「スリ」(ロベール・ブレッソン監督)1959
「白夜」が面白かったので、前の作品も見たくなって、エエイッと断崖から飛び降りるように(笑)カードを切ってDVDを買って観ました。これもとても面白い作品でした。
先走りして言えば、終わってみれば純愛映画でした。「白夜」同様に、ドストエフスキーの「罪と罰」にインスピレーションを受けて作られたそうで、この監督はドストエフスキーの愛読者のようです。ただ、「白夜」とは違って、登場人物の設定やストーリーはまったくオリジナルなもので、ある種の現代的な翻案といったところなのでしょう。
ただ、主人公ジャックがスリという犯罪を自分が犯すことを正当化する理屈にオリジナリティはまったくなくて、ラスコーリニコフの借用です。けれども、ラスコーリニコフのように殺人を犯すわけではないから、彼はいわば生理的に突き上げてくるような殺しの記憶に苦しめられることもなく、深手を負った良心に悩まされることもなく、淡々として罪を重ね、仲間が捕まっていよいよヤバくなるとミラノ、ローマを経てロンドンあたりへ高飛びし、そこでまた荒稼ぎした上で遊興して使い果たし、ほとぼりが冷めたころ帰ってくるという、懲りない常習犯罪者です。
従って、彼の母親の傍らにいて、彼が母親の財布を盗んだときから彼が犯罪者であることを知っていながら彼を愛するようになる(彼女の表情を見ているととてもそうは見えないのですが・・・笑)女性ジャンヌとの間でも、ラスコーリニコフの告白の場面のようなドラマチックな場面は生じません。それは非常に物足りない。あぁいう場面になぜこの監督は反応しないんだろう?と思ってしまいます。彼がドストエフスキーに惹かれるというのは、ちょっとよく分からない(笑)。
もっとこの監督は皮肉な、そういってよければ、ずいぶんひねくれた精神の持ち主のようで、「白夜」でも幾分そういう皮肉な視線が感じられたけれど、この「スリ」に至っては、その展開をみていると、本当の意味でドストエフスキーが、従ってラスコーリニコフが体験したような宗教的な回心の瞬間というのは味わったこともなければ、薬にしたくてもしようがないようなタイプの監督さんなんじゃないか(笑)と思わざるを得ませんでした。カトリック系の人らしいのにね(笑)
ジャックは帰国して女と再会し、彼女が生んだよその男の子も引き受けて、平穏に暮らそうとするわけですが、ある日バーで競馬新聞みたいなのを広げている中年男に近づいて競馬に興味が?と訊かれのがきっかけで競馬場へいき、その男と待ち合わせたのか出会ったのか、とにかく一緒に競馬を見ていて、昔取った杵柄でつい手が後ろのその男の、みせびらかしていた内ポケットの札束にのびて、首尾よく手の内にたばさんだ瞬間に手錠がかかります。
たしかにこの若い男は神に罰せられることもなく、良心に苛まれることもない、そのくせ自己正当化の理屈だけは頑固に変えない、いつかどこかで罰を受けなくてはならない、ありふれた犯罪者にすぎないけれども、それならもう少し前につかまってもよさそうなものだけれど、うまく切り抜けて彼女と赤ん坊との平穏な生活を持つことができたと思った瞬間に、刑事の仕掛けた罠にはまって御用になるわけですね。彼はそれでも反省なんかしない。壁も鉄格子も平気だ、と。ただ、もっと警戒すべきだった。あの男が札びらを見せたときにも、おやこの男の馬券は外れたはずだが、といぶかしく思ったはずだ、と。
ずいぶんと人生に対して皮肉な見方をする監督だよな、と思いませんか?
でもまぁ救いがないわけではない。彼女がしばらく刑務所へ面会に来ず、便りもないので心配するわけです。でもそれは子供が病気だったので手が離せなかったからで、その旨の手紙がジャックのところに届いてほっとします。そして面会に来るジャンヌの表情には輝きがもどり、彼女を迎えるジャックは「ジャンヌ、君にたどり着くのに妙な回り道をした」と言うのですね。それでFIN。
終わってみれば純愛物語なのですが、純愛物語なら純愛物語でもう少し違った人物やストーリーで、もっとうまく描けるだろう。「罪と罰」ではまさにタイトルどおり人の振る舞い、生き方、考え方に対してつねに神様という絶対的な鏡があって、それに対してどう対してどう対峙するかというところで「罪と罰」という話が生まれてくるのだと思うけれど、ブレッソンの映画では神様は不在であるような気がします。いや平穏な暮らしがようやくできると安堵したジャックにあぁいう罰を下すんだから、わたしが監督の皮肉な目と言ったところに、ちゃんと神様が隠れて見てござる、というのかもしれませんが、ラスコーリニコフ的な心の深手も負わず、従ってあの少女への劇的な告白の場面も劇的な回心もないこの物語では、神様の影はおそろしく希薄で、そこにただ皮肉なまなざしをもった映画の作り手のひねくれた精神しか私には見えませんでした。
ただ、この映画の面白いところは、スリの手口を見せている場面です。スリの先輩にジャックが具体的に指導される場面、そして3人が組んで列車の発車間際にやってのける連続的なスリの神わざ的な手口は、とても興味深い。いや、真似しようとは思いませんが(笑)、あれで捕まるかね、と逆に刑事さんたちが二人のジャックのスリ仲間をとらえていく場面のほうがリアリティがないようにさえ感じます。でも悪い事したら、いつかはつかまるんでしょうね(笑)。
それから、ジャックも良かったけれど、奇人ジャックを見捨ててしまわない友人も、また彼が引き合わせ、ジャックの奇怪な論理の奇怪さを常識的な社会倫理の立場から指摘し、なんとかジャックを回心させようとする刑事がすごく良かった。役柄としての設定もよかったし、役者もとてもよかった。彼がジャックのために刑事の職分を超えて忠告したり相談にのろうとしたりしていることが、ジャックには分からないのですね。俺を疑っているのか、なんでそんなことを言いにくるんだ、というジャックに対して、彼が見せる、あぁ、この青年には言葉で語っても私の気持ちは通じないんだな、という何とも言えない表情で沈黙を守って去っていくときの彼が最高に良かった。
女性に関してはちょっと違和感がありました。綺麗すぎる(笑)。ジャックという何ものでもない、しかも奇怪な自己正当化の小理屈だけは手放さずに自分が天才だとでも思っているような、そしてイケメンでもない(笑)男に、なぜこんな綺麗な女性が惚れるのか?(笑)・・・女性は私にとっては謎で、ついに理解できません。ジャンヌはどうしてジャックに惚れるのか?どう考えてもこの映画をみていて納得ができないのは、そこです。ジャックが母親の財布を盗んで、そのジャックの母親の面倒を見ていたジャンヌが警察に告発しながら、ジャックの仕業とわかっている母親の依頼で、告発を取り下げたことが、ジャックの犯罪歴のそもそものはじまりだったわけで、あのとき彼女が母親を説得してでも告発して罪をつぐなわせれば、少しは違ってきたかもしれないわけですね。まぁそういう負い目が彼女を彼に近づけたのかもしれませんが・・・
でもやっぱりこのジャンヌを演じた女優さんはこういう立ち位置にふさわしい女性のようにはみえません。単に監督の好みで選んだんじゃないか(笑)。だいたいこの監督は、彼に見いだされた女優にして後の作家、アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝小説「少女」によれば、孫の年齢の少女を抜擢するや撮影隊から切り離して自分と二人だけの宿舎に閉じ込め、外部の人間はもちろんのこと、撮影隊のスタッフとちょっと言葉を交わしても激しく嫉妬して禁止し、そのくせ毎夜散歩に連れ出して膚に触れ、なんとかキスしようと繰り返し試みるとんでもないスケベ爺(笑)で、たしかにそういう面は撮影隊の面々からもあきれられながらも、その監督としての才能はだれしもが認めるゆえに許されているというのか黙過されているような人物らしいので、彼自身、このジャックのように、天才は何をしても許される、という「理論」の信奉者なのでしょう。アンヌの年上の25歳くらいの友人夫婦とつきあうことさえ、そんな凡庸な「年寄り」なんかとつきあってはいけない、と彼女に厳しく禁じます。その彼自身はすでに60代なのだから笑わずにはいられません。
まぁしばしば天才と狂人は紙一重というけれど、常人から見れば奇人変人であることが多いのは世の常ですが、それをそのまま作品の中に持ち込まれて、ありがたがるようなブレッソン信者みたいな観客ばかりではないので、天才監督の馬鹿げた思い込みやへたくそな作品づくりは嗤ってやり過ごすことにしましょう。それでも、おまえは彼がわかってない!と言い張る盲目的信徒というのは、つねにあるものですが(笑)。
Blog 2018-10-14