マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン監督 2016)
マンチェスターというので、あれ、マンチェスターって海のそばだったったけ、なんて思いながら手にとったら、アメリカのそういう名の町なんですね。でも最初はボストンから始まるので、どうなってるんだ、なんて思いながら見ていたら、主人公の故郷がマンチェスター・バイ・ザ・シーという小さな町で、そこが主要な舞台になることがじきに分かってきます。
最初は、ボストンで家庭の壊れ物の修理とか何でも請け負う「便利屋」をしている、無口でちょっととっつきにくそうな、だけど体は丈夫そうな男盛りの年頃の主人公リー(ケイシー・アフレック)が、ちょっといい男なので、仕事で訪れている家庭の主婦なんかに色目を使われ、誘惑されながら、無視したり、侮辱的なことを言って拒絶したりして雇い主から、苦情が入ってるぞ、もっと客に愛想よくしろ、と言われて言い訳もせずにいる様子に、性格的な不器用さと同時に、何か重い過去を背負っているらしいことが感じられます
リーが通りの雪かき仕事をしている最中に一本の電話が携帯に入り、彼の兄ジョーが心臓発作で危篤だという知らせを受けて、故郷マンチェスター・バイ・ザ・シーの病院へ車で1時間半かかって駆けつけます。しかし兄は30分前に息を引き取っていました。そして、弁護士からジョーの16歳の息子パトリックの後見人になることが遺言で要請されていたことを知らされ、驚き戸惑いますが、なんとかやっていかざるを得ないと考えて、彼は故郷の町にとどまり、パトリックと生活を共にし始めます。
パトリックが2人の彼女とつきあったりするのにも、適当につきあいながら、徐々に互いに理解しあっていく中で、何度も過去の情景が挿入されます。その中では、ジョーの船に乗ってリーがパトリックに釣りを教えて一緒に楽しんだりしている光景があります。幼いころからパトリックにとってリーは信頼できる良き叔父だったのです。
またかつてリー自身は愛する妻と2人の娘、1人の赤ん坊と5人の素敵な家庭を持っていた様子も回顧的な映像で出てきます。或る夜、リーは仲間たちを自宅に呼んで大騒ぎして愉しんでいて、妻に何時だと思ってるの?近所迷惑だからおひらきにして!と叱られ、仲間たちを送り出します。妻は先に1階の夫婦の寝室へ行って眠っており、リーはまだ酔いの覚めないままに、子供たちの寝室のある2階で寝入った子供たちの姿を確かめにいき、部屋が冷えるので、暖炉の火を絶やすまいと薪を放り込んでから、飲み物だったか何だったかを買いに、深夜歩いて離れた店へ買い物に出かけます。そして彼が戻ってくると・・・自宅は激しい炎に包まれ、妻は子供たちが2階に居るの!と泣き叫んで暴れるのを消防士たちが押しとどめている光景に出遭います。・・・
これがこの映画の世界におけるリーという男の原点になっており、物語の真の始まりはここにあったわけです。警察の取調室で事情を話し、やむを得ぬ事故として放免された彼は、取調室を出るやいなやそばを通った警官の拳銃を奪って自殺を図ろうとして止められます。
こんなことがあって、妻とは離婚し、リーはこの記憶を喚起する街にはいられずにボストンへやってきて、ひとりで暮らしていたわけです。そのすべてを理解していた兄の遺言によって、遺児パトリックの後見と必要な費用なども委ねられて、戸惑いながら彼はパトリックと共同生活をはじめたのでした。
こうして書いていくと、この作品は、こうして成長した兄の遺児との新たな出会いで次第に心を通わせあうことによって、リーが癒され、自己回復を遂げていく物語になるだろう、と予想されるでしょうし、私も途中で、そうなるな、と結末を予測していました。
ところが驚いたことに、そうはならないのです。この映画のクライマックスと思われるシーンは、リーが偶然に別れた妻と出会う場面です。彼女は再婚者との間にできた赤ん坊をのせた乳母車を押し、友人?の女性と一緒にやってきたところを偶然リーが出くわします。事情を知る友人の女性が席をはずそうとすると、リーはいやいい、とすぐに立ち去ろうとしますが、前妻のほうが少し話したいと引き留め、友人が席を外すと、彼女は自分がリーを激しく責めぬいたことを泣きながら詫び、いまも愛していると告げるのでした。けれどもリーはそうじゃない、と彼女の言葉を受け止めることもできず、自身を責めるままのリーとしてその場を立ち去ります。
このシーンでの元妻ランディ役のミシェル・ウィリアムズの激情が溢れ出るような演技、それを受けるリー役のケイシー・アフレックの切ない表情、いずれも素晴らしい迫真の演技で、深く心に残ります。
また、もう一つの衝撃的なシーンは、最初台所の火にフライパンの卵か何かが焼かれているのが映っていて、切り替わると部屋のソファにゆったり座っているリーのそばに(亡くなった)2人の娘が寄り添ってきて、「パパ、私たち燃えているの?」と訊きます。リーは「いや」と言うか言わぬかにハッとうたた寝から覚めて、火の元に駆け寄ります。今回は大事には至らないのですが、この重要なシーンが置かれることで、次に彼が後見人としてこの町にとどまることをあきらめ、ジョーの友人にすべてを託してボストンへ去っていくことを決意することになる展開が理解できます。
私たちが期待し、またたぶんリー自身も淡い期待を持ったかもしれない、パトリックと心を通い合わせることで癒され、リーの心が回復して、このままこの町にとどまれるのでは、という想像は道を断たれます。
みなが素敵だったジョーのこともその弟としてのリーのことも理解してくれている故郷の町で、リーは依然として孤独をかこち、その心は壊れたままだったのです。この物語のはじまりのころと同じように彼はバーで酒をくらい、通りすがりにちょっと体にあたった男にいきなり殴りかかる、そんな同じパターンを繰り返す彼をみて、私たちも彼がまだ毀れたままであることを悟らざるを得ないのです。
逃げ出すのか、この町で一緒に暮らしていけないのか、というパトリックに、リーは言います。「どうしても乗り越えられない・・・すまない」
ジョーの遺体は冷凍されていたのですが、春になってようやく埋葬されます。それを済ませ、リーとパトリックは帰り道、拾ったボールで戯れながら何だか楽しそうに歩いていて、リーは、ボストンでアパートを借りるんだと言い、そこには二つ部屋がある、と。どうして?と訊くパトリックに、おまえがいつでも来て泊まれる部屋だと言います。その二人の姿に、それまでの暗さ、重さが見えないのが、わずかな救いになっています。
アメリカ映画にしては、あきらかなハッピーエンドにもっていかないところが、この映画の少し変わったところです。人によって評価は分かれるかもしれませんが、私はいい映画だと思いました。
自分のせいで子供たちをみな死なせてしまう、という取り返しのつかない過去を背負い、ほんとうの深手を負った人間に、そう簡単な癒しや救いが訪れるはずもないでしょう。
その意味ではこれは救いのない世界をリアルに描いているわけですが、登場する人物がみなすばらしい。リーも妻ランディも、亡くなった兄ジョーも、その遺児パトリックも、故郷の周囲の人々もほんとうに人間味あふれるいいひとばかり。それらの人々が、この救いようのない、誰にもどうすることもできない深手を心に負ったリーを温かく見守っている、そういう世界が確かにここにはあります。
そのことが、この作品を単に暗くて重い悲惨な話にしてしまってはいません。どれだけの時間がかかるかもわからない、ついに癒えることはないのかもしれない、時には彼自身にも制御できない形でその傷が暴力的に噴き出すようなことさえある、でもそういうリーを決して排除もせず、拒みもせず、また慰めもせず、そっと見守っている人々がそこにはあります。
このことが、この作品の世界をとても温かい、品位のある質のものにしていると思います。ささやかな希望を抱かせるラストの光景とともに。
Blog 2018-7-11