三宅 唱

「きみの鳥はうたえる(シナリオ)

三宅唱「きみの鳥はうたえる」(シナリオ)を読む


 佐藤泰志の小説「きみの鳥はうたえる」を読み終わったところへ、雑誌シナリオの9月号で、これを原作として映画化された同じタイトルのシナリオが掲載されていたので、続けて読みました。映画は東京ではすでに先日公開されたらしいけれど、まだ観ていません。

 小説は1981年に発表されたもので、全国の大学、高校での学園闘争などで、まだある種の高揚感のあった60年代末から、そのエネルギーが自滅・解体して一層したたかになった秩序のうちに回収されていくシラケの70年代を経て、もうどんな希望もなく深刻ぶった絶望も失われてしまった後の、昨日のように今日があり今日のように明日があるだろうような日常の無為を、ただ対他的に距離感のある冷めた目をもって生きる若者の姿がとらえられて、私などが読むとそういうキャラクター自体にも、そういう若者が周囲とどう関わっていくのかにも興味深いところがあります。

 ストーリーの中心になるのは、語り手の「僕」と、同居している友人静雄と、「僕」と同じ勤め先の書店員佐知子の3人です。シナリオのほうではもう一人みずきという女の子がいます。あともちろん同僚書店員で「僕」といざこざを生じる小説の「専門書の同僚」(映画での森口)や、「店長」(映画での島田)など脇役も映画ではよく知られた俳優が演じているようです。

 「僕」は生きていく上での基本的な姿勢が受動的で、近づいてきた同僚の佐知子と関係するけれど、同居していた静雄が佐知子に好意をもって、仲間たちと海へ行くのに誘うと、自分は行かずに、佐知子の意志にゆだねてしまいます。
 佐知子を抱いて、恋人どうしのように関りながら、静雄が彼女に惹かれ、彼女が静雄にも好感を持って、自然に近づいていくのを見ていて、静雄を自分と佐知子の間から排除しようともせず、積極的に佐知子を引寄せようともしないで、むしろ佐知子を静雄の方へそっと押し出してやるようなスタンスをとります。
 そのくせ必ずしも無関心でも鈍感でもあるわけではなく、同僚の仲間に仕返しをうけて帰ったあと(小説のほうで)二段ベッドにもぐりこんで静かに息をして暗がりの中でじっとしていると、最初の晩に佐知子が静雄の髪に触って、「蜘蛛の糸の夢なんか見ちゃあいけないわ、もっといい夢を見るのよ」と言った時のことなど思い出しながら「心が次第に狂暴になった」り、危篤の母親の所へ帰っていく静雄を佐知子と送りながら、静雄が帰ってきたあとのことをあれこれ考え、その頃には静雄が自分と同居しているアパートをひきはらって、佐知子と暮していることになるわけだ、と考えて、「僕」のなかに「かすかに、痛みににた感情がよぎりそう」だったりするのです。

 これは私たちのような旧世代の人間からみれば、どうみたって立派な?三角関係で、非常に微妙な抑制的な描写ではあるけれど、上に書いたような「僕」の嫉妬に類する感情の描写もあることはあります。でもそれが武者小路実篤の「友情」や漱石の「こころ」の先生のような、決定的な友情の決裂や別れになるような愛憎の相を見せないのは、「僕」の消極性と曖昧な姿勢のためでしょう。
 なにかこう異性への愛情も同性への友情も、いずれも丈が低くなっていて、一方を取れば他方を棄てねばならない、というところへ自分を追い詰めるのはいやで、愛情も友情もそういう高いハードルを越えていくほどの高みへもっていきたくない、という印象です。

 昔の言葉で言えばそこに「僕」の主体性というものが感じられず、なるようになればいいし、そのことで誰も傷つけたくはないし、自分も傷つくのはごめんだ、という、そのことが彼の行動を律する倫理観のようなものになっているという気がします。
 たぶん、そういうものを、いまの若い世代は「やさしさ」だと感じて、共感を覚えるのではないでしょうか。実際、佐知子の口から、静雄や「僕」のことを「やさしいのね」というような言葉が繰り返し出てきたような気がします。
 やさしさ、というとほんわか温かいイメージのようですが、愛や友情も、少しでも熱を帯びれば、それはエゴイズムだとみなすようなシラケたクールさが根底にあるようにも思えます。
 
 旧世代の輪郭のはっきりした愛や友情からすれば、まことに曖昧模糊とした、感情や意志の輪郭が明瞭でない、従って人と人との関係も曖昧で、主体性のない、従って責任を回避した、なりゆきまかせのずるずるした関係にもみえ、とらえどころのない、うつろっていくだけの光景にも見えますが、これをはっきりさせないこと、愛情も友情も高みへ引っ張って行かないこと、他者との距離も一定以上は近づかないこと、つまり人をも自分をも傷つけない距離感を保ち、そうなりそうであれば、うまくやりすごすこと、そういうある種の自分の身の処し方、対他的な距離の取り方については、旧世代のように泥まみれになったり、醜く叫んだり泣いたり、相手の内部まで土足で踏み込んだり踏み込まれたりといったことがないぶん、或る意味で洗練されています。
 そして、そういう距離感を保ち、クールな姿勢を保つ姿勢については、曖昧でも何でもなく、非常に明確です。それが彼らの倫理、生き方そのものの核心となっている姿勢だからでしょう。

 そんなわけでこの物語の登場人物たちには自ら能動的に選んで他者と関って深手を負うとか、何かしようとして失敗したり挫折したりすることもありません。他者との関係と自分を律するみずからの倫理から当然そうなるであろうような胃潰瘍的な(笑)精神の傷つき方はするでしょうが・・・

 この物語は、だから或る意味で単調です。せいぜい同僚の店員とちょっとしたいざこざを起こしたり、花盗人を楽しんだり(このエピソードはとても素敵です)する程度で、基本的には3人の間の曖昧な友情と恋愛関係が劇的な起伏もない中でどう移り行くかを、日常的なやりとりに終始する話の中で味わうだけのことのようにみえます。
 こういう話が小説として成立するとすれば、「僕」のこの種の生き方の倫理みたいなものが、静雄と佐知子へのかかわり方で、ありきたりの恋愛と友情のからむ三角関係の話に対して、どんなふうにズレてくるのか、そのズレの部分に作者自身が共感するようないまの若い世代の生き方の倫理みたいなものがあるわけでしょうし、読者もそこに共感するからだと思います。

 さきほど「やさしさ」のような言葉を使いましたが、この「やさしさ」は距離を詰めないことを鉄則として前提しているもので、距離をつめようとする者に対しては、ときに冷たい友人や恋人であり、ときに同僚に対するように酷薄な暴力を振う存在でもあるわけです。同居していて互いに限りなく「優しい」友情を懐いている静雄のことにしても、実は「僕」はほとんど何も知らないのです。

 距離を詰めない、というのは、人間関係に対する硬い諦念がその倫理の底に敷き詰められているのでしょうから、失敗も挫折もない、と言ったけれど、彼らはあらかじめ失敗と挫折の果ての何もない荒野に生まれた世代で、そんなものはとっくに一切合切終わってしまったことを前提としてきた存在だといったほうがいいのでしょう。シラケの世代のさらに後の世代、というのは、あらかじめ人間関係において硬い諦念を敷き詰めた上に自分の立ち位置を定め、人とかかわるしか、かかわるすべを持たなかった世代なのかもしれません。

 やさしさというけれど、それはなにか孤独で淋しいもののように思えます。

 小説の中で、「僕」の立ち位置を、そして3人の関係についての「僕」の受け止め方を象徴するような、とてもいい場面があります。

 実際、通行人はさかんに、ひとつ傘に入っている僕らを、うさんくさい、好奇心に満ちた眼で見た。幸福だった。少なくとも僕はそうだった。そのうち、佐知子のむこうに、彼女を通して新しく静雄を感じるだろう、という気持がした。

 のちに「僕」はこのときのことを反芻します。静雄が危篤の母親のところへ帰っていってから後の話だけれど、球場へ佐知子と花火大会に行った帰りに二人は手をつないで歩きます。

 佐知子と僕がそんな優しい気分になれたのは、その夜がはじめてだった。いつだったか雨の夜に三人で傘に入って通りを歩き僕が感じたこと、そのうち僕は佐知子をとおして新しく静雄を感じるだろう、と思ったことは本当だった。静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつをとおしてもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。

 「僕」は、それまではあれだけ親しく、優しい友情をかわす静雄に対しても、男女の交わりをもって親しく交わった恋人佐知子に対しても、直接同居し、直接セックスして膚を接していても、ほんとうの意味で触れあい、相手を感じることができず、一心同体であったり、結ばれているという実感を持ててはいないのでしょう。むしろそのことが自分に対しても相手に対してもあからさまになることを恐れて、頑なに距離をとろうとしているのでしょう。

 けれども、「佐知子をとおして」なら「新しく静雄を感じるだろう」と信じられ、「静雄をとおして」なら「新しく佐知子を感じることができるかもしれない」と思うのです。この小説は、そんなふうにして静雄を、また佐知子を見出していこうとする、つまりあらかじめ失われた人と人との関係性を取り戻していこうとする物語だと見ることもできるでしょう。

 小説では、しかし「僕」がそんな期待をもったものの、ラストで読者にも予想外の事件を静雄が引き起こすことで破綻してしまいます。話として、また静雄の資質として、不思議ではないとは思うものの、物語の流れとしては唐突さの印象を免れませんでした。「僕」の期待とともに、読者であるわたしたちも、この突然の破綻で宙吊りされたまま、物語が終わってしまいます。そこまでのプロセスで、語られるべきことは語られたとは思いますが、戸惑いはぬぐえませんでした。

 今回、小説のあとにすぐシナリオを読んだので、いくら記憶力の悪い私でも、このシナリオのラストが小説と全く異なることはすぐわかったし、シナリオのラストにはびっくりしました。そして、こちらのほうには小説以上の違和感を覚えました。

 「ネタバレ」はこの種の何度も繰り返して観ていいような小説や映画では気にしないことにしていますが、このラストについてはここでは具体的に書きません。
 ただ、私はこの物語の語り手だった「僕」は、決してこのシナリオのラストのようなセリフは吐かないのではないか、と思います。それが彼を律してきた生の倫理だからで、原作にかなり忠実なシナリオを読む限り、その倫理を彼自らが解除する理由が私には見いだせなかったのです。

 このラストシーンに、シナリオの作者(監督の三宅唱と松井宏)は異様に長いト書きを与えています。それは「僕」の最後の行動を役者さんに説明する心理描写のようなものですが、その「僕」の心理にも納得はできませんでした。それまで読んできた物語の中の「僕」がこんなふうに考えるだろうか?・・・と疑問でした。

 そう思ってパラパラと読み返してみると、小説のほうがやはりそれまでのところでも、語り手の「僕」の心理について抑制的だな、という印象を持ちました。
 もちろん、ふつうは小説で語り手が「僕」という一人称で物語るのですから、いくらでもこう思った、ああ思った、と心理描写ができるし、逆に映画は心理そのものを直接映像化することはできないのですから、表情や立ち居振舞いやセリフで表現するしかないわけで、小説のほうが饒舌で映画のほうが抑制のきいたものになりそうなものです。ところが私の読み比べた印象は逆なのです。

 それは、小説の「心理描写」の心理というのが、先に述べて来たような、根底的な諦念を敷き詰めたような対人関係の距離感を頑なに保とうとする姿勢、「僕」の生き方の倫理みたいなものから出てくるので、そのセリフも行動も、冷たかったりそっけなかったり拒否的であったりして、たとえば彼に気のある佐知子にしてみれば、もうちょっと情熱的に愛をささやいてくれてもよさそうだし、静雄と海へ出掛けるといえば嫉妬してくれてもよさそうに思えるところ、約束はすっぽかして平然としているし、店長とのことも追及しないし、静雄とはどうぞ楽しんできておくれ、といった具合だし(笑)・・・というふうに受動的、抑制的です。
 これはミエでそういうふりをして我慢しているというのではない。「僕」の生き方と骨がらみの倫理的な核心なのだと思います。だから、「僕」という登場人物そのものの心の動きや行動そのものが抑制的なのであって、作者はそれを忠実に描いているわけです。それはこの小説にとっては非常に本質的なことで、こういう「僕」という存在のありようなしには、この小説は友情と恋愛のぶつかった三角関係のありふれた話でしかなかったでしょう。

 だから「僕」は決してラストのようなセリフは吐かないし、胸のうちでこんなふうな行動の選択に迷ったり後悔したり右往左往することは考えられない、とそれまでの「僕」を読んできた私は感じました。

 原作とシナリオにはいろいろ違いがありますが、ラストが一番決定的な違いになっています。
 書店の同僚とのトラブルの描き方も違っています。小説では、万引き犯を取り逃がしたときの「僕」の非協力を店長に告げ口した同僚を、店長から呼ばれて叱責された直後に、「僕」は突然暴力をもって制裁に及び、これが遺恨となってその同僚が依頼したらしい2人の暴漢にのちほど「僕」が襲われてボコボコにされる、という筋書きになっています。
 ここでは「僕」は先ほどから述べてきたように、まさに「僕」らしく、限りなく優しくもみえると同時に、こうして突然キレて暴力に及ぶコワイあんちゃんにもみえます。こういう二面性は彼の固有の生き方の核心にある倫理性によるものです。

 ところが、シナリオでは、その告げ口した同僚がトイレで先に「おれが悪かった、申し訳ない」と「僕」に謝罪の言葉をかけてきます。そして、「僕」が彼に暴力を振うのは、調子に乗ったその同僚が店長と佐知子との噂話を聴かせたからで、「人が楽しんでるのを邪魔するな」と殴るのです。
 人は人、自分は自分、その間の距離を詰めることのタブーみたいな倫理観はもちろん「僕」のものなので、このセリフも彼が発するセリフとしておかしくはないけれど、ここでのシナリオの展開や描写は説明的でまわりくどく感じられます。小説のように、彼の方からいきなり殴りつけるほうが、よほど「僕」のありようを端的に、強度を持って示してくれます。

 シナリオを読んでいて、ときどき感じたのは、そんなふうに説明的なところ、ちょっと余計だな、というような部分です。
 たとえば、佐知子がアパートの部屋へ来たとき髪についた虫を「僕」がとって窓の外へ逃がし、殺すと静雄がいやがるんだ、と「僕」が彼女に言うシーンがあり、「僕」が風呂場へいって佐知子と静雄が二人になると、佐知子は静雄に、なぜ虫を殺さないのかと尋ねます。べつに理由はないと言う静雄に、佐知子が「わかった。静雄くんはやさしい人なんだね」と言います。この佐知子のセリフなんかは、まったく余計なものだな、と思いました。

 シナリオのほうで職場の告げ口同僚や、静雄の母親が、原作よりも少し露出してくるのも、必ずしもプラスと感じられませんでした。
 かれらをそれぞれ一人の人間としての奥行きをもったものとして描けば描くほど、原作で「僕」を語り手として抑制的に語られた「僕」の心理や行動が相対化されてしまう、と思うからです。たしかに、たとえば職場の告げ口同僚だって、考えてみればそんなに悪い奴じゃない。普通に考えれば、同じ職場にいて万引犯をみつけたときはこうしよう、と取り決めておいて、そのとおりしているのに、「僕」は一向に協力しようとせず、取り逃がしてしまった。店長にチクるのはどうかと思うけれど、直接「僕」を罵倒したって責められる筋合いはありません。それをチクられたってんで、いきなりぶん殴るというのは、これは「僕」が悪い(笑)。

 しかし、「僕」という人間は他者とのかかわり方に、非常に硬い一種の戒律のような倫理観をもっていきている男なので、こういう世間的には非常識で唐突な対他的なかかわり方も、そこから噴き出たマグマみたいなものですから、そこに鋭角的に焦点をしぼらないと、話が緩くなってしまいます。原作がより抑制的というのは、そこのところが緩みなく、締っているな、という印象です。

 私が先に引いた「僕」の前半と後半での三人の関係を象徴するようなシーンについても、シナリオはこれを「僕」のナレーションで処理しています。三人傘のシーンはあるようだけれど、この言葉、この「僕」の想い自体はナレーションで処理するしかない、と考えられたのでしょう。

 それは仕方がなかったかもしれません。でも理想を言えば、それは小説の方法ではあっても、はたして映画として最上の方法だろうか、と映画を知らない私としては無謀にも、もっと高望みをしてしまいます。
 これがナレーションではなくて、登場人物の会話や行動も含めて、映像そのものによって、つまり影アナではなくて、舞台の上で、自然に演じて感じさせてくれる方法をみつけてもらえたら最高なんだけどな、と。

 それはないものねだりかもしれません。ナレーションもまた映画的手法のひとつなのでしょうし、きっと効果的に使われているのでしょう。
 ラストにしても実際に映画を観れば、違った好印象を受けるのかもしれません。


Blog 2018-9-13