セリーヌとジュリーは舟でゆく(ジャック・リヴェット監督) 1974
この映画は「美しき諍い女」や「ジャンヌ」のように一応単線的に物語を追って行けばわかる系列の作品ではなくて、私がこれまで見たリヴェットの幾つかの作品の中では、どちらかといえば「パリはわれらのもの」のように、単線的な物語を追っかけようとしてもうまく理解できない作品です。
でも、何の予備知識もなく手ぶらで素直に見ていると、或るリズムにのっかっていくみたいに、次はどうなる?次は?とさっぱり意味のわからない展開を追っていくこと自体がなんだか楽しく、おもしろくなってくるようなところがあります。
冒頭はメガネに赤毛の若い女性(あとでこれがジュリーだとわかります)がベンチで赤い表紙の本を読んでいて、足に履いたサンダルか何かでベンチの足元の地面に何か文様を描いたりしている場面です。その本のタイトルが「魔法」だと字幕で教えられます。だから足で描いている文様も、魔法陣か何かなのでしょう。
美しい樹々の緑が目の前にあり、空いたベンチの上を猫ちゃんが何かを狙うような姿勢で走って飛び降りてみえなくなります。こんな無名の猫ちゃんはこのあともこの作品で登場します。ラストにも。猫と魔法は相性がよさそうですが・・・きっとそれなりの意味があって挿入されているのでしょう。
ジュリーの目の前を、派手な襟巻みたいなのをして青い大きなカバンを肩から下げた女が急ぎ足で通り過ぎていきます。
その時にサングラスとかスカーフとかを落として行ったので、ジュリーが拾い、大きな声で呼び止めようとしますが、聴こえないのか、聴こえても急いでいるせいか、先を行く女(あとでこれがセリーヌだとわかります)はどんどこどんどこ早足をますます早めるようにしていきます。
そこでジュリーも見失わないようにセリーヌ、この時点ではどこの誰とも知らないやはり若い女を追いかけていきますが、だんだんと追いかけること自体が自己目的のようになって、最初は相手が気付いてくれるように声を挙げていたけれど、じきに声も挙げず、自分の姿も追いかけていることがむしろわからないように物陰に隠れてみたり、追っかけるほうの行動もちょっと探偵の尾行のような様相を呈してきます。
いきなり目の前を足早に通りすぎていくのを追っかけてどんどこどんどこ、というのに観客としてついていくうちに、その意味はわからないけれど、とにかく逃げていくやつをおっかけていくこと自体が自己目的化して、次はどうなる?つぎは何が起きる?という興味だけで置いてきぼりされないように、こちらも追っかけて行く、そういう心的経験をくぐると、これはどこかで同じような経験をしたな、というかすかな感じがやってきて、冒頭の「たいていの物語は、・・・」という文句を思い出し、そこへジュリーが見ていたのは魔法の本だったな、というのが結び付くと、あぁ、アリスのワンダーランドだな、と思い当たります。
い当たりますジュリーの目の前を足早に通り過ぎて、呼び止めようとするのにどんどこどんどこ行ってしまう、それをどんどんまた追っかけて行く・・・それはアリスの目の前を足早に通り過ぎていったあの兎とそっくりだということに気づきます。 あとで登場する魔法の館の少女マドリンが遊んでいるとき、「私を飲んで、と瓶に書いてあった」という風に、アリスの引用も登場します。
もちろん、そんなことは知らなくったっていいのだけれど、連想すると、いっそう次はどうなるんだろう、どんなワンダーランドに迷い込むんだろう?とワクワクしてくることは確かでしょう。
登山電車に乗っていくセリーヌを石段を走りのぼって追っかけるジュリー。セリーヌの方も当然ジュリーに追っかけられていることにはとうに気付いているはずですが、立ち止まろうともしなければ、問いただすこともせず、こちらもただ逃げていく・・・のかどうか、とにかくどんどこどんどこ先へ行くことだけが自己目的になってしまったように歩いていき、やがて安ホテルらしい建物に入ったセリーヌは、宿帳への記入を求められて、「セリーヌ・サンドラル - 魔術師」と記入するのです。セリーヌが宿の窓から下の通りを見ると、ジュリーが見上げてうろうろしています。
翌朝、ジュリーが再びホテルの前に来て、次の場面はホテルの1階のカフェで向き合って座る二人。「これあんたのよね」と拾ったショールをセリーヌに返すジュリー。
ジュリーは図書館勤めらしくて、本の処理をしている姿が次の場面です。そばで同僚がタロットみたいな占いのカードを広げてほかの同僚とカードゲームに興じています。どうやらこの映画は魔法や占いのようなあやしげな世界に関わる世界に私たちを誘っているようです。
まぁこうやって逐一追っかけていくと、なにしろVHS2巻で3時間13分の作品なので、ここらでやめましょう。さきほどは書くのを忘れましたが、最初の場面の前に「たいていの場合、物語はこんなふうに始まる・・・」というふうな字幕が映ります。ときどきこういう字幕が出るのも面白いところですが、とりわけ最初のこの言葉は意味深です。
昔、フォースターが小説についてのエッセイで、「story」と「plot」の違いを分かりやすく説明して、、「王様が死んだ。そして王妃様が死んだ」というのがstoryで、「王妃は王様の死を悲しむあまり死んだ」というのがplotだ、というような説明をしていたのを読んだ記憶があります。要は物語というのは継起的なできごとを時間を追って語って行き、その興味のありようは「次に何が起きるのか」という一点にある、ということなのでしょう。
この映画は普通の単線的な物語のように追っかけて、登場人物の言動の意味がひとつひとつ自明というわけにはいかないけれど、そういう「ふつうの」物語では、たぶんこうなるだろうな、と予想がつくようなレールがなくて、本当に「次に何が起きるのか」わからない、という興味で展開していく点では、フォースターの言う「物語」の典型のようにも思えてきます。
最初の出だしからそうで、だいたいこのベンチで魔法の本を読んでいる女性が何者かもわからなければ、前を急ぎ足で通っていく女性がなぜそんなに急いでいくのか、落とし物をして声をかけるのになぜ止まらないでドンドコドンドコ歩いて行くのか、またメガネの女(ジュリー)はなぜあんなにまでしつこく知らない女性のあとをおっかけていくのか、また追っかけられていることに気づきながらセリーヌはなぜ止まらないのか・・・
話が「わかる」とか「わからない」というのは、こういう「なぜ」に答え、登場人物のいちいちの行動の「意味」が明らかになる、ということなのでしょうが、ここではそれは明かされません。そもそも、そういう「なぜ」に答えるとすれば、それはフォースター流に言えば「story」ではなくて「plot」ということになるでしょう。「なぜ彼女はこうしたのか」「それはなぜならこういう理由があったからだ」というのは、まさに彼の言うplotですね。
逆にここでは、ひたすら「story」だけが追っかけられている、と言ってもいいでしょう。私たちは「なぜ」か分からないまま、いや「なぜ」と問う間もなく、and だけでつながる次の場面へとスピーディーに導かれていくわけです。
基本的には全編、そういう意味でのstoryの面白さで、この作品は成り立っている、と言ってもいいのではないでしょうか。
ジュリーとセリーヌが仲良くなり、互いの知り合い、昔の思い出を語るキザな男(ジュリーの彼氏だったらしいが電話を受けたセリーヌがお相手にいって、最後は訣別)やら、世界ツアーを考えているという劇場の支配人らしき男(楽屋にいるはずのセリーヌを探しにきていないのでジュリーが代わりに出る、という)やらとのちぐはぐな役割交換的な出会いやら別れやら、幼いジュリーの面倒をみてきたばあやとの出会い(そこで話される向かいの家にもと住んでいた家族の記憶がジュリーやセリーヌが見る魔法の館の世界に重なってくるのですが)やら、いろいろなエピソードが散りばめられていますが、アリスのワンダーランドに相当する穴の底から通じていた別世界にあたるのは、、セリーヌがアルバイトで子守をしている謎の館、「逆さリンゴ通り7番地」で、ここが実は魔法の館。
はじめセリーヌがここの主人たちに追われてジュリーのところへ逃げ込んできたり、ジュリーが一人で探検に出かけたり、といったことを経て、やがて二人が飴玉を舐めることでこの魔法の世界の出来事を見たり、「キートンの探偵学入門」ではないけれど、その世界に自分たちも入り込んでしまうという、魔法の館の幻想の世界。
はじめは気が付いたときには忘れてしまっていて、フラッシュメモリーのように一瞬だけパッ、パッとその世界の断片がランダムに挿入されるだけなので、それが一体何なのか全然見当もつきません。でも二人がやがて並んで魔法の世界に入るための飴を舐めて、並んで座ってテレビドラマでも見ているような二人の姿が間歇的に登場するようになると、その幻想の世界も一定の持続性をもって、自立的な物語世界を構成し始めます。ちょうどテレビの面白おかしいドラマでも見るように飴を舐め舐め、魔法の館の幻想の世界で起きる出来事を見ながらキャッキャッ言って笑ったりする二人の姿はとても奇妙で面白い。
どうやら、その幻想の世界にはオリヴィエという男とその娘でまだ少女のマドリン、それに亡くなったオリヴィエの妻でマドリンの母親の姉カミーユ(赤いドレスまたは白いドレスで金髪の女)、もう一人部屋の入口で失神するシーンが何度も繰り返し挿入される青いドレスに黒髪の女、そして白衣の看護婦姿のアンジェラといった人物が登場し、オリヴィエという男はこの家のただ一人の男性としてどの女性とも多かれ少なかれあやしい曖昧な関係性にあるようですが、カミーユは具体的に彼との結婚を考えています。
しかし、亡くなったオリヴィエの妻の遺言があって、オリヴィエは娘のマドリンが居る限り再婚しない、という誓いに縛られています。それで、マドリンを亡き者にしようという企みがなされている。それを知ったセリーヌとジュリーは、娘マドリンを救い出しに行こう、と自ら魔法の世界に足を踏み入れ、かわるがわるアンジェラの姿になって、幻想の世界の人間たちの隙をみてマドリンを助け出します。このとき、看護婦姿になって幻想の世界に登場するのはセリーでもあり、またときにジュリーでもあり、どうやらそれは飴をなめたほうがそういう姿をして入り込めるようで、最後は二人共同時に登場していたりします。てんやわんやですね(笑)。
この魔法の館では監督たち映画の作り手が思う存分遊んでいる感じがします。これまでの映画的経験や手法をめいっぱい詰め込んで自分たち自身が楽しんでいる(笑)。マドリンが「達磨さんころんだ!」を大人たちとやっていたり、いろんな遊びや歌が登場して、そんなこともとても楽しい。
そうして最後はとにもかくにも無事にマドリンを救い出して、三人で湖へ舟を漕ぎに行って、水面に舟を浮かべているところへ、あの幻想世界のオリヴィエやカミーユたち三人がゾンビのような暗い表情で動きもなく乗った舟が現れて湖面を滑っていきます。
最後の最後は、再び冒頭の公園?みたいな緑豊かな通りの石畳に面したベンチの光景にもどりますが、そこでうとうと居眠りしていてハッと目覚めるのは冒頭のジュリーではなくてセリーヌです。
そして、彼女の目の前を急ぎ足で通りすぎていくのがジュリー。ジュリーは何か落とし物をし、セリーヌが拾って大声で呼びながらジュリーのあとを急ぎ追っかけて行きます。
最後にベンチの上のネコちゃんのアップがきて、おしまい(笑)。
アリスのワンダーランドに迷い込んでそれなりに楽しむことができる人なら、楽しめる映画ではないかと思います。アリスだって、ひとつひとつの出来事がどういう意味をもっているのか、とか、登場「人物」は何をあらわしているのだろう?とか深刻ぶって作品外の世界と一対一対応の「答」を見出さないとわかったような気がしない、というような人には向かないでしょう(笑)
ひとつ付け加えておくことがあるとすれば、劇中劇の話です。「パリはわれらのもの」ではシェイクスピアの「ペリクリーズ」を登場人物が上演しようとリハーサル場面が重要な舞台の一つになっていました。
感想を書いたときまだ読んでいなかったので、「ペリクリーズ」も読んでみましたが、あの劇のコンテンツが何か「パリはわれらのもの」という作品の骨格のひな型になっていたり、内容を示唆する何か象徴的な意味合いを持っているかと言えば、私にはそうは思えませんでした。したがって、わたしにはなぜペリクリーズという作品でなければならなかったのか、またリハの場面でやっている北風だ、南風だ、みたいなセリフの場面が、どうしてもその場面を持ってこなくてはならなかったのだ、という必然性は感じられませんでした。
私の無知と誤解でなければ、そうするとあのリハの場面や劇中劇としての演劇は、単に重要な複数の登場人物たちが出会い、交錯し、別れる場として、また彼らの語る演劇についての言葉のほうに意味があるだけか、あるいはもっと表面的には、演劇もまた権力によって潰されたり変質されたりする、という、あの劇中劇としてのペリクリーズの運命が、あの作品全体の陰謀論めいたバックグラウンドを暗示している、といったものにすぎないのか(そうであれば必ずしもペリクリーズでなくたって良かったわけですが)、私には確定的な判断はつきかねます。
ところで、この文のはじめに引用した文庫本の「ジャンヌ」に収録されたインタビューで、聞き手が監督に対して「あなたの映画にはなぜ演劇を中心紋(フィクション内の核となるフィクション)にしようとするオブセッションが見られるのですか。」という問いを投げかけているところがあります。
監督は、「ジャンヌ」でもそうだけど、中心紋にしていないとしても、演劇への偏向はある、と答え、彼が主演のサンドリーヌにアクションと台詞を区別するように命じたので、とても驚いたと彼女の公刊した撮影日誌に書かれていたことを挙げて、それは自分の舞台経験からきたことだ、と語っています。
私がそれにつけて思ったのは、この「セリーヌとジュリーは舟でゆく」の魔法の館の幻想世界の出来事は、この中心紋としての劇中劇の変奏なのだろうということです。それは「パリはわれらのもの」のペリクリーズのように古典的な入れ子構造になった劇中劇ではなくて、劇と劇中劇の世界がいわば相互浸透するような形の、往還可能な構造をもった劇中劇になっていると思います。
そういう仕掛けのおかげで、主人公たちは現実と幻想の世界が自由に往還でき、実に自由で楽しい世界を見せてくれることになります。
さらに言うなら、前に感想を書いた濱口竜介監督の「ハッピーアワー」のあやしげな(笑)重力ワークショップは、広い意味の「劇中劇」の変奏とみることが出来そうだなと思いましたし、或いはまた若い新進女流作家が長々と朗読してみせる温泉で書いた小説なるものも、そうした「劇中劇」の変奏と考えて、それが劇の登場人物(作家とその世話役をつとめ、作家にコクラレて戸惑う男、さらにその彼女・・・)に影響を及ぼしていくという構造をおさえて見ていくと面白いかもしれない、と思ったりしました。重力ワークショップのほうも看護婦さんの彼女とワークショップの講師との現実の関係に波及していくわけで、これらの「劇中劇」がこの作品にとってのいくつか存在する「中心紋」であることを物語っているように思われます。
濱口監督の作品にはもっとあからさまな劇中劇、というより劇中劇のほうが母体の劇を食ってしまうほどの存在感をもつ「パッション」という作品もあって、感想では理屈っぽいなぁとやり過ごしてしまいましたが(笑)、ちゃんとこの中心紋をおさえて見直せば、こうした作品の中での中心紋としての劇中劇の意味の色々を楽しく考えてみることができるような気がします。誰か若い人、やってくれませんか?(笑)
Blog 2019-3-2