「恋する惑星」
この映画は奇蹟のような作品。ウォン・カーウァイという監督は、ほとんどシナリオを書かずに、全部その場のアドリブで指揮して撮ってしまうらしい。映画から文学性を排除して、徹底的に映像的な特質につくという意味では、ゴダールの再来と評されたのも頷けるかもしれない。
冒頭の、夜の香港の裏街を忙しく駆け抜けるブジジット・リンをはじめとする裏世界の住人たちをハンディカメラで追う、高速で走る光の束のような流れる映像、ぶれる映像の鮮新なスピード感、緊張感は、いまだに<映像の現在>を感じさせる。
それは金城武のモウや、トニー・レオンの警官633号の、緊張を緩めてくれるどこかとぼけたキャラクター設定と、彼らをアップで写す映像の安定感と好対照だ。
この映画はほとんど無関係な二つの世界、二つのドラマを並行させ、その二つが偶然にも一瞬遭遇して、また瞬時に遠い軌跡をたどって離れていく、「その時ふたりの距離は0.1ミリ。6時間後、彼女は別の男に恋をした」という、分裂的な構成をひとつの作品に閉じ込めている。社会とか人間関係の網の目と、その中で私たちが出会う大小さまざまな事件や日常的な出来事が、このような偶然性と、それを実現してしまう分裂的な構造によって成り立っていること、私たちはそれぞれまるで無関係な惑星のようにそれぞれの生活圏に生きていながら、だからこそ時に限りなく低い確率で奇蹟のように互いに遭遇することを感じさせてくれる。
音楽と映画の結びつきという点でもこの映画は秀逸だ。一昔前に流行した、The Mamas & Papas のCalifornia Dreamin’ が見事に甦って、フェイ・ウォン演じるフェイとトニー・レオンの警官633号との出会いや再会のシーンを劇的に演出している。また、この映画のフェイ・ウォンは「不美人」だが、これほど魅力的なフェイ・ウォンもない。
ストーリーを追いかけて、いちばん素敵なシーンは、たぶんフェイが勝手に警官633号の部屋に入り込み、せっせと掃除をしたりして、そのことに気づかない警官633号が石鹸やタオルやぬいぐるみに一人話しかける場面か。こんなふうにユーモラスに、純情な、それでいて実に現代的な恋を描き、こんなふうにユーモラスに傷心や孤独を描くことは、実にユニークな映像表現だ。
クリストファー・ドイルのカメラが、この作品の成功を支えている。冒頭の疾走するカメラがとらえた斬新な流れる光の束のような映像、いかにも香港的・アジア的な街(あるいはブレードランナーの無国籍の街のような)の迷路のような建物の光と影、ネオンや駆け回る人々の影、エスカレーターによる視角の変化、雨に曇る窓ガラス、最後にキャリーバッグを引いている足元からカメラ位置を上げてきてフェイをとらえる映像・・・・等々。すべてが香港の街のような猥雑さのなかへ投げ出された現代のきらめく破片の美しさ、それを集めて、偶然性に委ねるかのように再構成した映画。
(2005.2.16 blog)