「乳と卵」(川上未映子)
『わたくし率 イン 歯ー、または世界』には閉口したけれど、この芥川賞作品は読めました(笑)。
普通の読者にはほとんど読めないほど独りよがりな、汚れた言葉の破片をつらねた「詩」めいた文章から、比較的ありふれた饒舌体の散文を制御して、ある程度面白く読ませる作品にはなっている。でも、やっぱりこういう見掛け倒しの「新しさ」はそこらに溢れていて、かなり食傷しているので、気持ちが動かない。
選考委員の多くが才能をほめあげている中で、石原慎太郎が名指しで全否定。特定の作家を名指してはいないけれど、高樹のぶ子も明確に否定的であったようだ。
私も一人の読者としては同感だけれど、この二人の否定の仕方が、「中身がない」「薄くて軽い」という言い方なのは、少しミスリーディングな気がする。
「中身」がなくても、「薄くて軽く」てもいいけれど、厚化粧を拭い去ったあとにはありふれた退屈な顔しか見えないというのだと読者としては困る。巻子の豊胸手術へのこだわりも緑子の関係へのつまづきも、時代のファッション以上のものには見えない。
「乳房のメタファとしての意味が伝わってこない」という石原慎太郎の評言はたぶんそれを言っているのだろう。
心身をめぐる「哲学的」語彙をまぶして意味ありげにしているけれど、べつだんそれが巻子の豊胸手術へのこだわりの意味を深めるわけでもない。
でも現代風の意匠は意匠で面白いところはある。男性的精神がどうのこうのという小賢しい二人の女の掛け合いの部分などは、その浅はかな言葉遊びそのものが、スパンコールのようにキラキラ安っぽい光を放っているのがかえって面白く、作者が適度にまぶした「哲学的」な語彙のふりかけが効いている。
小川洋子が「余計なお世話」と断わりながら、「豊胸手術のパンフレットをめくる巻子さんをひたすら指でなぞってみたら」と書いているのが、この作品への一番いい批評になっているな、と感じた。別に作者は、小川の言うように「母娘関係」が描きたかったわけではないだろうが。
彼女が「余計なお世話」というのは、作家は自分が書けることしか書けないので、ないものねだりであることを百も承知だからで、作者はやっぱり「たけくらべ」を下敷きにして、これから踏み越えていかなくてはならない境界の一歩手前にいる美登利の初々しい性のかわりに、初発から欠如と不能の性的な世界で<女性>性に反撥したり自閉したりすることしかできない現在の女たちの性的な位置を生理に即して描きたかったのだろうし、できればその反撥や自閉が一瞬解けるかにみえる瞬間をも描きたかったのだろう。
でもそれは池澤夏樹がべたぼめしていうように「見事にドラマチックに解決してカタルシスに至る」ようには、私には読めなかった。
blog 2008年02月11日