吉原炎上(五社英雄監督) 1987
京都文化博物館の「映画でみる明治」の一環として昨日上映した五社英雄監督の「吉原炎上」(1987)を見てきました。
これはなかなかの大作、スタッフやキャストの意気込みが伝わってくる力作でした。
明治44年(1911)4月9日、実際に起きた浅草の大火で、江戸時代以来の遊郭、吉原が全焼して廃墟となった事件を背景とした、遊郭に売られて借金に縛られ、男たちの欲望処理の道具として身を朽ちさせ、それぞれ不幸を一身に負って死んでいく女たちの姿を描いていています。
近代化していく日本社会の暗い影の部分ですが、そこに生きた女たちはそれぞれ一人の人間として多様な事情をかかえ、性格も考え方も多様な彼女たちが、自らの運命に絶望し、諦め、虚の世界、嘘の世界と知りながらなお男の言葉に一縷の望みを懐き、裏切られ、破綻して身を滅ぼしていく姿を、強烈なタッチで描きだしています。
その強い情感を支えているのは、何といっても廓の最高位をきわめた太夫である「御職」ともう一人稼ぎが悪いために品川女郎に格下げされるお菊を演じる主役級の5人の女優たちです。
主役の名取裕子が演じる若汐(当初は本名の上田久乃、また遊女としてデビューしたときの源氏名が若汐、御職になってからは紫太夫)だけでなく、久乃が売られて来たときに彼女の面倒を見るよう託される、そのときの御職九重(二宮さよ子)、彼女が年齢による衰えを悟って身を引いて出ていったあと御職をつとめる吉里(藤真利子)、吉里が所帯を持つことを約束した男に捨てられ、心中を約した男が逃げるのを剃刀を持って追う中で止めようとした男を切ってしまい結局衆目の中で自害して果てた後、次の御職につく山花(西川峰子)、彼女は結核で血を吐き、衰えながら、御職のプライドにしがみついて新たな御職となった若汐に部屋を譲らず、真っ赤な布団が積み上げられた部屋で血を吐いて死んでいく・・・これに若汐と親しい友人になるものの、品川へとばされ、一度は男と夢を見るものの、男に女と駆け落ちされて裏切られ、場末の女郎に舞い戻り、自分を裏切った若い女が頼って来ればコツコツと貯めた自分の金を与えるような気っ風のいい、女郎としての運命を感受して強く生きるお菊(かたせ梨乃)、この5人のすさまじいまでの熱演がこの作品のもつ力そのものだという気がします。
有名な女優が肌も露わに遊女を演じたことが話題になったようですが、そんなレベルをはるかに超えて、彼女たちが役に入れ込んだ意気込みが伝わってくるようです。とくに遊郭デビューの久乃がいざ男に抱かれようという直前に本能的な恐怖と嫌悪感で逃げ出してつかまり、簀の子巻にされて布団部屋に転がされているところへ来て久乃を女の体と体でじかに仕込む九重を演じる二宮さよ子は、自らの肉体で久乃の身体の芯まで侵していくような強く妖艶で粘っこい、まさに鬼気迫る演技で、見ていて女性が怖くなるような怪演。
嘘で固めた遊郭の世界と判ってゐながら男と所帯を持つことを夢見て若汐にも借金までして男に身請けさせようとしながら、その夢が叶うはずの瞬間に裏切られ、心折れて別の男と心中を約束しながら、いざとなれば逃げ惑う男を追って、衆目の中、自ら剃刀で首を掻き切って果てる吉里の藤真利子もまた熱演。
赤い布団の積み上げられた、もう真っ赤な部屋の真ん中で、その赤い布団に真っ赤な血を吐いては肌も露わに脚をひろげ、ここを噛んで!とか狂ったように男を求めるような叫びを挙げてはまた血を吐いて死んでいく山花の凄絶な姿は、ちょっとやそっとでは忘れられませんが、それを演じたのは、テレビなどでみているときは薄っぺらなタレントくらいに思っていた西川峰子。この作品では一番強烈なシーンを創り出していました。
品川女郎まで身を落としながら、その運命を一貫して甘受し、虚の世界、嘘の世界を、それと明確に認識して甘い夢を見たりせず、腹を据えてその世界に強く生きて自分を失わない強さを持ち、同時に自分を裏切った女にも情けをかける菊を演じるかたせ梨乃もまた、もと財閥の御曹司古島(根津甚八)と彼がつかの間幸せな時を共に過ごす若い安女郎と抱き合ったまま炎に包まれる最後を絶叫のうちに見送るのですが、彼女の場合はそれまでの若汐との親しい友としてのつきあいかたの中で、いい味を見せていました。
御職として花魁道中の夢を実現して吉原遊郭での頂点をきわめた若汐(いまは紫太夫)には、財閥の御曹司だった若い古島がパトロンとして後ろ盾となってくれていました。花魁道中も彼が財閥から排除される際に受け取った手切れ金のおかげで実現したのですが、彼は終始若汐を抱こうとはせず、身請けしようと考えていたのですが、若汐が吉原の虚の世界で頂点を極めることを夢と描き、強い執着を示すようになって、彼女が変わった、と失望し、去っていきます。若汐は新しいパトロンをみつけて成功するのですが、花魁道中を成功させてまさにその夢を実現したとき、行方不明になっていた古島の居所を聴き、矢も楯もたまらず駆け付けます。
古島はそのとき、お菊のいる場末の売春宿にくつろいで、まだ久乃のころの若汐と同じように幼い女郎と子供のように他愛なくあやとりなどして戯れています。駆け付けた若汐に出会ったお菊は、「いまこそ自分が本当に好きなのは古島だと覚った」という若汐に対して、吉原はそんな真実の世界じゃない、全部嘘で固めた世界だということは、頂点に立ったあんたが一番よく知っているだろう、と諭し、いまの古島の様子を伝えて、もしいまの古島と彼を慕う若い女の二人の世界をあんたがぶち壊しにきたのなら、私は命を張ってでも、そうはさせないよ、と立ちふさがるのです。若汐は彼女の言葉に一言もなく、すごすごと帰っていきます。このときのお菊はとてもカッコよくて素敵です。
女優陣の素晴らしい熱演のほか、この映画は、私などがまったく知らない吉原の風俗、しきたりなどを目に見える形で見せてくれて、そういった点でも興味深い映画でした。桜の花を開花の時期だけ植えて、色んな種類の桜が次々絶え間なく咲くようにしてあって、最後の花が終わったら、全部引っこ抜いて排除してしまうらしい。花が咲いている間だけの用で、花を咲かせなくなった桜なんかに用はないのさ、という女郎の身の上を象徴するような吉原の桜がうまく使われていて感心しました。
若汐の夢を実現した花魁道中は、この映画のハイライトになるだろうと思いながら見ていたので、案外さらっと撮っていたなと思い、そこは「花の吉原百人斬り」と違うな、と思いましたが、この作品のクライマックスはもちろん花魁道中ではなくて、タイトルどおり吉原炎上ですから、当然でしょうね。
その大火災の場面は、さすがにすごかった。実際に吉原が全滅し、さらに他の町内にも燃え広がるような歴史的な大火だったようですから、その史実をここは忠実に再現しようとしたのでしょうが、燃えあがる紅蓮の炎、逃げまどい、2階から飛び降りる半裸の女郎たち、そして崩れ落ちる建物、みななかなか迫力がありました。
だいぶ褒めてきたので、最後に難点をいくつか(笑)。
ひとつは、この映画が制作者も役者も力の入った大作、力作であることは間違いないと思うのですが、「名作」と言わないのはなぜか、というと、やっぱり映画作品として見た時に、物語の展開にモタモタしたところ、描かれた時代の古さというのとは別の意味で、表現としての古めかしさがあって、せっかくの主役級5人の怪演とも言える熱演で凄惨な女郎たちの生き方、死にざまを描き出していながら、作品全体を通して訴えかけてくるはずの創り手の情熱の火柱みたいな軸が、もひとつクリアに見えて来ず、こちらの胸を撃たないからなのです。
九重、小花、吉里、菊の生き方もその演技も素晴らしいと思うのですが、肝心の若汐に問題があるように思いました。彼女は19歳で売られてくるわけですが、演じた名取さんはこのときたぶん30歳くらいで、やはりかなり落差があって、初客から逃げ出し、九重に仕込まれるあたりの彼女に、それにふさわしい初々しさがあるかと言えば、身体がどうこうというより演技あるいは演出として、それらしく見えないのは残念です。
また、のちに自分の宿命を甘受して、この吉原で御職として花魁道中を実現し、頂点を極めるという野望を語ることで、パトロンの古島に、きみは性根まで女郎になってしまった、と言われ、そうよ、私は・・と居直ってみせるような、「久乃」から「若汐」へ、「若汐」から「紫」への彼女の内面的な変容が、うまく演技あるいは演出に表現されていないように思います。
その変貌は単に言葉の上だけで表現されていて、彼女の身体、振る舞い、彼女のはなつ空気のようなものなど一切を総動員して表現されなければならないところが、うまくいっていないと思います。
だから、ひとつのハイライトには違いない花魁道中のシーンでも、彼女が久乃や若汐のときとは見違えるような華やかな大輪の花を咲かせているようには見えないのです。ただ豪華絢爛の衣服に身を包んだだけにみえてしまい、その表情、その醸し出す空気に、華やかな御職紫太夫の香りがたちこめてこないのです。
その致命的な表われは、ラスト近く、花魁道中を成功させた彼女が古島の居所を知ったとたんに、矢も楯もたまらず走り出して古島のいる安女郎宿へかけつけるシーンです。
ここで旧知の友だった菊に出会った若汐(紫)は、自分が本当に好きだったのは古島だけだと分かった、というようなことを言います。おいおい、いまさらそんなこと言うなよ、というのは、お菊だけでなく、それまでずっと彼女を見て来た観客だってそう思います。
本当は汚れた嘘ばかりの世界で、彼女は一貫して潜在的に古島を愛していたのであって、そこに嘘の世界の中でも貫かれたマコトの世界があり、ここで初めてそのことに気づきました、という純愛物語なんですかね?これは。
どんなに女としてそういう感情を持っていたとしても、「君は変わったな」、と失望の言葉を吐く古島に対して、若汐が居直って、「そうよ、私は女郎ですよ、嘘の世界で頂点を極めて花を咲かせて見せるんだ」と言ったときに、お菊が言うように、そういう生き方を覚悟を決めて最終的に選んだはずです。だから、たとえ心の奥底で汚れない純愛が脈々と生きていたとしても、彼女はその深い感情を押し殺して、自分の宿命を受け入れて泰然と御職をつとめる彼女の堂々たる姿を示すくらいでなけりゃ、それまでの彼女の生き方がまったく薄っぺらな、軽いものになってしまうでしょう。
あぁあ、これじゃ最低のメロドラマになっちまうじゃないか、とあの駆けだした瞬間にがっかりしました。これは女優さんの罪ではなくて、脚本なり演出なりが悪いのだろうと思いますが・・・
blog 2018-12-24