暗殺の森(ベルナルド・ベルトルッチ監督)1970
若いころ、いっとき読んだことのあったイタリアの小説家アルベルト・モラビアの「孤独な青年」を原作とする映画です。
第二次大戦直前のイタリアで、少年のころ彼を凌辱しようとしたホモの兵士リーノをその拳銃で撃ち殺して(と思いこんでいた)殺人者としての過去のトラウマゆえに、自分がほかの人間とは違ってしまった、なんとかしてほかの人間と同じ、普通の人間になりたい、という潜在願望が心の底に凝結した孤独な青年マルチェロが、「みなと同じ」であることが社会全体を支配する積極的な価値観となるファシズムの勃興という社会状況の中で、その大きなうねりに同期することで生きがいを見出してファシストとなり、ファシズム政権の情報工作員として、組織の上層部から学生時代の恩師にあたるリベラルな老教授の殺害を指示され、何も知らない新婚の妻と共にパリへ向かい、教授夫妻に近づきます。
新婚の妻は無知で能天気なアッパッパーの女性にみえて、実は少女時代からマルチェロに出会うまでずっと父親の友人である弁護士の老人のおもちゃにされてきたことによる深い心の傷をもつ女性で、パリへ向かう列車の中でその過去を告白しますが、マルチェロはそんな彼女を受け入れます。彼にとってはファシストとしての使命が第一で、女はカモフラージュの道具のようなものだったのです。
老教授夫妻はマルチェロを「敵」と察知しながら受け容れます。教授の妻は教授と大きく歳のはなれた若く魅力的な女性で、マルチェロは急速に彼女に惹かれ、ファシストとしての使命を果たすことを逡巡するようになります。
マルチェロは監視役に急かされながら、教授殺害に踏み切れず、曖昧な態度のまま、教授夫妻の家にとどまり、教授は彼をファシストと知りながら、同志への手紙と称する実は白紙の書状を届けるように頼んで彼を試し、その結果彼を信頼するに至り、本人に対して、きみはきっと転向することになるだろうと預言します。
しかし、教授夫妻が人里離れた山中の別荘へ行くからとマルチェロ夫妻をも誘ったとき、マルチェロは夫人を残し、監視役と共に教授夫妻の車を追います。彼自身は優柔不断のままで手を下しませんが、山中で前から来た車が事故を装って教授夫妻の車を止め、教授が車を降りたところで現れた数名のファシストたちの手で無残に刺殺されるのを目の当たりにします。
教授夫人はマルチェロの車に駆け寄って助けを求めますが、マルチェロは車窓をあけようとはせず、冷淡に傍観者の立場を守ります。夫人は山中を必死で走って逃げますが、追手のファシストの銃弾に倒されます。
ファシストたちが教授暗殺に成功してからほどなく、イタリアではファシスト政権が倒れ、社会情勢が一変します。昔ながらの盲目の親友イタロと街を歩いていたマルチェロは、路地で食べ物を餌に少年を口説いている男の声を耳にして、それが自分が少年の時に射殺したとばかり思っていた元兵士リーノであることに気づき、彼に詰め寄って問い詰めると同時に、逃げようとするリーノを、こいつはファシストだ!つかまえろ!と叫んで、反ファシストの群衆を煽り、そればかりか一緒に歩んでいた盲目の友人イタロをも指さして、こいつもファシストだ!と告発の叫びを挙げるのです。
邦題は「暗殺の森」で、たしかに雪の林の中での凄惨な教授夫妻暗殺のシーンは残酷だけれど素晴らしく美しい迫力のある映像ではありますが、原題は「順応主義者」とでもいうような意味なんですね。
マルチェロそのもののありようを指していて、ファシズムが勃興して支配力を広げていく中ではファシストとして生き、ファシズムが倒されて反ファシズムの民主化の嵐が訪れれば、それに順応して保身を図り、いとも簡単にかつての親友をも自分をも裏切って、新たな状況に順応していこうとする、そういう人物像を描いているわけです。
主人公のマルチェロという心の深くに傷を負った屈折した青年像を演じたジャン=ルイ・トランティニャンも、このなかなか複雑で難しい役柄をよくこなしていたと思いますが、この映画の魅力を支えているのは妻の一見アッパッパーの女性にみえて心に深い傷を負っているジュリアを演じたステファニア・サンドレッリと、マルチェロを引き付ける老教授の若く美しく強烈な魅力をもつ妻アンナを演じたドミニク・サンダという二人の女優さんだと思います。
彼女たちが繰り広げるダンスシーンの美しさは、ストーリー的にはハイライトでも何でもないけれど、映像美という意味では、この映画の必見のハイライトシーンです。教授暗殺のからくりを知ったあとの、ファシスト政権が倒れてから、二人の家庭でみせるジュリアの表情が、何も知らずにいたときのアッパッパー風のジュリアの表情から一変しているのはぎょっとするほどで、この女優さんの奥行きを感じさせてくれました。
Blog 2019-1-6