こわれゆく女 (ジョン・カサテヴェス監督 1974年)
原題は 'A Woman Under the Influence' です。「こわれゆく女」というのは面白い邦題ですが、原題のニュアンスとはかなり違うように思います。under the influence は、普通の意味では何々の影響を受けている、という意味でしょうし、そこから、酔っ払っている、という意味にも取れますが、別に主役のメイベルが酔っ払っているわけでもないので、やはり何かの支配下にある、何かに支配されている、何かに囚われている、という意味合いだと考える方が自然でしょう。
この映画こそまさにメイベルを演じたジーナ・ローランズのための映画といったところでしょうか。彼女の独壇場です。
ちょっと神経質で線の細いところはあるようだけれど、ごく普通の主婦であるメイベルが、土木作業なんかを仕事にしているブルーワーカーのニックの仕事熱心ではあるけれど、妻の胸のうちを気遣う 繊細さをまったく欠いたラフな性格で、やさしげな言葉をかけたかと思うと反転してすぐに苛立ち、怒鳴り散らしたりする、妻に対して人間として粗雑で硬直した接し方しかできない男、さらに現場監督として仕事仲間をすぐに家へ連れて来たりするけれども、そんなときも妻の都合や胸の内には思いもよらず、自分が仲間たちを連れて来たのだから妻としては歓迎するのが当たり前、という態度の身勝手さ。
こういう夫とくらす日々の中で、なんとかメイベルは愛情を維持しようとして、二人だけの時間をすごすために、子供たちを母のもとに預けて夫を待つが、夫は急な水道工事か何かが入って帰宅できなくなる。むなしい胸のうちをかかえた彼女はバーで酒に酔い、そこで出会った男を家へ引っ張り込んでしまいます。翌朝一緒に寝た男が夫でなかったことに驚いて追い出す彼女ですが、そこへ夫が仲間たちを大勢ひきつれてきて、彼女はパスタを用意して食べさせる。ひとり彼女は躁状態でしゃべりまくり、ひとりひとり名前を聞いて自己紹介し唄を歌おう、踊ろう、としつこく言って、夫が苛立って、みんな疲れているんだ、黙れ!と遮り、怒鳴るはめになります。
こういうすれ違いの繰り返しの中で、彼女の精神はだんだん変調を来し、夫ニックとその母である姑はかかりつけの精神医と謀って、いやがる彼女を入院させてしまいます。半年間入院させられていたメイベルが帰宅する日、ニックはまた同僚たちを含む大勢の友人知人を自宅に招いて大掛かりな祝いのパーティーを開こうと準備しています。しかし身内の反対にあい、それらの人々を帰したところへ、メイベルが帰ってきて、親兄弟など最小限の身内での祝いの晩餐会です。
メイベルはおどおどした様子で、自分の感情が激するのを抑えようと緊張しています。それでも病院ではゲームをしたり編み物のような作業療法をさせられ、頭に電気ショックを施されていたと告げる彼女は次第に感情を高ぶらせていきます。このへんの次第に彼女の様子がおかしくなっていくプロセスの演じ方が実にみごとなのですが、それを煽ってひきたたせているのが、ピーター・フォーク演じる夫ニックです。彼は彼女が感情を抑えがたくハイになると苛立ち、怒鳴り、「普通のしゃべりかたをしろ」と言います。そんなのできるわけない、とメイベルが言っても、彼は大声で、普通の会話をしろ!と怒鳴るだけです。
こうしてメイベルは自傷行為に走って手を血だらけにします。ニックはメイベルに暴力を振い、子供たちはみな母親を守ろうとし、家庭は修羅場と化します。
メイベルの感情がおさまり、小康状態がくると、すべては旧に復したようにおだやかにおさまるようにみえます。でもまたいつパニックになり、修羅場が訪れるかわかりません。
こういう自分で自分の感情がコントロールできなくなった女性の様子を、ジーナ・ローランズは見事に演じきっています。
メイベルがなぜこんなふうに心を病んでしまったかといえば、私は旦那のニックに第一のそして最大の原因があると思います。かれは怠け者ではなくブルーカラーの土木作業の現場監督として他の信頼を勝ち得ているような働き者であり、ほかの女と浮気をするような軽薄者でもない。教養のない粗雑な男かもしれないけれど、人物として一般的な標準からいえば悪い人物ではないでしょう。けれども、夫婦の間には互いを一人の人間として尊重し、その立場、気持ちを気遣うというようなコミュニケーション能力はほとんどゼロ。
なぜメイベルが愛する子供たちを母親に預けてまで、二人きりの日を持とうとしたのか、その気持ちを思いやることもまったくできず、急な仕事ができたんだから仕方がないだろう、ということしか頭にない。おまけに自分がそうしてすっぽかした翌日には仲間をおおぜいつれてきて、家に上げて、メイベルに食事を供させる。それでいてメイベルが精いっぱいもてなし、座を盛り上げようとして行き過ぎると掌を返したように苛立ち、怒鳴り散らす。彼女の方にも、やってきた本当はつかれている彼の同僚たちの状態への配慮が欠けていたかもしれないけれど、ニックの方がそれ以前にあまりにも自分勝手な行動原理でしか動いていません。
そして何よりもひどいのは、彼女がこころを病んで救いが必要なまさにそのときに、自分の母親(メイベルにとっての姑)や精神科医と結託して彼女を子供たちから引き離し、電気ショックなど施す病院へ強制入院させてしまうこと。さらに、戻ってきた彼女がまだ不安定な状態にあって、時折「ふつう」をはみ出してしまうときに、彼はやさしくそれをカバーするのではなく、彼女に「普通の会話をしろ!」と怒鳴り散らすのです。そんなこと私にできるわけがない、と言う彼女に対して、ますます苛立ち、「普通の会話をしろ!」と繰り返し怒鳴るのです。そういう彼の言葉の暴力こそが彼女をそうできなくさせているのに、それを強制するのは、あきらかにベイトソンのいうダブルバインドで、ニックは行動では彼女に「普通の会話」などできないように彼女を怒鳴りつけ、おいつめながら、一方で「普通の会話をしろ!」と命じるのです。これで彼に支配される彼女がおかしくならなければどうかしています
Blog2018-7-27