「チェチェンへ アレクサンドラの旅」(アレクサンドル・ソクーロフ監督 2007年/ロシア、フランス/92分)
私たちも新聞記事などでよく目にしたあの「チェチェン紛争」のチェチェンのロシア軍駐屯地へ、孫を訪ねていくおばあちゃんの駐屯地での数日を描いたものです。
孫と言ってもたしかもう26歳の小隊を率いる陸軍の大尉で、部隊長が経験も豊富な優秀な兵士だと言う一人前の軍人です。でもおばあちゃんにとっては、あくまでも可愛い孫にすぎません。会いたくなってわざわざ貨物列車の貨車のようなのに乗り込んで一人でやってきたのです。孫の大尉が許可願いを出して部隊長が許可を与えたということです。
このおばあちゃん御当人はもう先があまりなさそうな、歩くのもちょっと足元がおぼつかない感じですが、なんというのかちょうど日本でも私たちの明治生まれの祖父母世代というのは大正・昭和生まれなどと違って威厳というのか重みが備わっているように言われてきましたが、ちょうどそんな感じで、体は置いて弱っていても、頭はしっかりしていて、自分の信念みたいなものをしっかり持っていて、危険な戦地へ行くのも、兵隊ばかりの駐屯地で日を送ることも、また粗末な軍用テントの中で眠ることもちっとも苦ではなく、恐れるものはなにもない、といったところがあります。
けっこう頑固なところがあって、よたよたしているわりには駐屯地の兵士たちが差し伸べる援けの手を拒んだり、自分で駐屯地内を勝手にうろうろ歩き回り、あげくは駐屯地を出て近くの市場へ行って、疲れてへたりこんだものだから、親切な店の女性にその自宅まで誘われるまま世話になって帰ります。
別れはある朝突然訪れます。孫の大尉が部隊とともに突然5日間にわたって駐屯地から出動することになり、祖母に帰るように言い残して戦車で行ってしまいます。おばあちゃんは駅へ。そこには市場で世話になった女性とその仲間が数人見送りにきてくれています。抱き合って別れを告げるおばあちゃん。一人貨車に乗って都市へ帰っていきます。
ただそれだけの、穏やかな内容ですが、背景には戦争にあけくれ、人殺しに明け暮れる世界があるのは誰でも知っているし、この映画の中でもおばあちゃんと孫である大尉のやりとり(軍人として敵を殺す話になると孫のほうが避けてしまうけれど)や、市場での女性とのあからさまではないけれども彼女らがいまなぜこうした状況下に置かれているかを示唆するような会話、市場でお婆ちゃんが駐屯地の兵士のためにタバコを買おうとすると店の男の子が無言で何とも言えない表情をして、彼女に売ろうとしない、そういうところ、さらに市場の女性が頼んでおばあちゃんを駐屯地へ送っていくことになる隣家の青年の何とも言えないためらいのような表情と、おばあちゃんとの会話の中で言葉少なに自分たち駐屯地周辺の住民の状況を前提に、もういいかげん解放してほしいのだという意味の言葉を漏らす、そんなさりげない形で,おばあちゃんが徘徊しているこの駐屯地やそのロシアン軍に支配されているチェチェンのこの地域の人々との関係、微妙な状況というのがきちんと表現されています。
そして、一滴の血も戦闘も描かれていないけれど、そうした状況のもとで、よたよた徘徊してへたりこんだおばあちゃんを家に連れていき、お茶を飲ませ、隣の子に送らせる女性や彼女と一緒に別れを告げるおばあちゃんを駅まで見送りにいき、互いに抱き合う女性たちの姿、おばあちゃんとかわす言葉、男たちはこうだけれど・・・という言葉と対照的なつながりようをする女性どうしのつかの間の交感のうちに、ソクーロフのこの戦争への姿勢、平和への願いが込められているのがよくわかります。
当然いまのロシアでチェチェン紛争を戦うロシア軍やその戦争をあからさまに批判するような作品をつくれるはずもないでしょうし、ひとりのもはや先も長くはなさそうなおばあちゃんが最後に孫に会いに行く旅、そのよたよたした身体をまるでひと時もじっとしてはいられないように懸命に奮い立たせて駐屯地内を徘徊し、武器も戦車もいろんなものをみな見たい、知りたいといい、駐屯地の外の市場まで行って人々と語る、兵舎の規則とか自分の老いた身体とかに頓着しないで、そういう一人の自立的な人間としてごくあたりまえの思ったように行動していく姿を通して、場の異様さや周囲のとまどいや沈黙の反応のほうが、その歪みを浮かび上がらせるような非常にソフトな形で、反戦と平和への意思が静かに語られているとみなすことができる作品だと思います。
みなみ会館のサイトの3-4行の解説の中に、主演のおああちゃんアレクサンドラを演じたヴィシネフスカヤは、「撮影当時80歳の世界的オペラ歌手で、映画初出演」なのだそうで、その記事にある通り、「映画初出演とは思えない堂々たる存在感」を持っています。あの顔はやっぱりただものではなかった(笑)。
市場の女性が、ロシア兵がみんな幼い。子供に見える、と言う場面がありますが、実際に年齢も幼いでしょうが、このアレクサンドラ婆ちゃんを前にすると、どの兵士もまるで幼い子供のようでに見えてきます。でもそれが女性たちの思いとは全然別のところで、血みどろの戦いをして、人を殺してくるわけですね。アレクサンドラが、兵舎へ戻ってきた孫に、人を殺してきたのかい?という場面がありますが、孫は何も答えられず、話をそらせて座を立って行ってしまうのです。 こういう孫や兵士たちとのやりとりと、アレクサンドラが市場の女性と言葉をかわす場面は、どちらも穏やかで、さりげないものですが、対照的なありようを鮮やかに描いて、戦争と平和のディレンマを背負ったロシアの苦悩する魂をソフトな形で巧みに描き出しています。
blog 2019-11-13