セカンド・サークル(アレクサンドル・ソクーロフ監督) 1990
「The Second Circle」をそのままカタカナ書きした邦題を見ると、ちょうど私がロンドンにいたころに書店に英訳本が山積みになっていた、ソルジェニーツィンの同じタイトルの本のことが連想されました。あれはもちろんダンテの「神曲」のいわば地獄の2丁目というのか、第2圏「煉獄」を、当時のソ連で反政府的な知識人などが収容されるいくぶん緩やかな収容所になぞらえたものでした。
だから、ソクーロフのこの映画も、「神曲」の「煉獄」に描かれた世界の現代的な翻案かな、と思い、それを象徴するような引用とかなにか「神曲」へのオマージュがあるかな、と思って観ていましたが、私の見落としかどうか、見つけることができませんでした。
ただ、まぁこの映画は死と向き合った作品ですから、まんざら「煉獄」と縁がないわけでもないのかもしれません。
父親と離れて暮らしていた青年が、父の死で、その後処理に猛烈な吹雪の中をやってきます。クレジットが出ている間ずっと激しい吹雪の音が聞こえています。
息子は世間知らずの気の弱そうな青年です。どうやらシベリアの小さな町らしくて、老人の住んでいた家は、深い雪に閉ざされた貧しい一人暮らしの粗末な住まいのようで、床を踏む靴音や扉を開け閉めするバタンバタンという音、壁に物があたる音、ラジオか何かのチューニング音みたいなキュイーという不愉快な音・・・等々、耳障りな音が響くような家です。
画面は暗くて、よく見えない。青年の顔半分だけが裸電球か何かのあかりで照らされて半分は影になってよくみえなかったりして、何かを見せるというより、みなすっぽりと大きな黒い影の世界に包まれている中で、ときおり辛うじて一筋の光で人の表情の一部や体の一部らしいものが伺える、というような映像がつづきます。
男の声で「息絶えてる。間に合わなかった。・・・医者を呼んでいる間に・・」というようなことを言っているようす。
近所の人間なのか政府の役人なのか分からないけれど、状況を仕切る立場にあるらしい男が、死んだ男の息子である青年に、「石鹸と水とスポンジはあるか?」と訊き、水は水道がこわれているからない、と青年が答えると、男は死体を布で包んで青年にも片方を持たせて運びだし、外の雪で洗浄します。息子はスポンジで父親の身体を拭いてやります。これも闇の中のことで、あまり何をどうしているのかよく見えません。
また家の中にもどって、カメラは父親の遺体の足が毛布からはみ出しているのをとらえます。息子の青年の目に涙が見えるようです。
彼は死亡確認書かなにかをとるために、女医のところへ出掛けていきます。いいかげんな医者で、「病名をつけましょう」と言って癌として書類をつくりました。医者もまったくのお役所仕事です。
その行きかえりだったと思いますが、青年がぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られていく、そのバスの車中の人々の表情と動きを、やはり影が支配するわかりにくいモノクロ画面で、この作品の中では珍しい激しい動きと光と影が交錯する、思いっきりデフォルメしたような映像で見せてくれます。
ちょうどアメリカ映画なんかで、突然ディスコで大音響の楽曲がとどろく中、闇の中に強烈な照明の光が点滅したりグルグル回ったりして、激しく踊り狂う若者たちの姿をとらえる画面に転じることがありますが、ちょっとあんな印象で、モノクロでそんな音響もないけれど、似たような印象を与えるシーンがしばらく見られます。沈痛な想いを抱えた青年の肉体をもみくちゃにするぎゅうぎゅう詰めのバス車内の乗客たちを青年の気分からとらえたようなデフォルメされた映像というのでしょうか。
これもたかが医者のところへ死亡診断書を書いてもらいに行くためだけの、僅かなバスの往復ながら、青年を心身ともに疲れはてさせるできごとではあるわけです。
家にもどった青年のところへ葬儀屋です、と威勢のよい女がやってきて、なぜ死体を室内に?と訊いたり、臭いがひどいからと煙草を吹かしたりしながら、葬儀の諸費用について青年に告げて、次々確認していきます。
話の中で、亡くなった父親は1926年生まれというのも出てきます。筋金入りの共産党員で、収容所の所長までつとめた男だったようで、青年はその父に反発して家を飛び出して一人暮らしをしていたようです。
葬儀費用が250ルーブリかかる、というと青年は230しかない、と言います。赤い棺が44ルーブリ、霊柩車の往復が、というと青年は帰りはいらない、と言い、じゃ81ルーブリだと。それに火葬代、骨壺代・・・すると青年が「土葬はできませんか?」「場所は?」「父は焼けない」葬儀屋の女は強く火葬を勧めますが青年は頑として父は焼けない、とこだわります。場所が確保できれば土葬を、と。オルガン付きオーケストラ25ルーブリ・・どちらも不要。赤いカーネーション27ルーブリ・・・安いほうで。あと提供料、編成料で・・・と、ひたすら個別の処理のサービス料、小道具代金についてのやりとり。ここはこの作品の中で最もリアルで、ちょっと滑稽味も覚えるような場面です。
女は葬儀をとにかくこまかく分節されたサービスと小道具を売りつける機会としか考えてなくて、その商品のカタログから次々提示していくだけだし、青年はそういうのはできる限り安くシンプルに抑えようとする、明らかに葬儀屋の女性の勢いに押されっぱなしの青年ですが、少しは抵抗してみせる、そのせめぎあいがちょっとユーモラスなのです。皮肉っぽい眼でとらえられたシーンと言いましょうか。
青年はいま払うといいつつ財布を探すも、盗まれたようだ、と。女医のところへいったバスの中でとられたらしい。冗談でしょ、と葬儀屋の女の態度も一変、ますます上から目線で命令調に。
隣の部屋では死体の確認なのか何か事後処理のためか、役所から派遣された小役人みたいな男たちが刑事事件の現場捜査みたいな感じでなにかマニュアルどおりらしい作業をしています。彼らが居る部屋に横たわる父親の死体も手前の隣室で所在なくそわそわしているだけの青年もいわばその場から疎外されています。死を悲しんだり悼んだり、という人間的な情感が漂う気配はまったくありません。
吹雪の音。眠れない若者は、父の遺体の目を指でこじあけます。死者の目を見開いた顔のクローズアップ。それをじっと見る息子のクローズアップ。
女葬儀屋がなにかキレて物を投げつけるような音。棺桶はまだ?!と癇癪を起したような声。乱暴に棺桶を運び、それがあちこちに当たってたてる物音が大きく、すごく耳障りです。女の苛立たしい声もまた。いたるところに棺桶の角をぶつけて耳障りな音を響かせながら運び出そうとしますが、戸口の前まで来てうまくいきません。女の苛立つ声、どなり声、叫び声、棺桶のぶつかる音。床に置く音。カンカンとわざと響かせているかのよう。
息子である青年もなんかトロクサイ。女が苛立つのも無理ないくらい。遺体に靴下をはかせることだけ自分でやると頑なに女には触らせず、押し退けて自分ではかせたりします。
青年は父のガラクタに等しいような遺品をひとつひとつ点検するように眺めています。たぶんそこには父の母への想いや何か人間的なものを感じさせるようなもの、他人には何の価値もなさそうだけれど、息子にはそれがわかるようなものが含まれていたのでしょう。たぶんずっと反発して父親に対しては冷たかっただろう青年がひとつひとつの遺品を点検する手つき、その姿には、はじめて父親を父親としてとらえなおし、その死を人間の死として悲しみ悼む姿が感じられます。
夜の闇の中で火を焚いて、遺品らしきものをみんな焼いている青年。吹雪。空っぽの部屋。少し離れたところで燃え上がる家。
最後に表示される言葉:我より先に行く親しき者は幸いなり
・・・・う~ん、なかなか見ごたえのある映画でした。例によって画面が暗くてよく分からないのと、ふだんみなれた映画と違って、ソクーロフ流の超スローペースなので、見る方に戸惑いがあります。
でもこの作品が死と向き合う作品であることは一目瞭然で、実は父親の死と向き合っているのは息子の青年だけで、あとの連中はソヴィエト時代のロシアのことですから、死体の確認や処理から葬儀まですべてお役所が何らかの形で関与というか干渉するような官僚主義に彩られていて、検視官だか現場検証だかの男たちは無論のこと、たぶんこのえらそうな女葬儀屋も、日本の葬儀社なんかのような純然たる民間のサービスではなくて、お役所か、少なくとも半分お役所的な組織から派遣されてきた人物で、だから青年に対してイヤに高飛車で、半ば恫喝するような命令的な口調であれこれ決めさせたり、やらせたりします。見ているだけで不愉快な態度ですが、それこそがソ連の官僚主義なのでしょう。
彼らはみな亡くなった青年の父である老人のことなどまるで眼中になく、ただただ死体という「もの」になったものとして、その合理的な処理を考え、その手続きをしているだけなのです。葬儀屋の女も自分では気持ちが悪いからと、遺体に手もふれようとせず、そういうのは全部青年に任せるのです。
ですから、死体を人間が亡くなったものとして、つまり人を人として、死を人間の死として感じ、見ているのは息子たる青年だけで、あとの登場人物はみな、死体というモノしか見ず、その処理しか念頭にないのです。
(葬式の準備を描いているという意味では伊丹十三の「お葬式」のソ連版だけれど、「お葬式」の登場人物は誰もソクーロフの青年のように肉親の死と向き合ってはいません。死体をモノとして処理し、儀式を手順に従って効率よく処理していこうという青年の人間と同じで、ただソ連式の官僚主義的処置か日本式の形骸化した伝統的な儀式かの違いで、それを見る監督の眼差しから自然にその滑稽さが浮かび上がるのも同じですが、伊丹の「お葬式」は、監督の皮肉な眼差しにとらえられる「お葬式」が描かれるだけですが、ソクーロフの作品が描くのは、青年の目に映るそうした「お葬式」への違和感を通して見えてくる「一人の人間の死」なのです。)
VHSビデオカセットのジャケットに、ソクーロフ監督のこんな言葉が記されています。「死を意識することができるとき、ようやく人生と人間であることの意義が露わになる。さもなければ死と生の境界は無いに等しいのだから」と。考えさせられる作品です。
Blog 2018-10-30