川上未映子
「わたくし率 イン 歯ー、
または世界」
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(川上未映子)
なかなか面白い作品だった。この手の一見して「前衛的」な作品は、まれに学生の同人誌などで見られるけれど、「芥川賞候補作」と帯に銘打って、大手出版社の単行本として流通するというのは珍しいかもしれない。
私も新聞で「文筆歌手」という見慣れない言葉で著者が紹介されていなければ、書店で見ても買って読もうとは思わなかっただろう。
いわゆるタレントや全然文芸と縁のない別の職業で名を知られた人が、小説を書いて話題になることは、ずいぶん以前から少なくないけれど、その多くは、いわゆるタレントの有名性という現代的な価値に支えられているだけで、小説としてまともに語られるようなものではない。
ただ、そうでない作品もあって、小説という既成観念にとらわれていないことが、むしろいわゆるプロの小説家の作品の定型を壊して面白いこともある。 この作品はまだそこまでの作品だとは思えないけれど、ふつうの小説になじんだ人なら、なんじゃこれは?と、読み始めてそこそこで放り出すに違いない、幼児が一人で泥遊びに没頭しているかのようなベタな文体を我慢して読んでいくと、血のヌメリのようなぞくっとする手触りを感じさせるような官能的な一節に出遭う。
たとえば最初のほうで、脳以外のところで思考しているという「実感」の根拠を尋ねられて、尋ねた医師の黒目を見るうち、「ああこれ知ってる、この黒、知ってるわ、この黒は、や、オセロの丸の黒やないの」と思いあたり、「中学生くらいのお姉さん」とオセロゲームをした思い出の場面へうつる。
そのお姉さんが次の手を考えるあいだ、毎度オセロのコマを「口へ入れてこちゃこちゃしながら、升目を見下ろすふりをしてわたしを見て、またこちゃこちゃして」・・
「んでしばらくして手が決まるかなんかすると、お姉さんの口からオセロの丸が唾液の糸を引きながら指にはさまれて取りだされて、すぅーっときて枡目のうえにぺたこん、と置かれたそのときに、わたしは、ああ、と思うのでありました。」
そして、「ああ今わたし裏返りたい、顔だけはこのお姉さんの方に向けたままオセロのあれみたいに裏返って立ち上がって隣の部屋の襖あけてもう帰りたいわ帰ろうやあと懇願したい、そやのにわたしは裏返られるはずもなく、唾液にぬれたオセロのあれを黙って裏返すのでありました」
「わたしは奥歯である」という語り手「わたし」の思考と感覚がみごとに一体となって表現されている、実に官能的な一節。こういう箇所が結構たくさんある。
みんな人間の死亡率云々にびびっているけど、「人間のわたくし率こそ百パーセントであることのすごさ!」に驚けよ、と。作品はこの核心のまわりを幾重にもめぐる。
「わたくし率ぱんぱんで奥歯にとじこめられて」いるところから、どこへどう脱出していけるのか。ここでは川端康成の「雪国」の人口に膾炙した冒頭の一節がひきあいに出される。
「あの雪国の、あの主語にその秘密のちょっとが隠されているような気がしたん。あの文章は、どこ探しても、わたしはないねん、私もないねん、主語はないねん、それじたいがそれじたい、なあなあなあなあ素敵やろ、主語がないねん、こんな美しいことがあるやろか!」
「雪国のあのはじまりの、わたくし率が、限りなく無いに近づいて同時に宇宙に膨んでゆく」・・それがこの作品の指し示す脱出路らしい。
そこへたどりつくためには、まずは、私が脳で思考していてそれゆえ脳が私だ、という思い込みをカッコに入れて、「わたしは奥歯だ」と、実感と論理を挙げて断言するところから始めるほかは無い、と作者は言いたげだ。
blog 2007年08月02日