少女ムシェット(ロベール・ブレッソン監督)1967
「白夜」と「ジャンヌダルク」が心に残ったので、ブレッソンの映画は手近にDVDで手に入るなら見ておきたいような気がして、今回は原題が少女の名前そのものの"Mouchette"というモノクロの作品。
最初に暗い感じのまだそう歳でもない40代くらいの女性がこちらを向いて「心配だわ。子供たちが心配でまだ死ねない」と呟く場面でクレジットが出て始める映画なので、あぁひどく暗そうな映画だな、と思いましたが、予想通りひどく暗い映画でした。
母親は病気でベッドに横たわっていて、娘のムシェットはいつも帰ってきては母親のそばへ行ってこまごましたことの世話をしたり、どうしようもない父親や兄やムシェットとは歳のかなりはなれた赤ん坊を含む家族のために台所に立ったり、赤ん坊にミルクを飲ませたり、泣く赤ん坊をあやしたりおむつを替えたり、一家の不幸が全部ムシェットの背中に重荷になって背負わされている感じです。
ムシェットもいわゆるいい子ちゃんではなくて、誰彼となく周囲の人間に対して反抗的な姿勢を示す、というのか、なにかこう自分の置かれた暗い、貧しい、苛酷な状況に対しても、だけどそこから出られずにそこでそうして生きている自分に対してもいつも苛立って反発しているようなところのある、思春期のひとつの姿といえば姿ですが、不幸なありようをしていて、学校では教師ににらまれる問題児で、友達もなく、下校時に男の子には下半身をみせられて卑猥なからかわれかたをし、女の子たちにはなじめず孤独で、自分から彼女たちに泥土を投げつけてわざわざ嫌われ者になるようなことをしています。
彼女がこの映画の中でいきいきした表情をみせるのは、遊園地でゴーカートみたいな小さな車に乗って互いにガツンゴツンと車体をぶつけあって遊ぶような場面だけですが、その男の子にちょっと接近していくと乱暴な父親にひっぱたかれて、つかの間のハッピーな時間も台無しになります。
でも車をぶつけあって遊ぶ、その他愛もない場面がえんえんと映し出されていて、そこでは彼女は子供のように楽し気な表情を見せ、若い男がたびたび彼女の車を狙ったようにぶつかってくると、とても生き生きとした笑顔で、やったわね!というように振り向いてハンドルを返していく、あのシーンはとても瑞々しい。
ストーリーとしては、ムシェットが夜の森を彷徨っていて猟銃を持った密猟の男に出会い、折からの風雨の中、男について森の中の小屋に行くのですが、実はその前に男は森の番人である別の男と諍いになって取っ組み合ったのですが、いったん仲直りして酒を飲みあい、泥酔して、自分がどうやら相手の男を殺したかもしれない、と思っていて、ムシェットにずっと自分と居たと証言するように頼みます。ムシェットは雨宿りさせてくれた男に悪い感情を持ってはいなかったと思うのですが、不安になってうちへ帰ろうとしたら男が帰らせようとせず、結局凌辱されてしまいます。ただ、その場面も本当のところ男が一方的に暴漢で少女が抵抗も空しく冒される被害者、という描き方には思われず、赤々と薪が燃える炉の傍で男に抑え込まれながら、ムシェットの腕は抱くように男の首にまわされるのです。
家に帰って母親に、話したいことがあるの、と言いながらすぐに言い出せず、赤ん坊の世話やらなにやらで中断され、結局何も相談できないまま、母親は死んでしまいます。
翌朝、近所の女が母親を亡くしたムシェットを憐れんでか、コーヒーを飲むかい、と招き入れて、コーヒーを飲ませ、パンをムシェットのポケットにねじ込んで与えるのですが、ムシェットが隠そうとする胸の傷を見られ、その傷はなんだい?と言ったかと思うと、「ふしだらな!」と態度を急変してムシェットを罵ります。ムシェットは卓上のコーヒーカップを薙ぎ払うように落とし割って立ち上がり、もらったパンを投げ捨てて憤然と出て行きます。
このあと、彼女を凌辱した密猟者が殺したはずの森番の男が生きていて、密猟者が警察に捕まったと聞かされます。一晩中その男と一緒にいたのかと訊かれて、ムシェットは、「私は彼の愛人よ」と応えます。これには驚かされますし、いろいろ彼女の心中を推測したくなるけれど、たしかなことは、このときすでに彼女は「少女ムシェット」ではなく、ひとりの女に変容していた、ということでしょう。その予感は、密猟者に暴行されたときの映像がすでに与えてはいたのですが・・・
ムシェットは母の遺骸を包むための布を老婆から渡され、水辺へ行くと、それを自分が身にまとって、傾斜のある高みから転げて行きます。一度はブッシュにひっかかりますが、もう一度試みて、彼女はそのまま水の中へ。水音だけが聞こえて彼女の姿は見えなくなります。
この映画の作り手の視線はムシェットに対して非常に冷酷です。ブレッソンと言う監督はカトリック教徒らしくて、まえに見た「田舎司祭の日記」にもそれはうかがえますが、なにかその世界に宗教的な救いの芽だとかマリア的な慈悲の目があるかといえば、全然それは感じられません。むしろ嗜虐的というのか、これでもか、これでもか、といたぶるようなところがあります。むしろブレッソンはムシェットを凌辱した密猟者に近いのではないか(笑)。真っ暗な夜の森で雨風に打たれて濡れネズミの哀れな少女を憐れんで温かい目で包み込んでやるために雨宿りの小屋へ連れて行くのではなく、自分の犯した(と思い込んでいる)殺人のアリバイ工作に利用しようとした男。そして周囲に助けを求めようもない環境のもとで、非力な、男の暴力に抗いようもない少女を囲い込んで結局凌辱する男。それを淡々と描いて、しかも私の見間違いでなければ、犯される少女の腕を男の首に抱くようにまわさせている・・・
この密猟者よりもさらに冷酷な、性的なサディストみたいな男だな、この監督は!(笑)と思ってしまったのですが、どうでしょうか。
それで連想したのは、孤高の画家と言われるバルチュスです。日本で或る程度の数の作品が来て展覧会をやったときに見ましたが、その展覧会ではたしか「夢見るテレーズ」とか読書する少女とか、思春期の少女のあやうい姿を描いた微妙な作品は出ていましたが、「ギターレッスン」みたいなさらにヤバイ(笑)作品は出ていなかったと思います。でも後に彼の画集を見ると、この画家はたしかにピカソの言うように天才かもしれないけれど、どこかやっぱり性の世界で偏執的な歪みを抱え込んだ作家なんだろうなと思わずにはいられませんでした。ただの少女趣味とかロリータ趣味というようなのではなくて、なにかゾッとするような冷酷で嗜虐的なものを感じさせる作品だったからです。彼もカトリックかどうかは知りませんが・・・
正直のところ、カトリックというのが私にはよくわからないので、本当のところこの作品もこの監督もまだよく分からないな、という気がします。直観的にもですね。ただ、前にも書きましたが、「バルタザール」で主役をつとめた少女がのちに作家になって書いた自伝的小説に実名で登場するブレッソンの、あの少女への偏執狂的なロリータ趣味みたいな執着、それを「愛」と呼びたいなら呼んでもいいけれど、あの身勝手な独占欲みたいな常軌を逸した「愛」のありようと、この作品における血も凍るような冷酷なサディスト的な目線というのは表裏一体のものなのだろうな、という気がします。バチカンでしたか、教会の内部での大掛かりな少年修道士への性的虐待が明るみに出た話が映画になったりしていましたが、アメリカでも軍人とカトリックの家庭に子供への性的虐待が多いというような記事を昔読んだことがあります。真偽のほどは知りませんが、建前の世界での規律の厳しさと、そういう嗜虐性とは無関係ではなさそうです。
カトリックにはどこかそういう極端な嗜虐性があるんじゃないか、というのは時々なにかにつけて感じることがあります。イタリアはカトリックの国だから、マカロニウェスタンで大げさに手で十字を切ってバンバン人を撃ち殺す悪漢たちもカトリックでしょう。イタリア男ほど女好きな人種はないでしょうし、女性だけで歩いていたら、声をかけなければ失礼だと思う、というのは冗談ではなくて彼らの実践的な常識のようだし、制度的な婚姻は固い縛りになっていても、一皮むけばもうデカメロンの世界ですから、それもちょいちょいと十字を切れば、たちどころに許されてしまうのでしょう。
なんか、そういうことと、このブレッソン監督の冷酷さ(そう決めつけていますが・・笑)とはきっとどこかで深くつながっているような気がします。いやいや、映画の感想のはずが、とんだところへ来てしまいました(笑)
Bog 2018-11-16