響きあっています。
最後にコトが成就して、一つだけ叶えてもらえる願いに、自分の鹿頭の解除をあきらめて、堀井の鹿頭の解除を選ぶ主人公の選択は、『若い人』流の展開なら、教師と生徒の禁断の恋の責任を自分ひとりで負って辞任して去る、みたいなことに対応するはずだけれど、この作品ではそうではなくて、ただ彼の教師としての堀井への優しさ、思いやりといった印象になっています。
つまり不安や力みや戸惑いで、生徒たちともいい距離をとれず、うまくコミュニケーションできなかった彼が、一緒に一大イベントを乗り切ることで、本来のあるべき教師と生徒の理想的な距離をとるところまできた、というところで物語が終わっています。 魔法を解除する堀井の最後の行為も、『若い人』流だと実は堀井は彼を愛していたんだ、というふうなことになるでしょうけれど、ここではキスに性愛的な意味はなく、堀井もまた、本来の教師と生徒の理想の距離を見出したことを示すだけです。その意味でも、これはとても爽やかな青春小説だと思います。
理屈で海老天の「身」と「コロモ」を無理に分けて書いてきましたが、たしかに『鴨川ホルモー』では、まだこの作者独特の奇想のコロモと中のエビの身とが少しゴワゴワ分かれる感じがありましたが、『鹿男』ではよく構想が練られている感じで、コロモと身がしっくり一体になっていて、違和感がありません
blog2009年03月29日