万引き家族 (是枝裕和監督 2018年)
先日わたしたちは5歳の幼い女の子が、ゆるして、ゆるして、と親に謝罪の言葉を繰り返し、自分を責めながら死んでいった、衝撃的な事件を知ったばかりなので、この映画に登場する末の「妹」のような存在はもう私たちのすぐ身近にあることを疑うことができないのに、私たちの目には見えていない、あるいは見ようとしていない、また垣間見えることがあっても自分の無力を感じるだけで、正視できないまま、すぐそばをなすすべもなく通り過ぎているだけと思わざるを得ませんでした。
婆さんの年金に、成人メンバーによる日雇い労働やパート、風俗嬢といった下級労働に加えて幼い子供とリリー・フランキー演じる「父親」との共犯に罪悪感のない万引き行為などで生計を立てている、「ハートで結ばれた」擬似家族が、樹希林演じる「祖母」役の婆さんの死と万引きが露見した男の子が歩道橋みたいな高みから飛び降りて足の骨を折ったのをきっかけに警察に知られ、安藤サクラ演じる「母親」または「姉」役の女は一人で罪をかぶって刑務所へ、男の子は施設へ、松岡茉優演じる「下の姉」役の女と親に虐待を受けていた幼い「妹」はそれぞれの両親のもとへ引き取られ、解体していく物語。
わたしは、小津が描いた家族の映像を、スローモーションで逆回ししたような印象を受けました。というのは、「東京物語」の家族は形は美しい大家族の形を保っているけれども、その核心にあった大切な何かを失って戦後社会の荒波の中で解体していくわけですが、それを徹底して、完全に個々バラバラになってしまった家族を、もう一度血縁など関係なくただ失われた一番大切なものだけをよりどこにして、まったくそれまで無関係だったメンバーをかき集めて再構成していくとき、もちろんもはや元通りの家族など構成できるはずもなく、血縁も経済基盤も、要するに現実的なよりどころを持たない、フィクショナルな擬似家族しかできようがないわけですが、そういう或る意味できわめて人工的なありえない再構成家族をつくってしまったのがこの映画、という気がしました。
現実的基盤を持たないこの種の擬似家族は、どこかで破綻するしかないでしょうし、いったん破砕されてしまえば、もうどんなことをしても再構成しようのない幾つもの破片になって散るだけでしょうが、そうやって最初の家族解体によって失われたものを純粋な形で再構成して、再度完全に解体するさまを見せることで、私たちが失ったものをよりクリアに、激しい強度で見せることができたのだと思います。
実際、この擬似家族は家族の生計を安定的に成り立たせる経済基盤をもっていないし、血縁でつながってもいません。生き延びるための最低限の営みとして、最下級の労働や違法な万引きをすることで、かろうじてよって立つ不安定な足場を仮設しているだけで、それはいつでも底が抜けたり取っ払われたりしてしまうような脆弱なものでしかないわけです。彼らをつなぎとめているのは、家族幻想しかありません。ここでいう家族幻想というのは、リリー・フランキー演じる男と安藤サクラ演じる女の対幻想を軸とするメンバー間の互いを意識せざるを得ない関係、ほうっておけない気持ち、本来は血のつながる現実の親とつながるべき絆を実質的に拒まれ、行き場・居場所のない絆を求める心をひきよせる磁場といったものになるでしょう。手垢にまみれて意味不明にならなければ、ハートの絆とか、愛とか言ってもいいものでしょう。
ほかに何もなく、世間の標準からいえば、あらゆる面で劣悪だったり欠如だったりするようなこの擬似家族が唯一、自分たちを家族としてつなぎとめる契機として持っているのが、そのようなハートの絆で、これを現実的な力、現実社会のルールによって打ち壊し、解体し、バラバラにするとき、そういう強制力を振う現実の社会のほうに欠けているものがかえってあからさまに示されることになります。両親に虐待される子供は私たちの社会の現実だけれど、ここに設定されたような擬似家族は現実には成立しようがないだろうと思われますが、そのようなフィクショナルなもの、或る意味でコミカルな存在でもあり、現実の秩序から自由にはみ出すような存在をひとつの「現実」として設定し、その「現実」が、ほんとうの現実によって壊され、まったく何も残らないまでに解体されることを目の当たりに見せることによって、この擬似家族が持っていた唯一のもの、つまり家族の本質を、これを打ち壊す現実の社会が失っていることを逆に鮮明に浮かび上がらせているように思います。
今の社会の中で個々の家族のうちにあるときはinvisibleなものを、こうしてマイナスのカードを集めるように集めて、ひとつの擬似家族を構成してみせるとき、invisibleであったものが私たちの目にクリアにvisibleなものとして認識されます。それはいままでinvisibleであった悲惨さであると同時に、マイナスのカードを集めてある「手」の形をつくることで一瞬かもしれないけれ垣間見える希望をも私たちに伝えているように思います。
出演者の演技はみなすばらしいけれど、とりわけ安藤サクラはこの作品で、本当に凄みのある名演を見せてくれています。取り調べの女性警官に、祖母役の婆さんを捨てたと言われて「捨てたんじゃないよ、拾ったんだ。誰かほかに捨てた人がいるんじゃない?」という
場面をはじめ、あの取り調べのときの演技はほんとうに迫力がありました。
幼い「妹」が彼女を虐待した親のもとに引き取られたことを聞かされ、あなたは母親になれないから羨ましかったのねと同情めいた言い方をされ、だから誘拐したのね、という係官の言葉に対して、安藤サクラがなんとか自分の思いを言葉にしようともがきながら、うまく言えずに「母親は憎かったかもね」というようなことを言い、そのあと、いくら説明しても、とうてい理解されることはないだろうというあきらめと、悔しさ、「妹」への思いがあふれて涙する、あの表情はちょっと忘れられません。このあたりの彼女の演技はこの映画のハイライト、という気がします。
もう一人特段にすばらしい演技をみせたのが、万引きの主役であるあの男の子。「誰も知らない」の柳楽君に匹敵する適役・名演でした。店にある商品はまだ誰のものでもない、などという「父親」との共犯で万引きを繰り返しながら、本当はこれはいけないことだと思いはじめ、妹にはさせまいとし、またやめさせたのにおぼつかない万引きの片棒をかつごうとして見つかりそうな妹から目をそらせるためでもあった盗みの故意の失敗と逃走は、同時にこうした行為、こうした状況を断ち切ろうとする彼のひそかな決意にもとづいたものだという設定にふさわしい、ひどい環境の中でもまっすぐな精神を具えた少年の表情・・・それを見事に演じていました。幼い「妹」役の子役もぴったりの子でしたね。
松岡茉優も今回はある意味での汚れ役(風俗でバイトしている)、熱演していました。(どこでどんなことをしていても清潔で綺麗だけど・・・)おばあちゃんに甘えて膝枕させてもらうシーン、それに風俗の仕事場でおそらくは人生に傷ついて孤独な青年と気持ちを通じて膝枕させ、感極まった抱き合うシーン、いずれも素敵でした。
リリー・フランキーや樹木希林については是枝監督の常連で、あいかわらず芸達者なところを見せていて安定感があるし、リリー・フランキーの男の子とのやりとりや、安藤サクラとの濡れ場なんかでのやりとなども、ほんとにうますぎて、もともと喜劇的な要素がたっぷり入ったこの作品のその点でのみどころになっていて、何度か笑ってしまいました。
blog 2018/06/16