川上未映子
「ヘヴン」
『ヘヴン』(川上未映子 著)
昨日の通勤の車中で『ヘヴン』を読んで、素晴らしい小説だと思った。描かれた情景は、最初から最後まで中学生のイジメの光景だから、読んでいてこちらの神経が傷んでくるような辛さがあったけれど、これはまぎれもなく、すぐれた小説だ。
川上未映子の以前の作品も高い評価を受けていたけれど、私には現代詩人らしい言語実験的な散文といった印象で、方法意識が先行した、「小説」以前の作品のように思えて、敬遠していた。
「『小説』以前」というのは、作家の才能の問題ではなくて、実験的な詩的散文としてどうであっても、小説としては、という意味合いで、この人は言葉遊びの好きな、新手のモダニストみたいな方向へ行ってしまうのではないかと思っていた。さして根拠の無い予想は大きく外れたようだ。
高い評価を受けている若い女性作家の作品ということで、雑誌などで名前を知った小説好きの学生さんが、研究室の本棚から、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』だの『乳と卵』だのを借りていくものの、「なにこれぇ?、ゼンゼンわからへぇ?ん!」とじきに返しに来るのが常だったけれど、今回は「面白かった!」と言う感想が聞けるだろう。
たまたま昨日見た映画と引き比べるのもおかしいかもしれないが、ナチスのホロコーストという人類の歴史の中でも類例のない、人間の犯し得る悪の極限のような行為がなされたという事実によりかかって、その「悪」についても歴史の闇についても全く新しい考察ひとつなく、すでに半世紀をかけて踏み固められた価値観の上に、事実プラス作り物の小噺というアマルガムで感傷的な作品を作ったあの映画と比べてみれば、規模は小さくても、当事者にとっては命にかかわるような「悪」でもあるイジメの光景を描き出しながら、そこに生きる子供たちの精神世界についても、「悪」についても、独創的な視点で切り込んでいるこの作品の質が際立つ、見事な達成だと思う。
だからといって、作品を読まずに、この作品がイジメを主題にして、現代の悪を告発したメッセージ小説だと思ったら、とんだ見当違いをすることになる。
そこには、こんにち現実世界のいたるところで発生している無数のイジメ事件に対する処方箋などは何も書かれていないし、「正義」「不正義」で分かりやすくイジメを断罪する分かりやすい単細胞的正義観などは(「正しい」「正しくない」という言葉は登場人物の口から出るけれど)微塵も無い。
もちろん、イジメル側の少年にも家庭の不幸な事情がありまして、などという社会派弁護士みたいな俗流心理学も俗流社会学もない。
じゃ、何が書いてあるんだ、と言われると、一口では言えないから自分で読んでもらうしかないけれど(笑)、敢えて言えば、このブログでも繰り返し登場させていて「またかよ」、と思われそうだけれど、『カラマーゾフの兄弟』みたいな小説なんだ、と言ってしまいたい誘惑に駆られる。
もちろん、作者にとっては初めての長編とはいえ、たかだか250ページ足らずの作品だから、これは彼女のカラマーゾフだ、と言えば、本人も困惑するかもしれないけれど、イジメ側で実行部隊とは距離を置きながら、イジメの親分格と対等の存在感を保って、いつも腕組みして無関心な様子で傍観している、百瀬という男に、主人公の「僕」が偶々病院でみかけて、話しかけ、対話する場面などは、大審問官の章を連想せずに読むことはできない。
言ってみれば、この百瀬という男は、大審問官であり、彼の言葉は或る意味で言葉としてだけ聞けば、どこにもおかしなところがない。
そう言うと語弊があるかもしれないけれど、百瀬の言うことをおかしい、と思うのは、こちらが「僕」に寄り添って、その心身の傷、痛み、苦しみ、絶望を背負っているからで、百瀬に言わせれば、そんなものは「当然のことだけど、自分の気持ちは自分で考えるしかないんじゃないの?僕は君に僕の気持ちを考えてくれなんてそんなわけのわからないことは言わないよ。」だ。
苛めっ子から「ロンパリ」と呼ばれている「僕」も、その「僕」の唯一の味方で、同志である「コジマ」も、「僕」が斜視であるために苛められていると考えているが、百瀬は「そんなのさ、べつに関係ないんだよ」と言う。
そればかりか、百瀬は、「僕」と同様にイジメの標的にしている「コジマ」の名さえ、ろくに覚えていない。
「コジマ?」
百瀬は首をかしげて僕を見た。
「ああ、いたね」
風が大きく吹いて木々のゆれる音がした。
「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」と百瀬は言った。
この百瀬と「僕」の対話、というより、実際には百瀬が大審問官のように一方的に語る「対話」の部分は、この小説の白眉だと思う。
ドストエフスキーの大審問官が、現代に現れたイエスに対して、人間の本性を説き、現代の人間を幸せにしてやれるのは自分のような存在であって、もうお前の出る幕はない、いまごろ何も分かっていないお前のようなのにしゃしゃり出てもらては迷惑だから、さっさと消えてくれ、とうんざりした口調で説くのと同じように、百瀬もまた、苛められる傷みの側から苛める側の倫理を問う「僕」に対して、おまえは何もわかっていない、とうんざりした口調で応える。
たしかに中学生の会話として現実味があるか、といえば、ここは一つ一つの言葉は易しくても、語っている中身は大審問官が語る中身と変わらない思想的な重量を備えていて、普通のリアリズム小説としてみれば、ありえないところだが、言葉を砕きながら、対話の運びに作者の細心の工夫と心配りがあって、私自身はここはまったく違和感なく、稀に見るみごとな思想小説としての表現を達成していると思ってワクワクしながら読んだ。
近頃の政治の季節の中で、政策が「現実的」だとか「非現実的」だとか言われるけれど、百瀬の語る言葉は、非常にクールで、「現実的」だ。
現代に現れたイエスに向かって、「民衆はお前が説くような自由など誰も求めてはいないのだ」と「現実」を知らない理想家を諭すように説く大審問官と同じように、百瀬は「僕」の傷む心身の外部の視点から、「僕」の論理を相対化してしまう。
人間は時に熱くなって理想を語り、現実の非を鳴らし、正義を声高に叫ぶけれど、それは偶々エネルギーを与えられた電子が励起状態になって、ほかの軌道へ飛び移るようなもので、定常状態に返っておさまるところにおさまってみれば、無意味なうわごとに過ぎないのじゃないか。
おまえが自分が苛められていると思っているその境遇から抜け出せないのは、ただ抜け出そうとする勇気がないだけじゃないのか、行動力を欠くだけじゃないのか、自分で自分を縛っているだけではないのか、思い込みでとんだ思い違いをしているだけじゃないのか・・・百瀬の反問は鋭利な刃物のように、「僕」に、読者に突き刺さってくる。
彼の論理は、世の中で普通に生きている大人たちが、日々の暮らしの中で、人間関係のなかで、そうと意識さえせずに従っている「現実的」な論理だと思う。別にわざわざ意識することさえなく、あえて誰も口にしないけれど、「僕」のように詰問するものがあれば、やはり「百瀬」のように幾分うんざりした口調で応えることになるだろう。
この作品の展開を読んでいて、「僕」や「コジマ」が、なぜここで死に物狂いの抵抗でもしないのだろう?なぜ教師や親に真剣に相談してみないのだろう?と感じるとすれば、私たちは多かれ少なかれ百瀬なのだ。
けれど、そんな私たち読者も、その自分の中の「なぜ?」によってこの作品を不条理だと思い、馬鹿馬鹿しい、と捨ててしまうことはない。かすかにそう感じながら、主人公たちがそうしないことのリアリティをしっかり感じさせるように作品自体ができている。そこが作者の力量だ。
先ほど、百瀬と「僕」との対話が、大審問官の章だと書いたが、百瀬が大審問官なら、終始無言で大審問官の話を聞き、最後に大審問官に接吻して静かに去っていく現代に復活したイエスは「僕」ということになるけれど、この作品ではそうではない。
大審問官の章のイエスにあたるのは、「コジマ」だ。この「コジマ」という「僕」の同志の人物造型がまたすこぶるユニークで、興味が尽きない。彼女は、自分たちはただ弱いものとしてイジメられている存在なのではなくて、この状況を受け入れていることによって自分たちだけでなく、イジメている相手にも、世界にも意味を与えているのだ、と考える。
この作品を読み進めていく原動力の一つが、この際限なく続く苛烈なイジメに対して、主人公や作者はいったいどういう解決をつけるのか、という推理小説よりはるかに面白いサスペンスにあることは疑いないが、読者は、現実のイジメ事件にそう簡単な処方箋などあるわけがないことをイヤでも承知しているから、作者なり主人公なりが、ちょっとでも安易な始末のつけ方でも示唆すれば、たちまち興ざめで本を閉じることは明々白々である。
ここでは、解決ではない始末のつけ方、終わりのない終わりという、無理難題が作者にも主人公たちにも課せられている。昔々、理科系の学生だったころに、宇宙の果てというのはどうなっているんだろう、という素朴な疑問が、どれだけいまの科学で答えられているのだろう、と思って、1回生の夏休みに大学の図書館に通って、その手の本(といっても、自分に理解できるのは、所詮啓蒙的な宇宙論のようなものでしかなかったけれど)を読み漁ったことがある。
いまも覚えているのは、「宇宙は無限だが、有界である」という、分かったような分からないような「結論?」だった。
この作品の主人公たちや作者の始末のつけ方も、幾分そういうところはあるけれど、少なくとも安易な分かりやすい処方箋だけは書かなかった。それはとても困難な道だったと思うけれど、作者はかなり善戦したと思う。
まぁ欲張りな読者としては100%満足というわけにはいかないけれど、この手の世相に素材を借りたとき誤解されやすい作品で、敢えて「コジマ」のクライマックスには触れないが、ここまで考え抜いた作品としての始末のつけ方を創り出したのは稀有なことだと思う。
「コジマ」は大審問官に向き合うイエスの役割を果たしており、大審問官の百瀬と「コジマ」の間に、「僕」は居る。これが ≒(nearly equal) 作者でもあるだろう。
ただ、百瀬がかなり大審問官そのものであるのに対して、「コジマ」は大審問官の章におけるイエスそのものではない。現代によみがえったイエスは、ほとんど肉体を持たない存在であるごとく、無言でただ大審問官の言葉を聴き、彼に接吻して静かに去っていく。まぁ彼の場合は、紀元0年前後に一旦肉体を失って(神のもとに召されて)、魂だけ現代に甦ったかのようで、その肉体は影の如きものに過ぎないから仕方ないけれど(笑)。そして、精神的にも彼の接吻は、神のメッセージのごときものだろう。
「コジマ」は何よりも汚れ、臭い、殴られて蹴られれば血を流し、傷む肉体を具えている。彼女が二ノ宮や百瀬らの頬にやさしく触れようとするとき、それは彼女自身の傷つくことを「受け入れた」心身そのものから来ている。
passionというのが感情、情熱、熱情という積極的・能動的な感情のあり方を示す言葉であるとともに、もともと「苦しみ」という意味の言葉で、受身というときの’passive'にも「苦しみに耐える」という意味があるそうだが、「コジマ」はこの言葉を体現(まさに肉体と精神で)する存在のように思える。
ただ、彼女の汚れや体臭が、意図したものであること、そういって良ければ、やめようと思えばいつでもやめられるものであることに、読んでいて多少違和感を覚えた。それで良かったのかな、と。「僕」がそのことを納得して同志として受け入れるところに、違和感を覚えたのだ。
しかし、読み終えて、あれでよかったのだろうと思われた。
考えてみれば、「僕」の斜視も、肉体的なものだからといって、宿命的なものでも何でもない。「1万5千円」で簡単に治ってしまうものだったのだ。そして、百瀬の言うように、それは「僕」が思い込んでいたような、イジメの決定的に原因でさえもなかった。
さて、その「コジマ」と「百瀬」らの間に立ち、「コジマ」に導かれるようにして傷みを忍び、彷徨しながら、少しずつ変貌をとげてきた「僕」は、最後に「コジマ」とも別れ、彼女が反対した斜視の手術をする。 僕が立っていたのは、並木道の真んなかだった。
僕は両目をとじたまま右目から眼帯をはずした。それから眼鏡をかけて、ゆっくりと、目をひらいた。
それは僕が想像もしなかった光景だった。
ここから、最後の一行までのラスト2ページは、この作品でもっとも美しいシーンであり、最も美しい文章で綴られている。
なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。
「僕」のadolescenceがここで終わり、彼は「向こう側」へ踏み出す。
(了) blog2009年09月08日