奇跡 (是枝裕和監督・脚本・編集。2011年)
この映画の魅力は圧倒的な子供の出演者の躍動する存在感に支えられています。
中心人物は、小学6年の兄航基と弟の龍之介で、二人は両親の離婚で鹿児島と福岡にはなればなれに暮らしながらスマホで言葉を交わし合っています。兄航基は、鹿児島で噴煙を吐き続ける桜島をみながら灰に覆われる町で母や祖父母とともに暮らし、桜島が噴火して鹿児島に住めなくなれば、また家族一緒に暮らせると思い、噴火を夢見ています。
一方の龍之介は生活感の欠如した無責任な男で、現実の前にいささかくたびれ、薹の立った演奏家である父との福岡暮らし。この二人が学校をさぼって、熊本へ行こう、と企み、計画します。
それは、九州新幹線が全線開業する日の朝、鹿児島から福岡に向かう新幹線「つばめ」と逆方向の「さくら」が初めてすれ違う現場で願いごとをすれば、願いが叶う、という話を耳にして、二人で家族がまた一緒になれるよう願をかけることにしたのです。
航基は友達で仲良しの男の子3人を連れて、弟の龍之介も兄には知らせなかったものの親しい同級生の女の子たち3人をつれての旅。
母親から預かった学校へ納めるべき金を切符代につかい、体調が悪いと偽り、祖父には話して手をまわしておくなど、用意周到に準備して首尾よく子供たちは熊本へ。子供たちはほんとうに遠足か修学旅行にいくときのようにのびのびして楽しそうです。
男の子の友達の中には、家族の一員だった愛犬が死んで、リュックの中に死体を入れてきた内向的な子がいたり、かねて女優になりたいと言っていたのに、同じクラスの美少女に先を越されて内心おだやかでない少女など、それぞれの事情と思いをかかえた子たちが行動を共にして、はじめはちょっとぎくしゃくもあるけれど、次第に仲良くひとつの仲良しグループのように行動を共にしていきます。
適当な場所を探すあいだ、仲間の一人がみんなに遅れて離れていたとき、たまたま通りかかった警官にいろいろ聞かれているところへみなが行って、ごまかすために仲間の中の背の高い女の子(龍之介のクラスメイト恵美)が、ともだちとおばあちゃんの家に来たのだと言い、たまたま目の前にあった家を指して自分のおばあちゃんの家だと言い、姿をみせた老婦人に、おばあちゃん、と声をかけるのです。
幸いその家の老夫婦は彼らをそっくりそのまま受け入れて食事を食べさせ、泊まらせてくれます。自分たちの娘が帰ってきたようだった、と話す老夫婦は、翌朝彼らを車で新幹線の見える高台のふもとまで送っていきます。
ようやく新幹線のすれ違いが見られるところへたどりついて、首尾よく新幹線のすれ違う瞬間を目撃し、それぞれ心の中で願をかけ、航一はその瞬間、桜島が大噴火を起こす幻想を見るのですが、事後に航基は弟に、家族が一緒になれるようにと祈らなかった、ごめん、と告白します。
弟龍之介もまた別のことを願ってしまったと告白します。じゃ何を願ったのかはそれぞれ語っていましたが、忘れてしまいました。たしか、航一はかつて父親が、家族よりも大事な「世界」というものがあるんだ、というようなもっともらしいことを言ったのをおぼえていて、「世界」を選んでしもたんや、というようなことを言っていたと思います。
重要なことのようなのに、なぜはっきりと覚えていないかというと、才能もないのにアーチストを夢見て同類とつるんでバンドなんかやって、のんきな学生気分の延長のようなその日暮らしをしているまるで生活力のない無責任な男の言葉として、まったく現実味も真実味もなく、彼自身がそんな「世界」を真剣に求めているようにも見えず、まして息子にそういうことをいう資格などまるでない、単なるだらしない父親としての言い訳にすぎないセリフにしか見えないので、それを航一がおぼえていて、家族が一緒になるように、という彼の切実な願いをさしおいて、「世界」に向き合うとか、「世界」を求めていく、というような願掛けをするなんてことは、いくら父親の言葉であってもまるで現実味がなかったからです。
いずれにせよ、目的を達して子供たちはまた列車に乗って博多へ鹿児島へと別れて帰っていき、それぞれの家庭へ帰ると、家族がいつもと変わらず、お帰り、と迎えてまたいつもの日々が始まります。でもなにかが違っています。航一は自分の場所をみつける?んだと言い、恵美はやっぱり女優を目指すよ、お母さん、と言い、子供たちはそれぞれ自立的な道を歩み始めています。
こういう子供たちの姿を描かせると、是枝監督の映画はその世界の外部からさしこまれる(監督の?)手を拒んで、とたんに生き生きとその世界の登場人物みずからの意志で動き出し、理屈抜きで心をゆさぶるような愛すべき世界を実現してくれます。
主役の兄弟を演じているのは、オーディションで選ばれた少年漫才コンビ(「まえだまえだ」)だそうです。きっとボケの兄とツッコミの弟というふだんの漫才舞台での役どころなのでしょうが、その息がぴったり合っていて、対照的なキャラがよく生きています。
とりわけ舌を巻かざるを得ないのは弟役のほうで、その速射砲のような喋りと、独楽鼠のようにそこいらじゅうを走り回る超人的なモビリティ、そして最後に帰りの鹿児島行きの列車に乗った兄にクラスメイトと並んでプラットホームに立つ龍之介が、例によっていろいろおしゃべりしたあとにつづけて「また電話するわ!」と咄嗟に右手を耳にあてて指を立てて受話器を象ってみせる瞬時の反射的な動作にみるような演技には心底舌をまかざるをえませんでした。
彼のクラスメイトの少しほかの子より背の高い賢そうな恵美という女優志願の女の子は、この映画にも出演している是枝作品の常連・樹木希林の孫娘、つまりもっくんと内田也哉子夫妻の娘さん(伽羅)だそうです。おちついた印象的な演技で、きっといい女優さんになるでしょう。
まわりを固める俳優陣は是枝映画のこうした子役中心の映画に不可欠な演技達者な俳優たちで、安心してみていられる、ということもありました。子役たちからどうすればこんなに自然な「演技」が引き出せるのかは企業秘密かもしれませんが(笑)、是枝監督がその腕だけは、あ、失言、その腕は、確かにお持ちであることだけは疑うことができません。
実際、みんなであつまって列車に乗り込んでいく彼らの生き生きと楽しそうな表情、好意的な老夫婦の家に泊まらせてもらって、布団に寝ころがって両足だけ上に立てて、脚で「YMCAをやろう!」とはしゃいでいる子供たちの情景、あるいはまた、将来何になりたいか、を輪になって互いに言い合って、「イチローになりたい!」「仮面ライダーになりたい!」等々と、時に照れながら、時に自信たっぷりに叫ぶ子供たちの生き生きとした姿、あれがいちいち監督がああ言え、こう言え、こんな表情で、なんて指示した結果だとはとても思えません。
きっとそれは指示ではなく、彼らが自然にそういう言葉や表情や仕草を生み出してしまう「奇跡」をひきおこすような蓋然的な環境のようなものを監督や周囲のスタッフ、大人のキャストたちが創り出しているのでしょう。
こういう作品を見ると、是枝監督の別種の作品を見た時のように、テーマは何だろうとか、この作品のメッセージはなんて問いたいとは思わないし、そんなものはなくたって、この作品の世界が実現したこと自体が奇跡のようなもので、われわれ観客はその軌跡に立ち会う幸運にあずかった、と心底思えるから不思議です。