「Passion」(濱口竜介監督)
彼岸の法事の帰りにチケットを買っておいて、夕方再度出かけ、片腕を三角巾で吊った上、幅広い胴巻きでしめつけ、薄いカーディガンを羽織ってごまかしたカッコ悪い姿で、出町座で「Passion」を観てきました。もちろん「ハッピー・アワー」が素晴らしかったし、「寝ても覚めても」もよかったから、前に撮った同じ監督の作品が見たいと思っていたら、出町座でやってくれたからです。
大学院の修了制作か何かでつくられた、普通だと習作段階の作品でしょうから、自分なりにこの程度かなと予想していた水準はあったのですが、全然そういう芸大の学生や院生が作りそうな多くの自主製作映画の水準とは違っていました。作品としての完成度がどうとかっていうよりも、「ハッピー・アワー」や「寝ても覚めても」を見ずにいきなりこれを見ていたとしても、これはもう新しい映画を生み出すクリエイターだな、ということが誰にでも分かるような作品だったのです。
ここには「ハッピー・アワー」に引き継がれる濱口さんの映画の特色がもうとてもはっきりと出ていて、それがこの作品でも強い魅力になっています。
「ハッピー・アワー」では新進女流作家のトークのあとの「打ち上げ会」での登場人物たちの交わす議論をはじめ、全編にわたって4人の女性の強烈なエネルギーをもった言葉による相互の、また夫をはじめとする他者とのやりとりがあり、「寝ても覚めても」でも私が感想で突出したシーンとして書いた、登場人物たちの激しい言葉の交わされる素晴らしいシーンがあります。
この「Passion」でも、最初は主役の一人(この作品には主役級の登場人物が5人いますが)で学校の教員である女性が、いじめで自殺した子をめぐって生徒たちと暴力を主題として言葉が交わされるシーン、そしてもう一つは、やはり主役級の3人がそのうちの女性の(実際にはその叔母の)マンションの一室でかわす、「互いのホンネを引き出すことで自分を知る」ためのゲームの形をとった、これも相当激烈な言葉のやりとりです。
5人の主役級の男女の間の関係が実に複雑に入り乱れて変化もするので、それをここで説明的に記述しようとは思いませんが、それはまぁ別段物珍しい設定でも何でもなくて、世間によくある男女の間のもつれで、それが親しい友人の仲間内で交錯するものだから、よけいややこしいだけで、そういう事態そのものも世間にはよくある話であって、その点だけを見るなら、それを凝縮して見せただけと言ってもいい中身です。
ただ、世間の男女とちょっと違う点があるとすれば、この登場人物たちは監督と同じ東大の学友なのか(笑)みな理屈っぽくて、登場人物の発言自体にあるように、「面倒くさい」やつらなのです。だから自分たちの行動や感情をやたらあれこれ詮索し、分析してみせ、そんなものあるかどうかも分からない「ホンネ」だの、「ホントウノコト」だのというのを探りっこしたりします。
そういう面倒くさいやつらの議論がハイライトになるような映画って、ふつうは頭でっかちなやつが作る、理屈っぽくて、ちっとも面白くない映画になるはずなのですが(笑)、この作品は長い時間がたつのも忘れるほど、ぐいぐい引き込まれて見ていくことになります。なぜだろう?というところから、たぶんこの作品がどういう映画なのかを語ることが始まるのでしょう。
2本の同じ監督の映画を観ただけで、何の予備知識もなく、つい数時間前にたった一度見て帰ってきただけの状態でそんなことできるわけはないのですが、印象だけ走り書きしておこうというわけですが、結局私がひきつけられていた具体的なものは何なのかといえば、そこで交わされる3人の男女のやりとりであり、3人の間を飛び交う言葉であり、声だったというほかはなさそうです。
小説でも例えばドストエフスキーの「悪霊」など読んでいると、この作家は登場人物がいわばじかに思想を語る言葉を小説の文章として書いて、ちゃんと小説として読ませて心を動かすことのできる作家なんだな、と思い、そういう作家というのは日本にはいないんじゃないか、とずっと思っていました。だいたい、そういう言葉を小説の中に取り込めば、小説としては破綻するというのが当然なのです。
もちろん、埴谷雄高の「死霊」はどうなんだ、と言われれば、そうなのかもしれないけれど、それはいわば最初から観念小説として、ちょっと別次元の小説ですよ、という納得があって読み進めはしても、人間の生きた血や肉の感触をじかに味わうような小説のだいご味というのが感じられるかといえば、それは無理な気がします。けれども平野啓一郎の「葬送」を読んだときに、登場人物たちの思想的な言葉をそのまま小説の言葉として書いて、ちゃんと読ませる作家が出て来たんじゃないかな、という気がしたのを覚えています。
今回、「Passion」を見て、あのときの感じを思い出しました。そして、そういう特色は私がみた3本の濱口さんの作品に共通しています。
複数の人物が交わす言葉がそれ自体として生きられる現実として立ち上がってくる。なぜそんなことが可能なんだろう?と思います。ふつうは、なに屁理屈言ってやがる、あたまでっかちな登場人物だな、でそっぽを向きたくなるはずなのですが・・・。
文芸であれば、詩というのがいわば一粒一粒お米が光って立っている飯のように、ひとつひとつの言葉がじかに私たちが泥んだ世界を切り裂くのに対して、小説は言葉の指示的な側面を活用してひとつの仮構線を設けてその上に言葉を展開することで、人との人との関係やモノやコトの複雑な構造からなる世界を描くに適した手法として発展し、劇はさらに仮構線を上げて、そうした関係や構造を描写する言葉なしに、人と人との言葉のやりとりだけで世界を描くことも可能にしたのだとすれば、「Passion」の登場人物たちが厳しい言葉を交わし合うあぁいう場面は、それだけを切り離しても、言葉だけで劇として成立しそうな場面です。
一度あのシーンを目をつぶってかわされる声だけを聴いてみたい、という気がします。
そんなことを考えていると、当然、昔好きでよく読んだシェイクスピアのいくつかの劇を連想します。もちろんあれは舞台で演じられる劇だけれど、何よりもまず言葉の劇として書かれていて、シェイクスピアの劇は、私は若いころ1年くらいはロンドンにいたのに、舞台はほとんど指折り数えられるほどわずかしか見ていないけれど、書かれた戯曲としては少なくとも代表的な劇のかなりは読んで、どれもすばらしく面白く純粋に娯楽的見地から読んで面白いと思えました。きっとあれは、戯曲を声優が朗読しても楽しめるのではないかと思います。
シェイクスピアの劇も何百年たっても汲みつくせない価値を持つでしょうが、そんなこと何も分からなくても、当時の観客は彼の舞台を楽しんだでしょう。私たちも、濱口監督の作品を分析的に論じて汲みつくすには多くの知的な観客と時間が必要でしょうが、そんなこと関係なく作品そのものは楽しむことができます。
もちろん「Passion」は映画なので、いま書いてきたような部分だけではなくて、素敵な映像がいくつもあります。上記の議論をする3人からはみ出た二人~男性がずっと片思いしてきた、そして女性のほうはそれをわかっていて、彼の友人でもあり、じつはほかの女を愛してもいた男性と結婚の約束をしている、という二人なのですが~が歩きながら語り合いながら歩くシーンなどはその最たるものです。
この作品も「ハッピー・アワー」と同様に、二度、三度みてみたいし、そうしないとうまく言葉でその魅力を語れそうもありませんが、今日はとりあえずの印象だけということで・・・
Blog 2018-9-24
濱口竜介監督「Passion」の声・言葉の力
昨日、「Passion」の登場人物たちの交わす言葉・声がもつ磁力のようなものについて触れましたが、その後もあれらのシーンが何度も頭の中に甦ってきて、ちょっととりつかれていました。
その中のひとつに、あの教室でのシーンがあります。主役の一人である女性教員が、いじめで自殺したらしい生徒のことをきっかけに、暴力について生徒に問いかけ、自らの考えを滔々と述べるシーンがあります。
彼女は、暴力には内側から発する暴力と外部からの暴力2種類があり、外部からの暴力はどんな人であれ「私」には止めることができない。「私」にとめることができるのは、「私」の内部から発する暴力であって、それは止めることができるし、止めるべきである。しかし外部からの暴力は、受けたくないし、いやだけれども、「私」がそれを受ける蓋然性があることは不可避であって、もし受ければ、それは許すことしかできないのだ、というものです。
彼女の考え方はいわば徹底した非暴力主義で、たとえ自衛のためであれ正当防衛であれ、たぶんたとえば無力なわが子を守るためであっても、外部からの暴力に対して暴力で対抗することでは、絶対に暴力がなくなることはなく、問題の解決にはならない。外部からの暴力に対しては許すほかはないのだ、というのですね。
当然生徒たちは反発します。そんなのいやだ。外部からの暴力は止めることができるはずだし、自分は殴られれば殴り返してとめる、云々。そして或る生徒は、内部からの暴力も止めることはできない。なぜかという教師に対して、なぜかは分からない、ただやってしまうのだし、それを止めることはできない、と。自分だけではなく、誰某もそうだ、誰某も同じだ、と言い、いじめで自殺した子に何らかの暴力を振ったことがあると思う者は立て、とその生徒が言うと、クラスのほぼ全員が立ち上がるのです。われらが女教師は言葉を失って慄然と立ち尽くし、思わず教室を走り出て廊下を駈けていく後姿を見せるのです。
おそらくこれらの生徒のようにホンネを論理的に明確に言葉にして刃のように教師の喉元につきつけるほどの生徒は日本中探しても現実にはみつからないでしょう。たぶんほとんどの生徒が「暴力はいけないことですから」という教えられた建前でやり過ごそうとするでしょうし、この女性教師のように、外部の暴力に対しては許すしかない、というところまで踏み込んで挑発されれば、いや自衛のためならいいでしょう、正当防衛は許されるでしょう、といういわゆる社会常識のレベルで反発はするでしょうが、おそらくそこに踏みとどまるでしょう。
けれどもこの作品中の生徒たちは教師の挑発にのって、いってみればホンネで語り始めます。だからこそ削られた「悪霊」における少女凌辱についてのスタヴローギンの告白や、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官とイエスの対話のように迫力のあるやりとりが出現するのだろうと思います。これは日本の中学生程度の少年少女をモデルにした普通のリアリズムの作品ではもちろんそんなのリアルじゃないということで避けられるでしょうが、この作品ではそんな現実を写したものよりも、もっとリアリティを感じるのはなぜでしょうか。
私はこのブログでつい先日、60年近く前に学校の教室で体験したできごとを書き、あのときに他の生徒が発した言葉や、それを受けて先生が発した言葉、あるいはむしろ発しなかった言葉に違和感をおぼえて、ずっとそのことを心の片隅に沈めていたのを、もう一度ほじくり返して、もし私があのときの担任教師であったら、生徒にこう言ってやりたかった、という長いセリフを書きました。
もちろんたとえ私が本当にそのときその場に担任教師としていたとしても、そんなふうに完全に自分が言いたいことを自分自身で隅々まで自覚していて、しかもそれを論理的に整合性のとれた誤解の余地のない平易な言葉で語るなんてことは、できっこなかったに違いないのです。
でも、私たちはイエス・キリストではないので、多かれ少なかれ、そんなふうにしか、つまり言葉というのは常に私たちの想いに対して、また私たちが或る状況のもとで感じる切迫した必要性に対して、いつも遅れてやってくるのではないでしょうか。
別段後ろ向きで後悔ばかりしているような人間でなくても、本当はこう言いたかったんだよね、ということが、他者と言葉を交わす大切な場面であればあるほど、不可避なのではないでしょうか。
Passionというこの作品の世界で交わされる言葉は、女教師の言葉もまだ世間的には幼いであろう子供たちの言葉も、またまだまだ私などから見ればネンネに等しい若い世代である主人公たちの言葉も、それらの年齢、それらの立場、それらの未熟な者たちの言葉でありながら、逆にそういう彼らであればこそ、本来はこう言いたいのだよね、という現実には遅れてくることが不可避な言葉を、まさにいまそこに現前している肉体が語る、というふうに語っているように私には思えます。
その意味では、言葉とそれを発する人物の肉体との関係は、とても奇妙で、通常のリアリズムからみれば、こんなガキがこんな偉そうなこと言えるかよ!、或いはこの程度の軽薄男がこんな上等なことが言えるかよ!と嘘っぽく感じてしまうところです。ところがそう感じないで引き込まれるのは、逆に、言葉が通常のように「遅れてやってくる」宿命から解き放たれて、「遅れ」なしに俳優ひとりひとりの肉体にやってきて、いままさにこの人物が、言いたいこと、言わねばならないこと、を完膚なきまでに言い尽くしているからではないか、という気がします。そうやって「遅れずに」やってきた言葉が、その人物を作っている。彼あるいは彼女の語る言葉が、そのつど彼あるいは彼女を私たちの前に創り出しながら、それ自体が他者の言葉に反応して変化していっている。その刻々の変化が私たちの耳と目を決して離してくれないのではないか、という気がするのです
先日半世紀ぶりに再見したパソリ―二の「奇跡の丘」の言葉が、それ自体で生きて立っているように感じられたというふうに感想を書いたと思いますが、あの「奇跡の丘」では、言葉が現実の物質のように現前していて、むしろ映像はそれを説明している。いや、説明していると言って語弊があるなら、言葉が先に現実として存在していて、映像はその言葉を「実現」している、と言えばいいでしょうか。
新約聖書の中のよく知られたエピソードに、イエスが弟子たちに今宵おまえたちはみな私について躓くだろうと言うとき、ペテロはたとえみなが躓いても私は決して躓くことはありませんと言い、これにイエスは、今宵鶏が鳴く前にお前は3度私を知らないと言うだろう、と言います。ペテロはなおも、私はあなたと共に死ぬことになっても決してあなたを否むことはありません、と誓います。そしてイエスが捕らえられ、人々の中に、ペテロがイエスと共に居たと言う者があらわれると、ペテロはそのつど、いや私は彼など知らない、と否定すること3度に及び、そのときペテロは明け方の時を告げる鶏の鳴き声を聞いて激しく泣いた、というものです。
このエピソードもパゾリーニは忠実に描いていますが、ここで生きた現実として作用力をもってそこに現前しているのはイエスの言葉であって、ここでのペテロの行動の描写、いやペテロの行動そのものがその言葉の「実現」に過ぎません。それはすでに「語られた」言葉の再現にすぎないのです。生きた現実として私たちの前に現前するのはイエスの言葉にほかなりません。
パリサイ人、律法学者らがイエスを試し、陥れようと仕掛ける言葉の罠にイエスは見事な肩透かしや反撃を加えます。その激烈なやりとりは新約聖書同様、「奇跡の丘」においても一つの山場ですが、イエス自身がその言葉のやりとりの中で変わっていくことはありません。イエスは最初から最後までイエスであり、父なる神への確固たる信仰を説く一環した思想の言葉であって、敵対者が罠として仕掛ける言葉はそれを際立たせるための背景に過ぎません。
濱口さんのPassionの3人の主役たちの議論の場で交わされる言葉は、同じように生きた現実として私たちの前に現前するけれど、「奇跡の丘」のイエスの言葉とはまるで違っています。彼らが語る言葉は彼らの行動の「説明」ではないし、彼らの行動、それを表現する映像もまた、彼らの言葉の「説明」でも「実現」でもありません。言葉は映像の説明でも補助でもなく、また映像は言葉の説明でも実現でもありません。そこでは両方共が動いていくようです。言葉が行動(なり表情なりをとらえる映像)を変え、行動(なり表情なりをとらえる映像)が言葉を変えていく。Passionの行動と言葉の関係はそう表現するのが一番適切な気がします。
そして、その言葉は独白ではない。一人の思想の託宣でも教義の表明でもありません。あの3人の議論の場で、文字通り3人の間で交わされる言葉であり、ある人物のある言葉がそれを受け止める他方の人物の言葉を変えていく、そうして次々に相手にぶつけられて化学変化の連鎖を起こしていく言葉、そういう現実的な作用力をもった生きた言葉なのだと思います。そうでなければ、なぜあんな頭でっかちな理屈っぽい、「面倒くさい」やつらの議論が私たちを引き付けてやまないのか理解できません。
Blog 2018-9-24