小森はるか監督「息の跡」
深く胸に響いてくるような映画でした。ふだん映画は娯楽と割り切って、いわゆる社会問題をテーマにしたり、暗い結末の映画、きまじめすぎる映画はどちらかといえば敬遠して気軽に楽しんでいる人間としては、かなり稀な体験でした。
いまはネットでもあらすじみたいなものは紹介されて誰でも簡単に知ることができるので、ここにそんな説明をしようとは思いませんが、この映画を撮ったのは、23歳の女性で、東北大震災で津波に家をさらわれた「たね屋」の佐藤さんという中年男性が、失った家の跡に自分でプレハブを建て、井戸を掘って、たね屋を再開し、同時に被災の記録を英語、中国語で綴って出版する様子を、密着して映像化したドキュメンタリー作品です。
その大部分は佐藤さんがたね屋としての仕事やその準備をしている姿や、本を書くためにパソコンに向かう光景と、そうした日常的な動き方をしながら、撮影しているカメラのこちら側の小森さんに語り掛け、問いかける声に導かれて展開されています。
たね屋さんらしいけど、いったいどういう人なんだろ?被災して家を失って、またこんなところで店を頑張って再興しているらしいけれど、そのたね屋さんがなぜまた英語や中国語で震災の体験記を本として出版したりしているんだろう?・・・映画を見始めてすぐそんな疑問が浮かび、それに引かれて観ていくことになります。それは同時に、被災地でカメラをまわす作品の作り手に対して、なぜこのたね屋さんなのだろう?と問うことでもあります。
被災地を撮った映像というと、津波の光景や、津波に押し流されて積もった瓦礫の山や、無残に毀れた家の残骸といった光景を思い浮かべがちですが、わずかな痕跡が姿を垣間見せる以外、この作品にそういう光景があからさまに登場することはありません。
けれども、佐藤さんの語りの向こうには、そのあからさまには登場しない光景が確かにあることが、作品外の知識や記憶によってではなく、佐藤さんの語りや映像のとらえるそれこそ「息の跡」とでもいうほかないような、さりげない痕跡によって次第に明らかになります。
最初のうち佐藤さんが語りかけるのを聴いていると、自分の話を聴いてくれる若い女性の映像作家である小森さんに好意的な、やさしく、ユーモアのセンスを備えたおじさん、という印象だけれど、家を失くし、周囲には何もない被災地のど真ん中で、じきにあらたに運ばれてくる土砂で埋め尽くされて消えてしまうような場所でこんなたね屋を再開したり、日本語ではなくわざわざ自分の独習した不得意な英語や中国語で被災体験記を自費出版したりといった「変わり者」でもあり、変わり者であることを気にもしない、心身ともにタフで楽天家にも見える、器用で行動的なおじさん、といったふうに見えます。
事実そんなおじさんで、彼自身によれば、ふつうの庶民、「平均より下の収入の」ふつうのたね屋のおやじなのです。けれども被災体験が決定的に彼の心身に刻まれ、彼を変えてしまったことが次第に明らかになります。でもその体験の何が、彼の内部にどう作用し、彼がどう変わってしまったのか、それは見ている私たちにも、たぶん監督にも、そしてご本人にも簡単に答えることができないので、いわばこの作品はその問いを問い、答えをさがす旅のような性格を帯びて来ます。
もちろん、佐藤さんの語りの中で、彼自身が「答」らしきものを語る場面はあります。彼が英語や中国語で、次にはスペイン語か何かで被災体験を書いて本にし、販売していこうとするのは、日本語では思いが過剰に流れ出て正確に表現することがかえって困難だという想いが彼を不慣れな外国語での執筆に向かわせているらしいというのも、そのひとつです。
またそのような不慣れな言葉を使ってでも、是が非でも彼自身の手で正確な被災の事実を記録として残したいと考えていることがその前提としてあるわけですが、それを彼は小森さんにこんなふうに言っていたそうです。
「こんなことやって狂ってるだろう?でもこれをやらなきゃ本当に狂っちゃうんだよ」
この作品はほとんどひたすら佐藤さんの語る言葉によって成り立ち、彼の語る言葉に導かれて私たち観客も旅をするわけですが、彼の語りの向こうに、語らない、あるいは語れない世界が確実に広がっているわけです。それは佐藤さん個人の来歴の中では或いは失語症的な体験と言ってもいいのかもしれません。彼がどちらかと言えば軽口でもたたくような調子で若い小森さんに語り掛けるとき、その言葉が自分の見た光景や自分の体験したことをストレートに伝えられるとはほとんど信じられていないようにも思えます。けれども、彼は語りつづけ、しきりに彼女に「言っている意味は分かる?」と問いかけるのです。
佐藤さんは独り芝居の様に自分に向かってだけ独り言のような「独りがたり」をしているわけではなくて、明らかにカメラのこちらの小森さんをつねに意識していて、直接語りかけない場合でも、実際には語りかけており、また実際になにか状況や自分の気持ちを語った直後にまっすぐカメラ(小森さん)を向いて「わかる?」と繰り返し問いかけます。
「言ってることの意味はわかる?」と。そう問われるたびに、見ている私たちも小森さんと全く同じように問われているような気がします。そして、適当に相槌を打つしかないように感じたり、正直であろうとすると、う、と戸惑い、詰まってしまうような問いかけもあります。でも問いかけているご本人もあるべき答が分かっているわけではなさそうです。
小森さんはそれにカメラを構えたまま、たいていは言葉少なに、小さな声で「はい」と応じる程度で、時には返事をしないこともあります。しないというより、どちらかと言えばすぐには返事ができず、とまどっているようにも見えます。もちろんカメラを構える小森さんの姿は最初から最後まで登場しませんが、佐藤さんの問いに答える声は登場するので、二人の間の距離感や温かい信頼関係というか、佐藤さんが小森さんを受け入れ、好意的に自らを開いて見せたり、小森さんが知らなさそうなことを教えたりしていることが分かります。
この映画を撮る人と、撮られる人、語る人と聴く人との関係、その距離感が、この作品の独特の構図を作っていて、「独りがたり」を撮る作品とも、またインタビューによるドキュメンタリー作品とも、あるいは撮る人・撮られる人の境界を踏み越えて相互に干渉して新たな局面を切り開こうとする作品とも異なる、独特の方法として機能しています。そういうのは、この作品にはこうして辛抱強く撮る者、聴く者でありつづけようとする目や耳でしかとらえられないものが確かにとらえられているからです。
いくつだと問われて23、と答えると「まるで豆粒だな」というようなことを言われる、佐藤さんのようなおじさんからみれば、自分の娘のように幼い、いろいろ教えてあげないと何も知らない女の子であったろう彼女が、こういう映像を撮り得たのは、陸前高田に居を移して働きながら現地の人々と日常を共にし、カメラを回し続けてきた数年をかけた時間の賜物かもしれません。監督自身の書いた言葉やプロデューサーなどの言葉をみていくと、佐藤さんに密着して撮って行くときも、最初からこうだったわけではなさそうです。おそらく撮って行くプロセスそのものが彼女自身を変えていったのでしょう。
佐藤さんは1本の木に赤、黄のトマトとナスが成る栽培技術を発明したと言って、その実物を見せ、その特許申請に描いたそのトマトの木の絵を示して、「この図面の描き方が、あの英文の書き方だ。だから説得力あるのかもしれん。ハハハ」と言います。謎のような言葉ですが、小森さんはその場で珍しくはっきりした大きな声で「・・・でも似てる!」と同意します。
佐藤さんは、このあたり(陸前高田)は教育水準が低くて、ただの知識を軽んじるところがあり、本ばかり読んでいてもそんな役に立たん事ばかりして、と蔑むところがある。職人気質なんだ、という意味のことを語ります。私たちには、自分でプレハブを建ててしまい、自分で苦労して井戸を掘り、また目の前でチョコレートの箱をハサミで巧みに切って苗を植えるミニプランターを作ってしまう彼自身がその職人気質そのもののようにみえます。
その佐藤さんが、例の特許トマトを作ることに触れて、技術というものは、事実を正確にとらえて、その正確な情報を集約して作り出さなければ新しい技術というのは生み出せないんだ、という意味のことを言います。
そして、わたしたちは、彼が津波の被災体験の記録に関しても、この立場を貫いているのだ、ということを知るのです。
彼は徹底的に過去の文献を調べて、江戸時代にこの地を襲った津波の年も、そのときの津波がどんな津波であったかも、全部頭の中に入っていて、年号がすらすら宙で出てきます。その彼が言うには、災害の記録は、被災地の地域の人たちが必ず残したはずだし、それが一番詳しいもののはずだが、それは自分の家が跡形もなく消えたように、災害に呑まれて全部失われてしまったのだ、と。だからまったく地元には残っていなくて、たまたま日本に滞在していたスペイン人が書き残した記録がスペインに残っているだけだったりする、と。
けれど、それは大雑把で、正確なところは分からない。だから、本来は被災者自身が正確にその記録を残して、その教訓を後世に活かし、何度も繰り返し悲劇にみまわれることのないようにすべきなのだ、と。
ここで彼の「変わり者」に見える行動の意味がはっきりとクリアになってきます。日本語だと過剰な感情があふれて客観的な記録にならない、ということだけではない。英語でも中国語でもスペイン語でも本にしておくことによって、それはいま陸前高田の江戸時代の被災の記録がスペインにだけ残されているように、いつかどこかの国には残されていることになるではないか、と。
そして、彼は小森さんを町の人たちが神木として崇めるしめ縄を張った枯れた杉の大木のところにつれてきて語ります。杉を輪切りにした木材片の年輪を数え、そこから、この神木が言われているような千年木ではなく、せいぜい300-400年のもので、スペイン人の遺したこの地の江戸時代の津波の記録が正しいなら、その後に植えられたもので、そこからも確かめられると。彼は棒を立てて小森さんに手伝わせて木のある位置の標高を確かめ、そこを襲った津波の高さを推定し、歴史的な堤防の高さでは不十分であったこと、さらにその後にその反省から作られた堤防もまた不十分であった「想定外」の歴史を振り返り、そのような不正確な情報とそれにもとづく判断の過ちを繰り返してきた防災対策の考えた方に根底的な疑問を呈するのです。
防災工学の専門家でもなければ歴史学者でもなく測量技師でもない、「ただのたね屋」が徒手空拳のただの「たね屋」であるところから出発して、必要に迫られてそこまでやってしまう、多くの人がドン・キホーテ的とも、ロビンソンクルーソー的とも称する佐藤さんのこの営みの根源にあるもの、佐藤さん自身がたくさん語りながら、語られないもの、或いは語ることのできないものを、この作品では映像がさりげなくとらえています。
それは、例えばパンフレットで細馬宏通という人が的確に指摘しているように、たね屋を訪れた客が返ったあとに突風にあおられるようにして舞い上がるものすごい土埃や、佐藤さんが人の顔をそこに描く給水タンクの脇に置かれた、拾われた熊のおもちゃ、あるいはこの作品の最初から最後まで基調低音のように響き続ける、埋め立ての土砂を運んでは去っていく工事の車の疾駆する騒音です。
あの土埃が舞い上がるシーンで、私たち観客はそれまで意識しなかった、佐藤さんの日常生活に常につきまとっていたはずの土埃の存在にあらためて気づかされます。すぐそのシーンのあとで佐藤さんが店の表の土埃のたまった窓ガラスを布で拭くシーンがあって、否応なくそのことを思い知らされるのです。
そして、佐藤さん自身がまるで面白おかしいことでも語るような軽い調子で、このプレハブのたね屋の立つ場所も、じきに埋めたてられ、高い土が盛られて、なにもかもなくなり、ここに地下何メートルの井戸を掘っていたなんて、ウソだウソだと誰も信じなくなるよ、と・・・・そういう運命にある土地なのだということに改めて気づかされます。
土埃、それは佐藤さんはじめ、陸前高田の街の人々を襲った自然の一部であり、なにもかも奪って行った津波と一体のもので、これからまたもう一度佐藤さんがつくりあげてきたこの「再興たね屋」の試みを再度無に帰する力でもあります。
けれども、佐藤さんはそのことにめげず、くじけず、たね屋を何度でも再興し、英語、中国語、スペイン語で被災記を書き続けるでしょう。
この、最後に佐藤さん自身が解体する「再興たね屋」のプレハブは、その派手な看板からしても、芝居の書割のようで、ここで彼が営んできた生活も、まるで彼が演じて来たお芝居のように感じられます。それは、津波の時に彼の自宅を奪ったように、また再興たね屋をもすっかり消し去ってしまうだろう外部の力に対する、明確な独りの個として生きる人間の側からの抵抗としての構築物であったような気がします。
たしかにそれはつかの間の儚く消えていく構築物だったかもしれません。でもそれは確かに抗いとして存在したことを、正確に伝えられ、どこか遠い異国にでも残される希望をもって、人間から人間へ伝えられるべきものではないでしょうか。
もうひとつの、熊のおもちゃは、どこかの子供が落としたものだろう、と拾われたものです。その佐藤さんの言葉を聴いたとたんに、細馬宏通氏が書いているように、それがぶらさげられた人の顔が描かれた給水用ポリタンクが祭壇に見えてきます。
こうして、佐藤さんの語りの背後にある、語られないもの、語り得ないものの片鱗を、わたしたちはさりげなく垣間見ることになります。
大石町の祭の山車の光景もとても印象的でした。それは実際のことなのに、まるで幻想のような光景に見えました。その美しい光景がそのまま全部幻のように消えていくような気がしました。たくさんの人々の姿が見える夜の明かりの下でその人々の姿をカメラがパンしていくとき、音は聞こえてきません。私には、あぁ死者の視点から見えている光景だなと思えました。音の消されたその幻想のような華やかであるはずの光景は、まるで死者が眺めている光景のように感じられたのです。そのカメラが最後にとらえたのは、誰かわからない死者に手向けた花が添えられた二つ並んだ小さな石の墓標でした。
ほとんど吹雪いてるような雪の中で舞われる獅子舞の光景も、とても美しく、印象的でした。
私が親しくつきあって、ある時期にはいつも私の研究室にいりびたるように来ていた或る学生さんが、卒業後、就職面接でどうしてもそういう場にいる自分に馴染めず、自分の居るべき場所にいない、という気持ちに苛まれて、就活はやめた、と宣言し、アルバイトの食堂の手伝いか何かをしていましたが、東北大震災の後、現地でテント暮らしをしながら、高齢者の孤独死を防ぐための活動や、子供たちを守っていくための活動を続けています。
私は彼女のやむにやまれぬ気持ちは理解しながらも、或る意味で彼女のそうした行動に飛び込んで行った彼女自身の位置について危うさを感じて、もろ手を挙げて賛意を表するでもなく、遠くから見ているだけでした。
彼女は同様の志を持つ人とその後NPOを立ち上げ、寝泊まりの場所も借りて確保したようですが、そのときもボランティアに来て、(被災者のほうは仮設住宅暮らしなのに)そんな住居に住んで、と批判されたり色々と苦労してきたようです。
あるとき、私の退職をきっかけに集まってくれたOGの間で、彼女も駆けつけてくれて、丁度そうした活動の真っ最中だったので、むこうで着ている支援を呼びかけるような文字の入ったTシャツを着て、現在の活動を簡単に報告し、カンパを募っていました。私はそれでもまだ本当のところ彼女のことを信用していなかったかもしれません。内心ひそかに、東北の人のためにカンパをつのる位置に自分を置くのではなく、彼女がそのまま東北に住んで東北の人となるなら・・・とどこかで思っていたようです。
あるとき、彼女に再会したとき、もうじき籍をあちらに移す、と言っていました。そのときにはじめて私は彼女が彼女自身の生き方を見つけて、誰がみても信用のおける人間として、落ち着くべき所へ落ち着いたように思いました。彼女のような生き方を選べば、誠実であろうとすればそこまで行きつかざるを得ないだろうと思っていたからです。そこで彼女はホンモノになり、本当の彼女自身の生き方がはじまるんだなと思いました。
東北大震災の後、それをテーマにした映像作品はすでにいくつも生まれているのでしょう。私はそれを見たいとは思いませんでした。私にもしもいくらかの映像撮影の技術や知識があって、映像制作などやっている人間であったとしても、被災地で被災者にカメラを向けることはできそうもない、ということとそれは等価でした。
ですから、今回も、たまたま出町座で上映していたことと、いくらかこれまでに読んだ覚えのある人が好意的な評をしているのを見て、おそるおそる見に行ったというのが正直なところです。
でも、今回の作品には心を動かされました。それは私にも或る勇気を与えてくれるような作品でした。
その理由を考えていて、パンフレットの中でプロダクション・ノートとして秦岳志氏が小森さんと、その共同制作者について書いている文章の中に次のような一節をみつけて、得心が行きました。
「多くの映像作家が被災現場に向かい、次々とカメラを向けていた震災直後、彼女たちはビデオカメラを持っていながら、どうしてもそれを使って撮影する気にはなれなかったと言います。」
彼女たちは被災者に頼まれて、どうかカメラを持っているなら自分たちの代わりに記録しておいて、と言われて、はじめてカメラを向けることができたのです。小森さんが被災者にカメラを向けることができなかったのは、初心者ゆえのものおじなどではない、彼女がカメラの暴力性を知っていたからだ、と秦氏は書いています。私もこの映画を見て、深くその言葉を納得して読んだのです。
Blog 2018-3-7