とても分かりにくい映画で、1日あいだを置いてもう一度見ましたが、やっぱり分かりにくい映画だな、という印象はそのままです。でも論文でも評論でもなく日記の一部として即席でその日その場の思いつきの感想を書くだけのblogでのことなので、ワカランナァという想いはそのままに書いていきましょう。
「分からなさ」にも色々ありますが、是枝監督のほかの作品を幾本か見て来て、作り手の側自身がいい加減だからだ、ということはなさそうだ(笑)、というのはひとつ前提にしましょう。そうすると、無責任なその場限りの観客として見ている私にとって、分かりにくさの最初の印象は、登場人物が誰と誰でどういう人間で、何をしている(しようとしている)のか、ということが、とても分かりにくかった、と言えそうです。
もちろん、最初のところで、この話がオウム真理教の引き起こした無差別殺人事件を直接の下敷きにしていることは、聞こえてくるラジオのニュースが、「真理の箱舟」なる教団が東京都の水道に新種のウィルスを投入して、128名の死者、8千人の被害者を出した事件から3年後、事件の現場となった5カ所の貯水場で死者を悼む追悼会が行われ・・」というふうなことを言っているので、すぐに理解できます。
そして、最初に誰だかわからない男女が、おのおの別々の日常生活の場で、それぞれ仕事の場らしい教室で生徒の相手をしたり、車の座席に半分腰かけて脱いだ靴をぶつけて靴底の土をはたいたり、なにか本筋ではなさそうな多様な生活の場での行為をしているのを何の説明もなく交互に映していて、それがニュースでいう事件とどんなかかわりがあるのか、彼らがだれなのかわからないまま進行していきます。唯一事件と関連がありそうな行動をとっているのが、のちに「敦(あつし)」だと分かる若い男が、病院で病床に横たわっている老人を見舞い、看護婦が表情の変化もなく言葉も発しない患者に「きょうは息子さんが来てくれましたよ」と語りかけるシーンで、この患者は事件の被害者だろうな、と観客としては推察するところくらいです。このシーンはあとで重要な意味を持ちますが、はじめはその程度しかわかりません。だいたい、だれが「主人公(たち)」なのかもわからないので、次々に映される別々の生活行動の場面にとらえられている人物が全部で何人なのか、正確にどの人物が物語の主人公というのか、カメラがこれからも追って行く物語の主たる登場人物なのかもよくは見分けられません。
彼らが(最初のうち)男3人、女1人の集合であって、共通点は「真理の箱舟」事件の加害者たちの家族だということが分かるのは、4人がそろって敦の運転する車で森の中へ入っていき、かなり深い森の奥の少し木の間があいたようなところで、オートバイが置いてある脇に車を止めて近くの湖へ行き、湖へ突き出した木の桟橋の先端へ行って、敦がしゃがんで花束を水に投入して手を合わせて拝み、きよか、実(まこと)と呼ばれる人物も次々湖のほうへ向かって手を合わせて拝むシーンのあと、その前にそこへ一人で来ていた若い男がいて、そのときは少し離れていたのですが、あとで車を置いたところへ戻ってみたら車も単車も消えていて、どうやら盗まれたらしいと分かり、とても歩いては帰れない場所ゆえ途方にくれる、という場面で、先にいた単車を置いていたらしい男も戻ってくるのですが、彼に対して勝(まさる)が「教団のかたですよね。」と声をかけ、「私たちは加害者の家族なんですけど」と語りかける、そのときはじめて、あぁそうか、この人たちは加害者の家族なんだ、とわかるわけです。
そのあと、実は歩いて帰ろうと主張するのですが、歩いてたとえ帰りつけても、途中で暗くなって野宿しなければならないということで、結局は先に一人で来ていたもと教団メンバーの坂田が、教団仲間のメンバー(事件の実行犯)と共同生活をしていた山小屋みたいな木造のハウスまで行きます。灯りはついたけれど、外はもちろん、室内も暗くて、それを手持ちカメラひとつで撮影したような映像なので、一人一人の人物の表情もわかりづらく、俯いたり、横顔だったり、翳がかかったりしていると、いったい誰が喋っているのか、それが誰なのかもわかりづらく、とくに敦、坂田、勝の年恰好の似た若者は顔だけだと非常に見分けにくい。誠は年齢が少し上だし役者の寺島進のアクの強い顔は分かりやすいけれど、三人のそう強い特徴のない顔は分かりにくく、勝はまだしも服装に特徴があるのですが、敦と坂田はわかりにくい。女性もこのメンバーの中では紅一点だからいいのですが、そこへ回想場面がフラッシュバックでしじゅう挿入されるので、その中に登場する教団の女性(敦の姉の夕子)や勝の彼女、実のいまの妻や過去の妻など、アラサーの女性たちが誰が誰か一度見ただけではとても分かりにくい。
女性の声が、夫に「私と結婚したことを公開しているんでしょう。子供は可愛くないんですか」と言うのも、誰が誰に言っているのか2度みてもよくわからない。湖のところで、教団から逃げようとしていた坂田が夕子に(だったと思う)逃げようよ、と誘う場面はわかるけれど、こんど敦(だと思う)が夕子と同じ湖のところで(だったと思う)孤独な鳥の話をするシーンでは、誰が誰と喋っているんだろう?と分からなくなりました。片方はどうみても敦らしいけど、この女性は夕子じゃなかったんだっけ、と。だとすると姉のはず?殺人の実行部隊の一員になった夕子が彼らの拠点近くだったらしいこの湖の近くへ来るのはわかるけれど、その弟にすぎない敦がなぜ回想シーンでここにいて夕子と鳥の話なんかしているの?と。だから、え?この男は坂田だっけ、と最初はわけがわからなくなりました。2度目でやっぱり敦だよな、と顔を確認しましたが(笑)
それに、彼ら5人の山小屋での会話が非常に聞き取りにくい、音量が極小で低いつぶやきのような声で、2度見てもよく聞き取れない。とくにこれは最後に浅野忠信演じる坂田が、5人がまた別れていく直前の電車の中で、座席の敦に近寄って「ひとつ気になっているんですけどね、訊いていいですか?」と言い、「なんですか?」という敦に、「あなたいったい誰なんですか?」という驚くような問いかけをし、どうやらそれまで敦は教団メンバーで事件の実行犯として犯行後に集団自殺か殺されたのかわからないけれど、死んで焼かれて灰になって湖にその灰を撒かれた中の一人である夕子という女性の弟と名乗り、百合の花が好きだったという姉の思い出を語り、小屋に残されていたらしいひな菊の花の匂い袋を大事そうに拾って持っているわけですが、教団から逃げ出して生き残った坂田が「彼女(夕子)は、弟は自殺したって言ってましたよ」と言うのですね。それに対して敦がどう応じたのかがよく聞き取れない。「姉がそう言ったんですか・・・」みたいなことか?あるいは「姉が嘘を言ったんでしょう」とでも?…それに対して坂田が再び首をかしげる風にして、「彼女が嘘を言うような感じじゃなかったけどなあ」とか「彼女はうそをいったなんて思えないけどなあ」とか、とにかく敦の否定的な言葉があったとすれば、それをさらに否定するか疑うかするような言葉を言います。
この二人の非常に重要な会話が、二人の声自体が低く小さく、とくに敦の返事が聴きづらい声であるうえに、電車の音がすごく大きく入っているので、彼らの言葉をかき消していて、ふつうに一回この映画を見て、全部聞き取るなんてたぶんよっぽど耳のいいひとでなければ難しいのではないかと思います。それは音声として、言葉として聞こえた上で、その意味がわからないという話とは違います。言葉として、あるいは物理的音声としてほとんど聞き取れないのです。
ということは、これは監督なりこの映画の作り手が、観客に対して、二人が敦が実はほんものの敦本人ではないという疑いを抱かせはするけれども、それ以上、ほんとうはどうなのかをクリアにさせないように、故意に聞こえないように場面が設定されているのだと考えるほかはありません。
そうでなければ、ここは録音担当スタッフの技術的なミス、ということになってしまうでしょう。まさか是枝映画のスタッフで、それはないでしょうし(笑)、それなら公開の前に録りなおすでしょう。
この作品のかなめになる(であろう)敦の正体に関わる会話が聞こえなかったり、ほかのメンバーどうしの会話も聞こえにくく、誰が誰かもよくわからないくらい登場人物個人をクリアに造形しないで、半ば闇の中でそれぞれが共通する部分のある過去をひきずりながらぼそぼそと自分を語り、過去への多分答のない問いかけをする、といった設定そのものが監督はじめこの映画の作り手たちが意図したものであり、描きたかったものであるとすれば、そのわからなさ、わかりにくさは、クリアにわかろうなどとしないで、そのまま受け止めるしかないでしょう。
6人もの生活の場も生き方も考え方も異なる、本来は交わるはずもなかった人間が、その家族が事件の加害者だった、という共通点だけで集まることになったので、その一人一人の過去に次々にフラッシュバックする映像が現在との間で少なくとも6×2=12延べ人数分あり、それぞれ5回分のショットを与えられるとすれば、それだけで60ショットということになり、そんなのが一つの時間軸なり空間の一致なりで統合されずに表現されれば、分かりにくくなるのも無理はないでしょう。だから、こういう作品の作り方そのものが、統合的な一つの物語を作り出すことを捨てて、そのわかりにくさの原因である、6人の本来無関係な多様さの細部そのものを表現して、本来そのようなものである一人一人の日常生活が、事件によっていわば無理に接点をもたされる結果になってしまって、とまどいとぎこちない距離感をもちながら、その原因となった肉親とのかかわりや、かつての日常生活の場面を思い出し、だけれども起きてしまって、加害者の家族となってしまった自分たちの現在を受け入れるしかなく、そういう自分たちの現実を不断に確認しながら生きていくしかない、その点では同じ立場の他の5人と一定の許容しあうような親密さとぎこちない距離感をもっている、そういう被害者でも実行犯の加害者自体でもない、加害者家族のアンビバレントな姿を描きたかったのかな、と思います。
この「手当たり次第に~ここ二、三日観た映画」で、たまたま見た映画を取り上げて書く時、あまり先入観をもたないために、何の用意もなく手ぶらでレンタルビデオ屋から借りて来てスキャナーの上にいつも積んである中から適当な1枚を観たら、そのタイトルと制作または公開年を知り、登場人物の役名と俳優の名前を間違えずに語れるように、たいていはウィキペディアの記事で確認だけして、あとは気ままにいきなり書いていくようにしているのですが、この「ディスタンス」については、あんまり分からないものだから、少しネットに出ている「あらすじ」まで読んだり、なにかあの電車内での坂田と敦の会話内容などに触れた記事はないかなどと調べてみました。
その中で、はっきりと敦が追い詰められた自殺した教団の教祖の息子だと指摘している個人のブログらしい記事が目にとまりました。また、最初からこの作品を、ポリフォニックな描き方を解体して、教祖の息子である敦の視点から、彼を単独の主人公とした一筋の物語として再編成する視点で見返せば、わかりやすい、と書いているブログもみつけました。
なるほど、たしかにそれはそうだな、と或る意味でわたしの「わからなさ」が解消されるところがありました。つまり語り口がポリフォニックで、6人もの主要人物の現在と過去が入り混じることによって、主人公一人に着目して時間軸に沿って継起的に出来事が語られていく古典的なストーリーの原型みたいなのから外れたから、その時間軸、空間軸がわかりにくなったのだと考えれば、それを一本の時間軸、一人の登場人物の世界に的をしぼって追っかけていくストーリー展開に再編成すれば分かりよくなります。
敦はどこにでもありそうな両親のいる普通の家庭の息子だった。白百合が好きだったのは父親で、いつも玄関に飾られていた。敦の父親は夫婦で家庭を運営していたときからなのか家を出てからかはわからないけれど、教団をつくって教祖になり、家庭と子供を大事にしたい妻との間に齟齬を生じている。敦は花屋で働いて、姉ではなく夕子という弟を自殺で亡くした過去をもつ同僚の女性と恋人どうしになるけれども、この夕子が敦の父親の教団のメンバーになって出家し、殺人事件を引き起こす実行犯のメンバーになって、ほかの実行犯と行動を共にし、死んで(あるいは殺されて)しまう。教祖であった敦の父も追い詰められて自殺する(坂田を取り調べる刑事の語る言葉によれば)。
こうして、敦は愛する女性を教団に取り込まれて失った被害者でもあり、その女性が無差別殺人事件の実行犯となったため、加害者の家族と同格(と言っては変だけれど)の、加害者の恋人でもある、という、この映画の主な他の5人の登場人物と同様の立場であると同時に、彼の場合はそれにとどまらず、実行犯たち全員を巻き込んだ究極の責任を負うべき教団の教祖の息子として、死んだ実行犯たちに対する究極の加害者の家族でもある、という二重、三重の被害者≒加害者「の家族」という重層的な構造(「業」と言ってもいいかもしれまえんが)を背負った唯一の存在としての特殊性を持っています。
この敦が、被害者の一人であるらしい老人を(冒頭に近いシーンで)見舞い、また他の5人の「加害者の家族」の中に、同じ立場と偽って加わるのは、そういう二重、三重の「加害者の家族」としての贖罪意識からかもしれません。しかし、同時にそれは、或る意味で彼の家庭から疎外され、社会から疎外されて、疎外された者たちの心情を拾い集めるようにして教団の教祖となり、このような社会の在り方ではない、あたらしい世界を求めて、現実の社会を全否定する教義を作り出し、無差別大量殺人事件を指揮し、追い詰められて自殺した父親「を失った家族」としてのグリーフ・ワークでもあり、彼が最後に実行犯たちの焼かれた灰が撒かれたという湖の桟橋で百合の花を投じて祈り、「父さん・・」とつぶやくのは、父のための喪の儀式でもあるのだろうと思います。
このグリーフワークによって、彼は家族の写真を焼き捨て、上に述べたような自分の背負う、被害者でも加害者でもなく二重、三重の加害者「の家族」という業を炎とともに焼き捨てて、敦としての敦として生き始めることになるのでしょう。
敦という「主人公」を初めてに立てて、あとの加害者「の家族」は、この軸の周囲の肉付けだという視点でこのように見ていけば、この映画は是枝監督のこの映画より前に撮られた、まるでスタイルが異なる「幻の光」の延長上に位置づけることも容易でしょう。この作品もまた、「幻の光」と同様、敦による父親と恋人の死によるグリーフワークを描いたものだ、と。
ただ、この作品では一人ではなく複数の本来はまったく無関係な人生を送ったはずだった異なる家族による集団的なグリーフワークであることと、喪の対象となる死が社会的な背景を持っていることによって、ポリフォニックな語り口を採用せざるをえなかったのだ、ということになるでしょうか。
敦が教祖の息子であることは、映像の中で顕示的に表現されているわけではありません。先に書いた、電車内での坂田の言葉(ある意味での証言)と、そのあと敦が冒頭に田邊という老人を見舞っていた病院へ行ってみたら患者はすでに亡くなっていて、茫然としている敦のところへ看護婦がやってきて、田辺老人が亡くなったことと、その死後に息子が訪ねてきたことを告げ、「あなたが息子さんだと思っていたけれど、そうじゃなかったんですね。あなたはいったい・・・」と言う、その言葉で、少なくとも敦が被害者の息子などではないこと、またもし坂田の言葉が正しいなら、実行犯夕子の弟でもなく、ほかの3人とまったく同じ意味での「加害者の家族」でもないことだけは明確になりますが、教祖の息子だった、ということは、私の見落としでなければ、どこにも明示されていません。
ただ、現在形でカメラが追ってきた4人プラス坂田の、実行犯であった家族の命日に際しての湖の桟橋での喪の儀式が一つの物語として終わったあとに、敦がひとり桟橋で写真を焼き、百合の花を湖に投げ、「父さん・・」とつぶやいて去る、その肩越しに、まるでガソリンでもぶっかけたみたいに、轟然と大きな炎が桟橋に立ち上がり、もうもうとした黒煙を上げ、なにか靄のようなものが湖の上に立って炎に近づき、やがて劫火のような巨大な炎とひとつに融けて燃え盛るような印象的な映像を見れば、敦が教祖の息子だったと考えるほかに考えようがなくなってしまいます。(あの迫力のある業火は不動明王の身を包む炎みたいな、敦の父である教祖の魂の業火ですよね。そうでなきゃ、敦のマッチ一本で写真を燃やした火でいきなり桟橋がガソリン撒かれたみたいに巨大な炎を出して燃え上がるなんてありえない・・・笑)
ということは、ひとつの物語性として取り出すなら、教祖の息子敦を軸に展開される物語として設定されていることは疑いなく、そこは決してこの作品が曖昧化して、観客はご自由に考えてください、と投げ出しているわけではなく、映像に表現される要素自体がそれを内在的に指し示していると言えるでしょう。
ただ、この作品が何を描きたかったかと言えば、必ずしも敦と言う一人の「主人公」をめぐる、「幻の光」のようなグリーフワークではなく、複数のグリーフワークのポリフォニックな描写を通じて、二重にせよ三重にせよ、被害者でも加害者でもなく、「の家族」という直接性から距離(distance)を置いた位置にある人だからこそ、事件の前はもちろん、事件のあともまた、それぞれの日常生活を抱え、その中で生きていかざるを得ない存在であり、グリーフワークを通して事件を振り返り、自分たちの生きていく姿をあらためて顧み、自分たちが背負う業のような二重あるいは三重の被害者≒加害者「の家族」というありようを確認して日常生活へ戻っていく、そういう人間のありようを描きたかったのではないかという気がします。そうでなければ、こんなに入り組んで分かりにくい設定などとっぱらって、すべて敦の視点でひとつの物語を紡いで見せるほうがよほど明快だったのでしょう。
帰りに電車を降りて、みな立ったまま店のカウンターで丼ものの昼飯を食べるシーンがありますが、一人一人が山の中では電波の圏外で通じなかった携帯電話機をとりだして、外部との連絡をとる場面がとても印象的でした。ああ、ああして日常生活に帰っていくんだな、という姿が視覚的にとても印象的だったのです。
2018/06/16