サタン・タンゴ

(タル・ベーラ監督)

タル・ベーラ監督「サタンタンゴ」


 出町座でタル・ベーラ監督の「サタンタンゴ」を見てきました。朝10時から2回休憩を挟んで夕方6時過ぎまで、チラシによれば「伝説の7時間18分」だそうです。さすがに少々腰が痛い(笑)。

 映像に多くの素晴らしいシーンがありました。

 最初に、手前に泥濘の広がる広場があって、その向こうに低層の朽ちて漆喰が剥げてレンガが半分くらいむき出しになったような牛舎の建物が連なる光景が静止画のようにとらえられていると、その一部でちょっと動くものがあって、おや?とみているとそれが一頭の牛で、そいつが動くとそのあとからまたほかのやつが出てきて、みるみる続々と牛たちが出てきて、たちまち牛舎の前に溢れていく。それをじっと静止カメラで泥濘を隔ててとらえていると、まるで演技する俳優みたいに一頭の牛がまっすぐ中央をこちらへやってきて、そのあとも俳優さんみたいにカメラの構図の中を歩くのですね。この「演技」には感動しました(笑)。

 牛の群れが向かって左の方へ流れていくのに沿ってカメラが左へゆっくりと平行移動して、建物にさえぎられて画面が黒くなって、また明るくなると向こうに流れていく牛の群れがとらえられます。この一連の冒頭のシーンだけで、おう、やるな、と素人なりにその映像のある種の美しさに心が動きます。

 さらに、これも人間のドラマの冒頭と言っていいのですが、すべてを記録している「先生」なる眼鏡にデブッチョの死にかけの老人の声(だったかと思う)で、村の或る男(フタキとかいったかな)が鐘の音で目が覚めた、というようなナレーションがあって、実際に男がまだ冷めやらぬ窓辺へ行って外をうかがうシーンがあるのですが、そのシーンの始まりは、暗い室内から唯一の明るい輪郭を見せているその窓をとらえた映像で、そこから徐々に夜明けの光が増して、窓の周辺からものの形が見えるようになっていく・・・このわずかな夜明けのプロセスを実に精妙な光のとらえ方で室内からとらえていて、なんて繊細なカメラなんだろう、と感心してしまいます。

 林の中をまっすぐにつづく道をイリミアーシュと二人の男が村へ入ってくる場面とか、イリミアーシュにたぶらかされた村人たちが村を去っていく場面とか、先生と呼ばれる男が村はずれの鐘の鳴る教会へ行く場面とか、とにかく雨と泥濘の中をまっすぐに延々とつづく道を行き来する登場人物たちの姿を奥行きのある画面でとらえているシーンがみなすごくいいのです。ハンガリーの監督なんで、きっとハンガリーのどこかの村なんでしょうけれど、そういうローカルなものが感じられるというのではなくて、人っ子一人いない雨と泥濘の中をまっすぐつづく畦道のような一本道の光景とってのは、とてもシュールで、哲学的な雰囲気を持った作品にふさわしい抽象世界の光景のように見えてきます。

 とくにこのイリミアーシュと二人の男が帰ってくる場面は林に霧が立ち込めるなか、聞こえてくるバックグラウンドミュージックも素晴らしかった。全般にアコーディオンで奏でられるこの映画の音楽、どれも素敵でした。

    チラシに採用されていた、三人の男たちがぬかるんだ畦道を行く背後から強い風にあおられて木葉やらゴミやらが舞い、彼らが歩くより早く前方へ転がっていくのを、ずっと背後からとらえていく長回しのカメラもすばらしかったし、酒場で酔っぱらい、踊る村人たちが、死んだはずの男が復活して帰ってきたかのように、誰かが来る!という声に一瞬凍り付き全員が戸口を振り返って、その瞬間動画が静止画に変わる、あのあたりの映像もとてもいい感じ。

 男を連れ込むために娘を追い払う母親からも、兄からも、村人たちからも、最後はいくらかは頼りにしていたらしい「先生」からも邪険にされて、自分がいじめ殺した猫とともに猫いらずで自死を遂げる少女にカメラが寄り添った一連のエピソードの部分も、素敵でした。

 小説の各章を特定の異なる登場人物の視点で描いていくのと同様に、この映画のカメラはある時は村人フタキの視点に寄り添い、ある時は似非預言者イリミアージュの視点に寄り添い、ある時はまたこの不幸な少女の視点に寄り添って進行します。従って、時間的には前後して、同じできごとが異なる登場人物の目で描かれる点もなかなか面白いです。もちろん現代小説では全然珍しくもない手法だし、映画でも別段この監督の発明じゃないのしょうが、この村で何が起きているかを、異なる視点でじっくりと二通り、多いと三通りにたどりなおしてくれるので、平板な出来事が立体的に見えてくるところがあって、手法がよく生きていると思います。

 そうした映画表現の方法的な意識についてはずいぶんと凝り性の監督らしくて、そのひとつのあらわれとして、村人の一人ではあるけれども、ちょっと特別な位置を占めている「先生」と呼ばれている人物が設定されています。アル中で、ものすごく太っていて、売春婦たちからも、あれはもう長くはないね、と評されているような歩くのもヨタヨタの老人で、ほとんど家の中に閉じこもって酒を飲みながら窓から村人を「観察」し、ノートに「記録」するようなことを続けています。

 映画の冒頭に、「ある朝フタキは鐘の音で目が覚めて・・・」というようなナレーションがありますが、この語り手、イコールそのように村人の行動を観察し、記録しているのは、村人から「先生」と呼ばれているこの人物であり、酒を買うためにやむを得ず外へ出る以外は村の女性に世話をしてもらっていたらしくて、家にこもりきりで、窓ガラスを隔てて村人たちの行動を距離を置いてみている役回り、ということですね。

 ラストにもこの「先生」が登場して、窓に板切れを張り付けてもう外も見えない真っ暗な部屋になり、その中で「記録」を続けることを示唆するような、さきの「ある朝、フタキは鐘の音で目が覚めて・・」みたいなナレーションに戻ってくるので、この人物にこの物語全体の語り手の役割をさせる監督の意図ははっきりしています。語り手というのか、この人が村人を「観察」し、「記録」した内容がこの作品で描かれている村人たちなんですよ、ということでしょう。

 もちろんリアリズム風に言えば、この人は全然家を出ないのですから、村人の行動なんか観察できるわけもないし、正確に記録すると口では言うけれど、全然そんなことできるわけがないのです。ただの死にかけの酔っぱらいの老人にすぎません。ただ監督がこの人物に構図としてそういう役回りを与えている、というだけです。

 実際、最後のところで、この「先生」は村人たちがどうしているだろう?と自問し、まだ知り合いの村人たちがそれぞれ村の家にいると思っているのですが、実際には村人たちはとうに似非預言者に連れ出されて村を去ってしまっているわけです。従って、当然その点からも、ここに描き出された世界がこの「先生」の描いた世界だとすれば、それは「観察」の「記録」なんかではなく、この「先生」の妄想だということになります。はじめとおわりがつながって輪をつくる、その輪の中がこの物語なんですよ、という仕掛けはとても古典的で、むかしむかしあるところに・・・という常套句と同じ役割を果たしているわけです。

 その中身であるドラマの方はかなりお粗末です(笑)。最初のほうは村人の奥さんとほとんど同等と不倫していたり、なにか村人たちが共同で貯めた大金を二人でトンズラしようとか、それを知られたやつにお前も入れてやるから、とか、あるいはなぜか村人たちが最初から畏怖の念を持っているらしい、しかも死んだはずの男が帰ってくる噂で緊張感が高まっているとか、そのへんでは一体何が起きるのだろうか、どういう背景があるのだろうか、と興味津々、引っ張っていく力があったのですが、死んだはずの男が帰ってきて説教をぶつあたりから、なんじゃこれは・・・とちょっとそのお粗末さにシラケるところがありました。

 もちろんこの似非預言者イリミアーシュという男はイエス・キリストに擬せられているでしょう。弟子の村人たちの数は12人じゃなかったけど(笑)。
 名前からするとエレミヤ書の預言者エレミヤかもしれませんが。彼の手下の少年が振りまいた噂に過ぎないけれど、村人たちにとっては「死んだはず」の彼が蘇って村へ帰ってきた「復活」も、性格が変わったように突然紳士になって村人たちに別天地での荘園経営をそそのかし、説得して彼らが稼いで蓄えた一年分の収益を口先一つでその懐へ預かるほどの信頼を得て、村人に村を捨てさせ、彼が描く壮大な荘園経営の計画のために廃墟で再集合。一度は村人の疑惑を買うけれど、またうまく言いくるめて、計画は延期としながら、放棄するわけではないから、各自別の土地に分かれ住んで働きながら、計画に資するような情報収集につとめて時期を待て、というふうにもっていく。これすべてイリミアーシュら3人が自分の罪を免れるために警視総監に強いられて、村民たちを騙して警察の末端組織としてのスパイ網を構築する陰謀の一環であった、というのですね(笑)。このへんはマンガチックで笑えてしまいます。

 だいたい、この似非預言者をなぜそんなに村人たちが畏怖すのかよくわからない。ただのチンピラで、特段の権力を持つわけでもないし、彼の言うことなど全然信ぴょう性がないのは、誰が聞いても明らかなのに、いい歳をした村人たちがころっと参ってしまうことに、まったくリアリティがありません。別段リアリズム作品じゃないんだから、リアリズム風のリアルがなくたっていいけれど、それならそれでメタフィジカルなリアリティがあってもらわないと、ただチャチな感じがするだけです。汗と泥でまみれて一年間朝から晩まで働いて得た収益を、何の根拠もない別天地での荘園経営計画などに、農民が差し出すはずがありません。せめてこの似非預言者の言葉に、言葉自体としての重さが感じられればメタフィジカルな根拠が実感できるのですが、それがさっぱり。

 なのに村人たちは何十年も生きてきた生活の根拠たる村を捨てて、まるで旧約のエキソダスみたいに自分たちの夢見る別天地があると信じて出て行ってしまうあたりも、フィジカルであれメタフィジカルであれリアリティが感じられません。

 この監督さんは哲学好きと見えて、ナレーションでちょっと抽象的な文言がちょいちょい出てきます。詩語のような言葉に面白い部分はあるけれど、映像のほうのドラマの扱いがお粗末なので、それが本当には生きてこない感じです。

 それにひきかえ、この映画で何がリアリティがあったかと言えば、先ほど書いたような風景ですね。ず~っとこの映画雨が降りっぱなしだったと思うけれど、そういう雨やら霧やらに包まれ、人影もない泥濘の畦道がずーっと視野の向こうにまで続いているような風景、そしてまた、冒頭の牛舎のような朽ち果てた貧しい建築物、人々の住まい、何にもないガランとしたその内部空間、似非預言者がちょっと男前なのですが(まあそれがたぶらかす要素の一つではあるかもしれません)、あとは一人も美男美女が登場しない(笑)村人たちの顔かたちも含めたあるがままの姿・・・雨や霧と泥濘、村人たちの貧困、無知、欲望、醜悪さ、こういうおよそ希望のない出口なしの風景が、監督の描きたかった世界の生地そのものを感じさせる、というところでしょうか。こちらのほうは、ナレーションの詩的言語と響き合う部分があったように思います。

 普通の映画というのは、着物の比喩で言えば、生地の上に多種多様な文様を描き、あでやかな色に染め上げて個性的な作品が出来上がるわけですが、この映画はそういう文様や染めよりも、どんな糸で織られたか、その糸の感触まで繊細に感じてもらいたい、また文様や染目の前にどんな質感をもたらす織りなのか、といった生地そのもののありようを感じてもらいたがっている、という気がします。

 むしろ文様や染めのほうは極端かもしれないけど、この監督、どうでもいいと思っているんじゃないか(笑)。村人たちが別天地に幻想を抱いて村を棄てたものの、結局それは騙され利用されただけで、彼らにどんな救いも未来ももたらさなかった、ということさえ伝わればよかったのでしょう。そんな似非預言の中身とか、ドラマなんてちょっといい加減だし(笑)。でもこの世界の「生地」を捉えようとする映像のほうは一級品、という気がします。

 ただなにしろ7時間を超えますからね(笑)。これはもっとカットしてほしい。ど素人の乱暴承知で言えば、作品の価値を棄損せずに3分の1の作品に凝縮できるんじゃないか(笑)。もちろんそうなればタル・ベーラ監督の作品ではなくなるでしょうが。そして、その長回しが非常に効果を上げているシーンはこの作品の中にたくさんあったように思います。最初に書いた冒頭のシーンなどその典型だし、先に書いた延々と続く村の泥の畦道を行く登場人物を追うカメラなど、長回しでなければこんなすばらしい映像は生まれなかったでしょう。それは認めますが、村人らがサタンタンゴを踊って酔いしれるシーンなんかなんぼなんでも長すぎるでしょ。それも視点を変えて何度もさ(笑)。

 ふつうはこういう冗長性というのは、表現のテンションを下げてしまうと思うけれど、映像の対象に対する選択性の強度というのが時間軸に沿って伸びていく、という感じで、ある一つの対象を追うとか、一人の人物に寄り添って展開していくことで、あえて「転換」を拒否して、「選択」の強度を保つというやり方をとっているんだろうな、と思います。そのへんにこの監督の独特の方法があるのでしょう。

 7時間超で腰は痛かったけれど、退屈はしない、見所の多い映画でした。


 blog 2019-11-7