金原ひとみ『マザーズ』
伝えたいことがあり、分かってもらいたいと思い、一所懸命ことばを繰り出せば繰り出すほど、とても伝えられない、とうてい分かってもらえない、という思いがこちら側に溜まってくる。
一言つぶやけば、真逆の言葉が影になって跳ね返ってきて、胸の底に沈んでいく。永遠に日の目を見ない言葉の影たちが、澱のように溜まっていく。
それは時とともに溶けてしまうかもしれないし、つもり積もっていつか予期せぬときに抗いようのない勢いで噴き出すかもしれない。
私たちのありふれた日々の中で、無数に生まれては消えていく言葉の胎児たちの、無言の呻きを聴きとり、再び命を吹き込むことができる現代の巫女。
作家というものが沈黙を言葉にすることのできる者のことだとすれば、『マザーズ』の金原ひとみは、いまどき珍しい作家の名に値する正真正銘の作家だ。
女性の立場から、この男性社会で女性が強いられる理不尽なもろもろを描く小説なら、これまでにも数え切れないほどあったと思う。
子育ての壮絶な戦い、嫁姑の軋轢、無理解な夫との不協和音、夫の浮気に苦しんだり、DVに心身ともぼろぼろになったり、自らが不倫や同性愛にはまっていったり、子供を虐待したり・・・この作品にも登場するその種の要素だけを掬い上げた今様の浮世草子なら、いくらでもある。
そもそも私自身はその種のフェミニズム風味付けの風俗小説や私小説は苦手で、手にもとらないだろうし、間違って手にとっても途中で投げ出しただろう。
『マザーズ』は、人工の皮膚で今様の絵柄を描いてみせるようなその種の作品とは異質だった。その表皮の下に、どこを刺しても鋭い痛みと出血を伴う真皮がちゃんとあり、まっすぐ中枢までつながる神経が通っている、生身の身体を備えた作品だ。
語り手は、作家のユカ、主婦の涼子、モデルの五月という20代後半のいずれも子供があって「母親」として、同時に「女性」であり「妻」であり「人間」でもある友人(ユカと涼子は高校時代のクラスメイト)3人で、それぞれの視点から交互に日常の物語が語られていく。
土岐田ユカは「輪」という2歳児の母で、十代で結婚して6年になる夫の央太とは「通い婚」の形をとることで相対的に安定した関係を保っている。しかし「私も物語に生きたかった。五月や涼子のように、物語の中で生きたかった。幸せになりたい。幸せになりたい。私は幸せになりたい。でも私の求める幸せは、一生手に入らない。私の求める愛も幸福も充足も、全て小説の中にしかないからだ。」という作家。
世間的な通念からは最も「母親」から遠い、<自由>なライフスタイルを持つ女性だが、その<自由>がどれほどの孤独と引き換えに?んだものか、にもかかわらずそれがどれほど<不自由>と瓜二つであるか、読者は思い知らされながら読むことになる。彼女自身はドラッグで辛うじて精神的平衡を保っている。
涼子はユカの高校の同級生で26歳、まだ生まれて半年過ぎたばかりの一弥をかかえ、育児戦争の真っ只中で、体の弱いわが子に寄り添う24時間に心身とも疲れ果てている。つかの間の休息を求めて保育所に預けようとするとき、ふだんから家事・育児にまったく協力しない夫・浩太や姑たちの無理解があからさまに露出し、絶望的な孤独の中でいわれのない自責の念ややり場のない憤りは抑えようのないまで蓄積され、病んだ精神はついにわが子への虐待に捌け口を見出すにいたる。
涼子は高校時代、奔放なユカに引きずられるような形でヤクと酒に手を出して逃げることもできないまま男たちに輪姦され、ユカが現場を無傷で立ち去ったため、裏切られた思いでユカを離れ、十年を経て再会し、互いに「母親」として付き合い始めたものの、涼子のほうは、自分が傷つけられたとの思いを引きずっている。
しかし、ユカの視点からは二人の関係は違ってみえる。
「私は涼子と本気で付き合ってた。でも涼子はそんな堅苦しいの嫌だと思ってた。気楽に付き合いたいと思ってた。気楽でありながら、センチメンタルだけは共有出来るっていう都合の良い友達を求めてた。私たちは友達っていうものに全く違う種類の幻想を抱いてたんだろうね。」
五月は外に出ればあれが森山五月だ、といわれる、名の知れたモデル。3歳半の弥生の母親で亮という夫があるが、待澤という男と不倫の関係をつづけて半年になる。亮を愛していながら、夫とも子供とも別の世界にいる待澤によって辛うじて精神のバランスを保っているようなところがある。二人の不倫の場面。
「すげえいい」
はしゃぐような声で言って、待澤は手を伸ばした。彼を跨いでベッドに膝をつきその手の中に収まると、待澤は手を伸ばしてブラジャーのホックを外した。解放された小さな胸が、間髪入れずに熱い手に包まれた。待澤は胸を口にふくみ、後ろに回した手でお尻を?む。
「ほんと、子供産んでるとは思えないよな」
一瞬すっと高揚が冷めた。子供を持った事がないからだろうか、彼にはそういうデリカシーが欠けている。弥生といる時、私は不倫妻ではない。同じように、待澤といる時私は母親ではない。例えば弥生に「不倫しているとは思えない」などと言われたらひどく動揺するであろう事と同じように、私は待澤から「子供」という言葉を聞くたび、ビーズのネックレスが千切れたように、自分が統一感をなくしてばらばらになっていくのを感じる。
綱渡りのようなバランスをとった五月の日常は、待澤の子を妊娠したことで暗転する。夫と別れて待澤との暮らしを空想する五月だが、流産し、再びもとの日常が戻ってきたように見える。そのときに悲劇は起こる。
耐え難い喪失の後、徐々に自分を取り戻し、待澤の腕の中に帰っていくものの、五月はどこかで「ちがう」と感じている。そして、その思いに突き動かされるように待澤を残してひとり帰宅し、互いのうちに失った娘を見出したとき、五月は自分の思いを共有できる相手は亮しかいないことを決定的に悟り、「弥生の死を現実にするために」夫に全てを話そうと決意する。
この場面は、ここに至る五月の心の旅路とともに、非常に深く強い印象を与える。このほかにも、涼子がわが子一弥を虐待する衝動と葛藤し、耐え切れず堰を切ったようにわが子を狂気のように責めるシーンなども息を呑むようなところがある。
この語り手たち3人は、わが子を同じ保育園に預けている母親としての共通点が、この作品のフレームになっている。単にフレームで形式的に囲われているのではなく、相互に固有の距離感をもって関わりあっていて、3人それぞれの視点が交互に繰り返される形式が少しも不自然でなく、次第にそれぞれに追い詰められて、作品の空間が緊張感を高めていくのがわかる。それが先へ先へ押され、引かれるように読み進める力になっている。
この作品を読みながら、最初に思い出したのは、吉本隆明さんの「自分の亭主を殺してやりたい、と思ったことのない女性はいないんじゃないか」というような妙に確信を持った発言だった。
この作品を読んで、多かれ少なかれ、「自分のことが書いてある」、と思わない若き「母親」はいないのではないか。
また、世の男たちがこの作品を読めば、いま自分のすぐ傍らで絶望的な孤独をかこっている世の「母親たち」の地獄に、いまさらながら戦慄を覚えずにはいられないのではないか。
読んでいない人に誤解のないようにあわてて付言するけれども、この作品は、単に「母親の孤独」を描いたり、そんな若き母親たちの現状を訴えたりした作品というわけではない。この作品をほめながらそんなふうに読めるような書評があって、私自身は違和感をおぼえた。
この作品で、作者はそういうフェミニスト風の「メッセージ」を伝えようとはしていない。きちんと読めば誰でもわかるように、ユカも涼子も五月も、つねに一歩先はどうなるか、あるいは自分自身どうするか分からない、「いま、ここ」に、危なっかしいバランスを保ちながら立っていて次の一歩を踏み出していく。
夫に憤り、夫を拒み、夫に不信をつきつけながら、夫から離れていけない。それは不倫三文小説の人妻なら、優柔不断な主人公の性格や収入や世間体といった打算といった動機に帰するところだが、この作品の主人公たちは、先に引用したユカが涼子に言った言葉にあるように「本気」で夫と、友人と、人間と付き合おうとするところからきている。
弥生を失った五月が亮のもとに帰ってくるシーンとそこに至るプロセスはその典型的な例証のようなエピソードだ。彼女の待澤に対する思いと亮に対する思いの曖昧な両義性は、みかけは不倫三文小説に似て、実は人間認識として、表現として根本的に異なるものだ。
孤独といい、地獄という。確かにそのとおりだが、それは同時にそこまで苛烈な、わが身、わが精神をぼろぼろに蝕むまでに深い、根源的なわが子への愛でもある。
その両義性をこの作品全編を通じて、作者は決して手放さない。子育てのしんどさ、家事のわずらわしさ、そんな愚痴を何百倍にクローズアップして描いても、こうはならない。作者はたしかに「マザーズ」の、マザーシップの根源に降り立っている。
さきほど、世の男性はここに示された「母親」たちの孤独地獄に戦慄せずにいられないだろうと述べたが、ごく普通の(つまり文芸批評家や書評家やフェミニストっぽい自称インテリのごとき読み手ではない・・・笑)男性がこの作品を読めば、この3人の「母親」の考え方、感じ方、振舞い方に、それぞれ身勝手さを見出し、共感しがたく、やっぱり「女流」の作品だという印象を受ける可能性がなくはないという気がする。
私自身はそうは思わないし、これは本質的な作家の作品であって、いわゆる「女流」の作品だとは思わないが、そんな男性の読み手がいたとして、そういう印象を、男性社会に支配的な偏見にのみ帰して切り捨てられるかというと、そうも思わない。
その「身勝手さ」も含めてこの作品の中で生きているマザーズそれぞれの生き方であり、個性であり、そうでしかありえないように描かれた生きた人間の姿だと思い、そういう両義性なり多義性なり不条理なり矛盾なり猥雑さなりの中でしか「本気」で生きることはできないだろうと考えるからだ。
ただ、この3人の「母親」たちの思いの中に、夫なり愛人なりの男性の生きる世界の像がほとんどまったく登場しない点に、いま述べたような「ありえる印象」の一因がありはしないか、という気がする。
別段こんなところに職場を登場させてくれとか(それはある程度出てくる)、男性の事情も描いてほしいというのではない。けれども、3人の想像力が男性の生きる世界のほうには伸びていかないのは不思議だ。
もっとも、こういうのは「ないものねだり」の類かもしれない。たしかにまだ幼い子供たちの「マザーズ」である彼女たちが、暴力的に自分たちの世界に闖入し、支配し、あらぬ方へ自分たちを引っ張っていくわが子によって、目に見えない閉鎖空間に閉じ込められている様態で起こるべくして起こることが、その極北の姿で描かれているこの作品に本質的な意味で男性像が現れないのは当然なのかもしれない。
それでも多少こだわりがあるのは、この3人のマザーズのうち、一人が作家で、一人がモデルだという点だ。それが悪いというのではないけれども、そのせいで、上に書いたような想像力の欠如(といってしまうと大げさに聞こえるけれども)が生じているのではないか、という気がしなくもないからだ。
私たちの身の回りのごく平凡な母親たちは、多かれ少なかれこの3人の味わっているような孤独感にさいなまれたり、憤り、あきらめ、悲しみ、絶望し、地獄だと思うこともあるだろうけれど、そして亭主を殺してやりたい、と思うことも(たまには)あるのだろうけれど、なんとかそんな自分を処理して、たくましい「マザーズ」として立派に家事をこなし亭主のお相手をしながら子育てしているだろう。
そんな平凡な女性たちでも、亭主の世界に対する想像力はこの作品の3人のマザーズよりは多かれ少なかれ備えているような気がする。彼女たちの想像力は、せいぜい「お疲れさん」だの「パパのおかげだよ」といった、家庭の平凡な幸せなどという言葉が嫌いな連中にとっては歯の浮くような愛想言葉でしか表現されないかもしれない。
あるいは単に「いってらっしゃい」「おかえりなさい」という、小津の「お早う」にみるような決まりきった挨拶言葉でしか表現されないかもしれない。
けれども、そこに「地獄だ!」と叫ぶ言葉と同じ重さの、胸のうちに手ごたえをもって跳ね返ってくる沈黙を測ることができなければ、どんな極彩色の地獄絵も色あせてしまうだろう。
この作品の3人の女性にとっての夫や愛人は、あくまでもそれぞれ自分にとって「やさしい」かそうでないか、自分の思いを汲んでくれるかそうでないか、自分を拒んでいるように見えるか、受け入れてくれるか、自分がやすらぎを感じることができる存在かそうでないか、という主観(「主感」と書くべきか)で構成されている。男性そのもの、夫そのものではない。
ちょうどアメーバのような生物が触手を出して、自分を害しそうなものに触れると触手をひっこめ、そうでなければ触手を伸ばして寄り添ってくるように、受容か拒斥かの受動的な反射によって対象化される男性像にみえる。接触によって生じる像は原始人の彫像のように歪んでいるだろう。
男性の私などからみると、この種の生理的な判断や反射をどう理解すればいいかは甚だ苦手で、なんというか、気持ちが悪い(笑)。
学生のころ、友人たちとの溜まり場で何人かで議論していたとき、ある友人がその彼女と話していて、理屈っぽい彼が彼女を説き伏せるような形でやりあっていた。やがて、発想の違いがクリアになり、そこそこ了解に達したときに、友人が冗談めかして「ほんまに女っちゅうやつは<動物>やからなぁ」と、いま言えば女性たちから突き上げられそうなセリフをはいた。論理的に言っても理解しようとせず、感覚というより生理的に判断してしまうから、というほどのニュアンスだったかと思う。
ユカや涼子や五月の夫に対する、あるいは五月の待澤に対する接し方、感じ方、判断の仕方をみていて、あの友人の言葉を思い出して苦笑せざるを得なかった
この作品で描かれている、マザーズの声なき声、私たちの周囲の日常いたるところに存在するマザーズの沈黙を作家の全力を注いで表現しきったところは見事だと感じ入るが、その世界が<女性>性の中に閉じてみえるところに、いくらか違和感をおぼえたので、作品の出来栄えにはかかわりのない「ないものねだり」かもしれないが、触れておいた。
いま書いたようなことは、例えば五月が亮と「再会」する最後のエピソードのような瞬間から、あらためて始まるプロセスなのかもしれない。考えてみれば、マザーズたちの「本気」に相当するものを垣間見せた男性あるいは「ファーザーズ」のシーンは、この場面での亮の姿が唯一のものではなかろうか。
(完)
Blog 2011-9-11
金原ひとみ『マザーズ』感想追記
金原ひとみ『マザーズ』について即興的感想を書きなぐって、読み返すと自分が、あ、面白いな、とホッとして読んで気に入った箇所を忘れていたことに気づいたので、自分への覚えに・・・
パソコンを開いて溜まっていたメールに返信を書き始めた頃、隣のテーブルん座った学生二人が学祭か何かの話を始めた。「俺はやっぱりおにぎりでいきたいんだよ」熱血な感じの男の子がそう言って憤りを露わにした。「何でたこ焼きじゃないんだ何で焼きそばじゃないんだって皆言うんだろ?でもおにぎりの何がいけないわけ?」。一方的に話されている男の子は「はあ」と繰り返しながらへこへこしている。私はそのおにぎりに固執する男の子が気持ち悪くて憎くて堪らなくて憎すぎるあまり好きになっておにぎりでいい!と言いたい衝動に駆られた。煙草で口を塞ぐと、私は奥歯を噛みしめ首を竦めたままあっという間に全ての返信を書き終えた。
なんだか太宰治の小説を読むような愉快な調子。こういうユーモラスな部分もこの作品にはあって、ほっとする。次は不倫している五月の語り。
離婚後三百日問題について調べながら、不思議な気持ちになった。自分が今、不倫相手の子どもを妊娠するという、最も卑劣な女が引き起こすとされている類の状況に身を置いているという事に、実感が湧かなかった。私は何の悪意も、何の企みも、何の作意もなく、ただひたすら必死に生きてきただけだ。もしもこの事実が表沙汰になったら、週刊誌は私を卑劣な淫乱不倫モデルとして世間に晒すだろう。でも不倫相手の子どもを妊娠するという状況に至るまでのプロセスに、私の亮に対する執着があったり、亮の拒絶に傷つき続けてきた日々があったり、亮と築いてきた家庭に対する執着があったり、毎日のように流してきた涙があったり、藁にもすがる気持ちで待澤に相談した夜があったり、待澤の事が好きだった十代の頃と同じようなノスタルジックな恋愛感情の再燃があったりという事実を、誰が理解するだろう。こんな結果を求めていたわけじゃない。私は不倫を選択した事も、妊娠を選択した事も、夫との離婚を選択した事もない。選択肢はいつもなかった。常に一つしか道はなかった。それでも週刊誌に書かれれば、私は卑劣な不倫モデルだ。
こういう五月の言い草を、身勝手だと非難するのはたやすいだろう。けれどもこの作品を読んでいると、彼女の気持ちにうそ偽りがないことはわかる。ほんとうに「ただひらすら必死に生きてきただけだ」という彼女の言葉が信じられるし、「常に一つしか道はなかった」ように思えるだろう。現に生きている生身の人間の内の目と、それを外部から伺い評価する外の目との間にはいつも目もくらむような落差がある。
次も五月の語り。
私は十代の頃に一度の堕胎と、三年半前に出産を経験して、その二度の妊娠をきっかけに自分の人生が大きく変わったのを実感してきた。母は子宮と卵巣を摘出し、一歩男に近づき、鬱になった。男は、女が陥ったら鬱になるような状態で生きているのだ。女にあって男にないものは、自分自身の胎内にありながら自分自身を大きく左右し、人生をも変えてしまう抗う事の出来ない絶対的な存在だ。女は成長過程で思いのままにならない体や現実を受け入れ、その条件下で生きていく術を身につけていくのに比べて、男は絶対的なものが自分の胎内ではなく外にあると思い込むから、幻想を追い続けながら生きていく事が出来るんじゃないだろうか。
マザーズが男性に対する想像力を欠くと不満を述べたけれど、こういうところはさすがだと思う。
Blog 2011-9-11