わたしを離さないで
(マーク・ロマネク監督)
『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク監督。2010年、イギリス映画)
言わずと知れたカズオ・イシグロの2005年発表の原作に基づく映画作品で、日本でも話題になりました。でも私はその内容のあらましを聞いた段階で原作もあまり読みたいと思わず、映画も長く見たいと思わなかったのです。「日の名残り」などは原作にも映画にも感動したのですが・・・
ほとぼりがさめて(この作品を見て、やっぱり見る前の勘は当っていたな、というのか、もう一度見たい映画だとは思えませんでした。いわゆるクローン人間を臓器移植のために作り出す未来社会を舞台に描いたSFで、そのクローン人間の一人で、いまは徐々に臓器移植手術を受けて弱り、死んでいく同類たちを介護し、見取る介護人の仕事をしているキャシーの目で語られる物語です。
舞台はキャシーがまだ寄宿学校にいたころに戻って、彼女が親友のルース、ひそかにキャシー自身が好意をもっていたが親友ルースが彼氏としてつきあうようになる男の子トミーの3人の日常が描かれます。そこは緑ゆたかな自然に囲まれたすばらしい環境で、平和な日常が支配しているように見えるのですが、外界から遮断され、一歩指定された学園から外へ出れば、生徒が殺されたり、餓死したりしたという話が伝えられ、生徒たちはそれを信じて暮らしています。生徒たちは絵画や詩の創作にはげみ、それらはいつもは外部にいるマダムのところに送られています。
彼らに真実を伝えようとした教師は辞任させられて去っていきます。彼女は、生徒たちに自分自身の運命について真実を伝えるべきだと主張していたのです。それは、生徒たちが自分の人生を自分で決定することはできず、すでに決められていること、中年になる前に臓器提供が始まり、多くの場合、3度目かせいぜい4度目の手術で短い一生を終えるということ、などであって、そういう自身の運命を知ることによって生に意味を持たせるように、ということでした。
18歳でそれぞれ提供する臓器によって別々の施設に別れていくのですが、3人はコテージと呼ばれる場所で共同生活を始め、ルースとトミーは恋人となり、ルースはキャシーに見せつけるようにその関係をあらわにしてキャシーを孤独のうちに置きます。彼らのところに外部から、クローンどうしの恋がホンモノであることが証明できれば、臓器提供が猶予されるとの噂がもたらされます。また、寄宿学校で盛んに描かれ、マダムに送付されていた絵画などの評価で、その恋人たちのトータルな人間性が審査され、「提供延期」の可否を左右する、といった噂も流れます。
ルースが自分の「オリジナル」かもしれないという女性の噂を聞いて、みなで見に行き、ルースは自分に似てはいない、とつよく否定して戻る原作にもあったエピソードも挿入されています。
その後3人は別々の道を歩まされて別れますが、希望どおり介護人となったキャシーは、再びルースやトミーと再会し、そのときに、すでに2回の臓器提供をして、次はもう「終了」(彼らの世界での死の隠語)するだろうことを自覚したルースは、キャシーへの嫉妬からトミーを奪ったことを告白し、もともとトミーはキャシーの恋人であるべきだったとキャシーに謝罪し、「提供猶予」を頼むべきマダムの住所を知らせます。
ルースが3度目の手術で「終了」した後、トミーとキャシーはトミーが数年前から描いた絵画を持ってマダムを訪ねますが、そこで校長から聴かされたのは、昔も今も「猶予」はないし、絵画はクローン人間たちの魂を探るためではなく、そもそもクローンたちに魂があるかどうかを知るためだった、とい残酷な真実でした。
ここで冒頭のシーンに戻り、キャシーの目に映るのは手術台に横たわって最後の手術を待つトミー。そしてトミーが「終了」して2週間後にはキャシー自身にも、1カ月後に最初の手術を行う旨の通知がきます。わたしたち(クローン)とわたしたちがその命を救った人間との間に、違いがあるのだろうか。生を理解することなく命がつきるのはなぜなのか・・・キャシーの最後の自問でした。
とてもやりきれない、つらい物語です。人生の喩として、人は必ず死ぬ、或る意味で、はじめから定められた「囚われの状況」にある存在だ、ということは分かります。しかし、具体的にあの若者たちが置かれた情況ならば、あれだけの意志と行動力を具えた存在であるなら、なぜ逃げないのか、なぜ反乱を起こさないのか、と私などは見ていて思ってしまいます。
いや、それはあらゆる人間にとっての、決して動かすことのできない宿命の喩なのだから、抗ったり逃げたり、っていうのは約束事としてないんだよ、というのは、作品の外部での理屈としては分かりますが、この作品の具体的な世界の内部においては、やっぱり疑問です。
それはSFの約束事なんだよ、という基本的な舞台の設定の話とは別の問題だと思います。或る未来の時点で生殖細胞の交配によって成長した「オリジナルな人間」の延命治療用に、通常細胞から人工的に作り出されたクローン人間を使うようになりました、というあり得ない異常な世界をSFの約束事として設定するのは許されるけれども、一旦そういう世界が設定された上は、その世界の内部の法則性が無矛盾に展開されなければ、物語世界のリアリティそのものが崩れてしまいます。そこに登場する諸環境も、登場「人物」の振る舞いも、その心の動きも、その世界の内部で許される諸条件に適合したもの、言い換えれば必然性があり、リアリティのあるものでなければならないでしょう。
登場人物たちが、ああもでき、こうもできるはずなのに、それを選んだとすれば、それはなぜか、と問うたとき、その作品の世界の内部にちゃんとした答がなければ、見ている者には納得しがたいところが残るでしょう。外の世界に出ようとした生徒は殺された、という噂がある、というだけで、ほっておけば臓器をとられ、確実に若くして殺されることが分かっている、知性をもつクローンたちが、羊のようにおとなしく自分の臓器を切り取る手術台にのぼる順番を待っている、というのはわたしには信じがたい。
収容所に羊のごとくおとなしく列をなして進み、ガス室で死んでいったと言われるユダヤ人たちは、圧倒的なナチス国家の暴力装置の強制力によってそうであったので、この映画のような環境の中で自発的におとなしく死地へ赴いたわけではないし、実際、あのような鉄壁の収容所からでさえ、反乱を起こして脱走したグループもあったことが戦後に明らかになっているようです。
別段、そういう英雄物語を描いてほしいわけではないし、暴力装置による監視・拘束状況を描けばいいとも思いませんが、いまのこの作品がSF的設定としても弱点を持っていて、その世界のリアリティを壊している面は否めないのではないか、という疑問を持っています。
もし作品の内部世界におけるリアリティを追求するなら、もっとひどい檻の中にとじこめて拘束・監禁しないといけなくなって、それではある程度の自由度をもつ人間の生の喩の世界にはならなくなってしまうから?あるいは、その苛酷な宿命を、美しく描きたかったから?
たしかにきわめてソフトな「囚われ状態」だからこそ、恋もでき、自分の運命に期待し、裏切られもする、という普通の人生の喩としての物語になるのですが、描かれた作品世界の内部のリアリティとしては首を傾げたくなってしまうところがあります。それは原作自体が内蔵する問題かと思います。
わたしなら、「ブレード・ランナー」のルトガー・バウワーでしたっけ、あのアンドロイドのように、自分の運命に抗うように、自分たちを生み出した人間に反乱を起こしますね(笑)。どうしてそう羊のようにおとなしく抹殺者たちが自分の内臓をむさぼるのを唯々諾々と許しているのか・・・
たしかに男の子のトミー役のアンドリュー・ガーフィールドというらしい役者など、いかにも気が弱そうな、優しそうな男の子ぶりで、それはそれでとてもよくこの役柄にフィットしてはいましたが・・・そして、誰よりも主役のヒロインキャシー役のキャリー・マリガンの愛らしいこと。友人の嫉妬、裏切りで恋を奪われて孤独なキャシー、そしてその友人の告白・謝罪と死によって、ようやく結ばれた二人の束の間の、ささやかな幸せと無残な結末の哀れさはたとえようがなく、この二人の表情がこの作品の質を保証しているようなところがありますが・・・
死すべき宿命のうちに囚われた若い男女の純愛物語。そんな宿命は私達すべての人間が共有しているものですが、その普段はそれほど意識もしない宿命の枠組みをほんの少し小さく、窮屈な枠組にしてみせるだけで、これほどやるせない暗い物語になってしまうのですね。
blog 2018/05/27