空気人形 是枝裕和監督 2009年
昔「ダッチワイフ」なんていう言葉で言われた、船みたいなプラスチック?製の人形「のぞみ」が、男性の「性欲処理の代用品」として秀雄というさえない独り身の中年男性に買われ、秀男は妻に対するように「いってきます」、「ただいま」と人形に話しかけ、食卓のテーブルにメイドの衣装を着させて座らせた人形と対話するかのように話しつづけながら食事し、ベッドを共にして暮らしています。
その人形の「のぞみ」が、あるとき秀男が気付かぬうちに、突然こころを持ち、彼が不在のときに自分の脚で立ち、開いた窓から外を見て、雨のしずくに手をかざし、綺麗、と言葉を発し、外に出て、生まれて初めて他者に接し、周囲の物たちにめざめ、赤子のようにそれらに新鮮な驚きと感動をおぼえながら学んでいきます。
こうして「彼女」は、心をもつことで生まれてくる喜びを味わいながらも、一方では自分が空っぽで、性欲処理の代用品にすぎない、という負い目を抱えているのですが、周囲の人々と接するうちに、それら周囲の人たちもまた、自分と同じように「空っぽ」な存在であることに気づいていきます。
生きることに疲れた老人、拒食症の女、覗き魔の浪人生、世の中の事件が何でも自分とかかわりをもっていると思い込んでそのたびに警察へいく少し頭のおかしい老婦人等々が、そうした周囲の人々です。公園のベンチで出会う老人(もと国語の代用教員で「ずっと空っぽの代用品」だったという老人)も言います。「あんただけじゃない、われわれもみんな空っぽの存在なんだ」と。
そして、のぞみが、自分をつくったマネキン(空気人形)工房の職人の所へ行くと、オダギリ・ジョー演ずる職人が、彼女を「おかえり」と迎えます。そして、毀れて棄てられた人形たちを彼女に見せて彼は言います。「みな同じに作ったはずなのに、ここへ帰ってくるときにはひとりひとりみな違っている」と。
そして、「心をもってみたら、いやなことばかりだった?それとも、なにか愉しい、良かったと思えることがあったの?」という彼の問いに、のぞみは愉しいことがあったとわと言うように、うなずくのです。
のぞみはレンタルビデオ屋でアルバイトをはじめて、そこのお兄ちゃん純一に恋ごころを抱き、デイトしたりして、いい感じだったのですが、一方で秀男と一緒にいるところをアルバイト先の雇い主である店主鮫洲に見られ、純一に言うぞと脅されて、口封じに犯されたりもするのです。
そして、或る時高い棚のビデオを整理していて、のっかったスタンドから落ち、釘にひっかけたビニールの皮膚が破れて、たちまち空っぽの体を満たしている空気が抜けてしぼんでいくのを、純一に助けられ、へその穴の吸入口から息を吹き込んでもらって、もとの姿に戻ることができるのですが、それによって彼に正体を知られてしまいます。それでも純一とのぞみは愛し合うのですが、あるとき、のぞみは同じベッドで眠る純一の腹を切り裂き、流れ出る血をふさごうとするかのように、自分に彼がしてくれたようにテープでその穴をふさいで、彼の口から懸命に自分の息を吹き込もうとします。・・・
・・・・というような、ひどく理屈っぽい映画です。
設定が突拍子もないのは構わないのです。コッペリアでも、歌舞伎の「京人形」でも、昔から魂を持って男に恋したり恋されたり、そのことで女としての喜びと苦しみを味わう人形の話は珍しくはありません。
もう少し広げれば、もともとは鷺娘や藤娘のように動植物の精が町娘の姿かたちと心を得て人間の男に恋をし、恋する女性として苦悩に身を焼く姿があり、もとをたどればアニミズム的な自然観が根底にひそんでいるのかもしれません。
この種の原型的なイメージを下敷きとし、刺激を受けて現代の創造性が発揮されるなら、うまくいけば神話的な奥行きと純粋で美しい世界を垣間見せることができるかもしれませんし、そこから逆に現世の空虚や汚れを浮かび上がらせる必然的な仕掛けとして機能するかもしれません。
この映画でそれが唯一そんな予感をちらっと感じさせたのは、空気人形ののぞみがはじめて動き出して、まだぎこちない動きで自分が閉じ込められていた部屋の開け放たれた窓から手をさしのべ、雨上がりの軒に滴る水滴をその掌に受けて、綺麗、とつぶやくシーンです。
それは、三重苦の少女を描いた「奇跡の人」で、サリバン先生が無理やり少女を井戸端に連れてきて、井戸水を激しく汲み上げて少女の手に冷たい水を注ぐ瞬間、霊感に打たれたように、生まれて初めて言葉の意味をとらえ、「ウォォ~タァァ~ッ!」と叫び、繰り返し叫ぶあの場面の、穏やかではあるが、美しいミニチュア版になっていたと思います
けれども、それ以降の空気人形のぞみの、周囲の世界との出会いは、なんというのかもたもたして、曖昧な印象です。はじめて世界に触れて初々しい驚きをおぼえ、嬉々としてより広い世界へと出ていこうとする彼女の前に、世界が徐々に徐々に開かれていく、わくわく感も、純粋な美しさもうまく伝わってはきません。
もちろん、卑小で汚れた空っぽな存在にすぎないという自己認識を彼女が持っているだけではなく、周囲の人間たちもみな同じように卑小で、空っぽで汚れた存在にすぎないことがあらわになっていく過程ですから、そう美しくも純粋でもない、ということはあるかもしれないのですが、そういう認識だとすれば、この人形も映画の作り手も少々人間をなめていると言わなければならないかもしれません。
ほんとうは、どんなに卑小卑猥で汚れた空っぽに見える人間も、それぞれの業を負い、苦しみを負い、またその中で小さな希望の灯をともしつづけながら生きているので、どれほど卑小で空っぽにみえても、ある用途で作られた道具のように単純なものではなく、それを一面的に卑小で汚れた空っぽの存在であるかのようにみなすとすれば、どんなにそれをあらわにしてみせたところで、底の浅いメッセージ映画にしかなりません。
そういう周囲の人間の中で、詩人の詩など引用して空気人形ののぞみに、「おまえだけでなく、わしも周囲の人間たちもみな空虚な器に過ぎない」という一種虚無的な認識を小難しく理屈っぽく言って見せる老人(敬一)の言葉は、いささか皮相で軽薄だと思えます。そのもっともらしい風貌もニセモノ臭く、彼の絶望も厭世も人間嫌いもホンモノではない浅薄さを感じさせてしまうのです。
どだい、こういうストーリーの世界に彼のような作者の片割れの代弁者みたいな理屈っぽい人間が出てくる必然性はないように思います。話が荒唐無稽であればあるほど、その初期設定以外は、すべてその設定の世界の必然性に従って「自然」であるべきで、空気人形はごくふつうの大多数の人々に一人一人出会って、その設定どおり、赤子のような感性で人々を、世界を受け入れて「心をもった」自分を開いていけばいいのであって、老人のようなアプリオリな言葉を外部からインプットされる必要などどこにもなさそうに思います。
神としての作り手は、世界の創造という最初の一撃しか手を下すことはできないのであって、作られた世界で人間は自由に経験を積んで、どんなにひどいやつでも、もはや空気人形のように「からっぽ」ではなくなっているものです。
むしろ重要なのはオダギリジョー演じるマネキン工房の職人の言う、ここへ帰ってくる人形は、出ていくときは同じように作ったはずなのに、帰ってくるときは一人一人違った顔つきをしている、というようなことこそが、単に職人の気の利いた言葉としてではなく、映像そのものによって描かれるべきことだったのではないでしょうか。
それを語る人物を登場させることが重要なのではなく、そういう物語の中の事実がちゃんと具体的に映像で納得のいくように表現されることが重要なのではないでしょうか。
人形はあくまでも人形で、心を持っても、それが他の人間と出会い、世界とふれあい、何かを刻んでいくことによって人形ではない何かになっていくのであって、オダギリ・ジョーの工房へ帰ってくる人形たちが出ていくときは同じつくりなのに、帰って来た時は一つ一つ違う表情を持っているとすれば、それは周囲の人間たちが一人一人異なり、それが使った人形たちの「心」に映(移)され、刻まれたからにほかなりません。
人々は決して卑小で汚れた空っぽの存在ではなく、一人一人ひとつとして同じもののない喜びや悲しみ、怒りや苦しみに出会い、それらをかけがえのない経験値として自分の心に刻み込んできたがゆえに、一人一人かけがえのない存在としてそこに生きている、<空っぽではない存在>なので、そのことを「帰ってきた」人形たちが証しているのです。
そのことの意味をこの人形に理解せよ、というのは難しいかもしれませんが、せめて映画の作り手は理解すべきではないでしょうか。
映画なんてもちろん撮ったこともない、単なる無責任な見っぱなしの一人の観客の妄想として、もし自分が撮るなら、空気人形の持ち主だった秀雄には最後にきっぱりと空気人形を捨てさせ、卑小で薄汚い「からっぽ」のみすぼらしい中年男としてしか描かれていないこの男にも、そうではない一面を垣間見させ、他方で壊され、棄てられた空気人形の表情は、アップで、ちょうどこのまえ宇治の平等院の展示館で見たような、仏像の横顔をアップでとらえた土門拳のすぐれた写真作品のように、限りなく美しく、「心をもってしまった」空気人形「のぞみ」の顔に浄土の光を射しこませて映し出し、オダギリジョー演じる職人が語った、<帰りがけの貌>を見せて終わるだろう、と思いました。
この映画のキャッチフレーズは「心をもつことは、切ないことでした」だそうですが、人形が心をもったら人間の男に恋をして切なかったわ、という江戸の昔からあるお話をただ現代的な意匠で繰り返すだけでよいのだろうか、と少々疑問に思いました。