「アタラント号」(ジャン・ヴィゴ監督)1934
サイレントからトーキーへと移り変わる時代に才能を見せながら29歳の若さで夭折して、その作品が後に著名な映画監督になった人たちにも影響を与えたと言われるフランスのこの映画監督の名は聴いていたけれど、観たのは今回が初めて。
フランスの地方の町とル・アーヴルを往復する小さな船がタイトルのアタラント号で、その船長であるキマジメそうな田舎の青年ジャンといま結婚式を挙げたばかりの田舎娘ジュリエットが主人公です。
映画は、式を済ませて教会から出てきたばかりの2人が、田舎町の街路を先頭になって歩き、その後ろを式に参加した町の人たちがぞろぞろついていく光景から始まり、この2人はどういう若者なんだろう、どこへ行くんだろう、と思っていると、行き着く先はこれから二人が暮らす河辺に繋留する船。この船にはベテランの老水夫ジュールとまだ少年のルイもいます。
最初に花嫁が花束を水に落とすシーンや、ジュールの住まう船室内部のとりちらかした、或る意味で楽しい光景など、いろいろ細部に楽しめるシーンがありますが、ハイライトはパリという大都会など見たこともなかったジュリエットが、ジャンの導きでこの大都会の魅力に触れて変化することで、二人の関係にも揺らぎが生じる展開にあります。
ジャンと二人でパリのカフェみたいなところへ入って、そこで歌ったり踊ったり愉しむ人々の光景にジュリエットは魅せられます。
また彼女に関心を示して近づく、いかにもパリでしかお目にかかれそうもない、トリックスターみたいな、悪気はないのだけれど、或る意味で既存の硬い秩序をはみ出し、境界線を出たり入ったりしていたずらをしかけ、陽気な混乱に巻き込み、人々を笑わせ、ある人々を怒らせ、繭をしかめさせもする道化役のような若い男の雰囲気に惹かれます。
つまり異性として彼に惹かれるというより、それまでの人生で彼女が見たこともないような、彼のもつ都会の雰囲気に触れて魅せられるといった趣で、彼の誘いのままにフロアで踊り、ジャンは当然不機嫌になって、彼とジュリエットの間に割って入って彼女をひきはがします。
トリックスターの男は、別れ際にジュリエットに、今夜も楽しい催しがあるからおいでよ、と誘います。大人しく船に帰ってベッドにつくジュリエットですが、夜になるとそっと船を抜け出し、トリックスターの男の導きで夜のパリを楽しみ、つい夜明けまで過ごしてしまいます。
翌朝、ジュリエットのベッドがからっぽであることに気づいたジュールは腹を立てて、必ず帰ってくるから彼女を待とうというジュールの諫めに耳を貸さず、少し意固地になったジャンは、ジュリエットを街に置き去りにして出航してしまいます。街から船着き場へ戻ってきたジュリエットは、船が出航してしまってそこにないのを知って茫然とします。仕方なく街へ戻り、列車でコルベイユ(これが彼らの故郷の田舎町だったのでしょう)へ戻ろうと切符売り場に立っていた彼女をひったくりが襲い、バッグをさらわれてしまいます。途方にくれ、仕事をみつけなくては、と街をさまようジュリエット。
他方、彼女を置き去りにしたものの、心の晴れないジャンは船中で一人寝の悶々とした夜を過ごします。鬱々とした気分を拭い去ろうとするかのようにジャンは川へ飛込み、水中深く泳ぐ中でジュリエットの面影が生々しく眼前に浮かんできます。彼はそれを追い求め、自分がジュリエットに裏切られたような思いで腹を立てて彼女を置き去りにしたものの、なお彼女を深く愛していることを身に染みて感じたのでしょう。
結局ジャンは再びジュリエットを見出し、船に帰ってきた彼女と抱き合い、故郷への船の旅に戻ります。
ジャンとジュリエットはもちろん互いに愛し合っていたし、その気持ちが変わるわけではありません。でも生まれて初めて接するパリの雰囲気に魅せられ、その象徴ともいえるトリックスター的な男性に導かれて夜のパリにふらふらと夢遊病者のように出ていくジュリエットの気持ちが、とてもよくわかります。彼がジャンに追い返されてから、ジュリエットが一人になったときに、もらったスカーフに触りながら、ほんとうに嬉しそうな表情をする、そんな細部にも彼女のそういう気持ちがとてもうまく表現されています。
他方、そんなジュリエットの悪気のないパリという都会の魅力に惹かれる気持ちも、それゆえトリックスター的な男性の強引なアプローチにもつい嬉しそうに誘われていくジュリエットの気持ちもわからなくはないけれど、無性に腹立たしいジャンの気持ちも、男性のはしくれとして、ものすごくよく分かります。
ジャンもジュリエットほどではないにせよ、やっぱり田舎育ちの生真面目な堅物青年で、大都会の若者の生活や楽しみなど知る由もなく、例のトリックスターのような女性の心をくすぐり、挑発し、誘惑し、楽しませるようなスマートな社交性など全然持ち合わせていません。そういう自分が持ち合わせていない、むしろ自分の資質とは正反対のそんなトリックスター君の資質には反感と嫉妬を覚えるでしょうし、ましてやそれに自分の愛する新妻が強く惹かれているのを感じれば、腹立たしくてならないでしょう。
だから彼のトリックスター君への厳しい拒絶も、無理やりジュリエットを引っ張って戻るようなところも、またそれでも夜中に街へもどっていったジュリエットに腹を立てて置き去りにして出航してしまうことも、そしてそれでも彼女への想いは断ち切れるわけもなく、悶々として水に飛び込んで彼女の幻影を見ることも、いちいちすべてが深く納得できます。
この映画はそんな一対の愛し合う男女に訪れるささやかな気持ちの行き違いを生じる経緯、そうした成り行きに伴うそれぞれの気持ちの動き、そして一時的に疎隔するときのそれぞれの気持ちの揺れを微細に描き、誰も故意の悪者はいないし悪意のあるものもいないので、それぞれの気持ちがすごく共感をもって見ることができるし、ジュリエットのパリとの出会い、トリックスターの男との出会いも、それはそれでものすごくよくわかる女心で、素敵な出会いだし、あのフロアでダンスをしたり、トリックスターが本領を発揮する出会いの場面はとても楽しい、そんな温かい優しさにあふれた作品です。
私には映画づくりの技術的な側面はまるで分らないけれど、おそらくジャンが河に飛び込んでジュリエットの幻影を見るシーン(水中撮影?)とか、2人が離れ離れになっているときに、ジャンだけでなく、ジュリエットも、それぞれにベッドで悶々とするような一人寝の姿が交互に素早く映し出されるようなシーンには、サイレントからトーキーへの変わり目くらいの時代の映画としては非常に新しい映像が創り出されているのだろうな、と思いながら見ていました。
いま見ればそういう部分は技術的にはるかに高度に洗練された手法が可能になっているから、どうということもなく見てしまい、むしろ二人の気持ちをそれぞれに心の襞のひとつひとつまで描くような微細な描写や、周囲の人々との出会いをとらえる温かく優しく陽気な眼差しのほうに惹かれるのですが。
Blog2018-9-26