円城塔
「文字渦」
円城塔「文字渦」を読む
この作家の作品は長い間書店で本の顔だけ眺めてきたけれど、いつも本を買うときのように、表紙を眺め、帯を眺め、パラパラとページをめくって、どうもこれは才人が頭だけで書いた小説モドキではないかという独断と偏見を持ってしまって、一度も買ったことがありませんでした。
今回たまたま、滅多に読まない文芸誌『新潮』6月号をパラパラめくっていて、昨日読み終わった東浩紀の「観光客の哲学」について書かれた大澤真幸の紹介文と、少し面白そうな森田真生の数学についての文章があったので買ってきたら、川端康成文学賞発表というので、円城塔の「文字渦」が載っていて、10ページほどの短編だったので、先にこちらを読んでみると、これがなかなか面白い作品でした。
いわゆる描写的な文体ではなく、歴史に素材をとって現代風のテーマを語ってみせる語りの文体を擬しているので、すぐに中島敦の「李陵」などの文体を連想しましたが、もちろん同じ中島敦なら「文字禍」を連想すべきところでした。作者は文字霊が禍をなす「禍」を、一陶工が創り出し、阿房宮の一室から溢れ出す3万もの文字の「渦」に変換して、「ほんの一瞬、そこにあったがゆえに、永遠に存在せざるをえなくなるようなもの」の記憶としての「書かれるもの」のありようを描き出したかったのでしょう。
この作品を単なる歴史に素材を採った、ちょっとお洒落な物語にしたいだけなら、肝心の「文字」の話は全部とっぱらっても、面白い物語を作ることはできるはずです。始皇帝「えい」(漢字が難しすぎてここには打てません!)の、時間を超えた「真人」としての余の像をつくれ、という謎のような命に対して、陶工俑がどう応えていくか、そのやりとりと俑の苦悩と、解決にいたる道筋を一編のドラマとして描くのはちょっと手慣れた作家なら容易だったでしょう。
でもこの作品の”主人公”は「えい」でも陶工俑でもなく、きっと俑が「一体一体の俑を個別に指定するためだけに」、そして「真人の像をつくるために考えられ」、創り出していく3万もの文字なのでしょう。このほとんど”登場人物”らしきものは2人しかおらず、如何に広大な宮殿とはいえ阿房宮の一室という小さな空間の出来事に終始するコンパクトな物語は、しかし、これを読む私たちを途轍もなく広大な思念の世界へ連れ出してくれます。
あえてそれを野暮な言葉にしてみるなら、文字とは何か、書かれるものとはなにか、文学とは何か・・・という、このような小説作品を含めて、書くことにとって自己回帰的な問いと同時に、人とは何か、人が生きるとはどういうことか、人の一生とはなにか、というやはり私たち自身にとって自己回帰する問いが、「えい」の問いかけのうちに、また「俑」の日々の営為のうちに立ち上がってきて、読み終わった直後の作品の余韻のうちに、わたしたちはその「こたえ」を「えい」と「俑」の生き方の対比、壮麗な阿房宮と3万の文字の対比のうちに、論理的な言葉でも像的な喩によってでもなく、評者の一人、村田喜代子が的確に書いているように、「緻密な文字によって記された壮大な思念の世界」がつくりだす意味喩を通して、たしかに聴き取ることができるように思えます。
(blog 2017.5.29)