「なみのおと」(酒井耕・濱口亮介監督)
出町座で「なみのおと」を見ました。
酒井耕・濱口亮介監督による東北記録映画三部作の第一部、2011年3月11日の津波に遭った三陸沿岸部に暮らす人々の「対話」を取ったドキュメンタリー映像です。
岩手県田老町から氣仙沼、南三陸、石巻、東松島、新地町と三陸海岸を南下しながら、それぞれの洪水の跡の土地で暮らす人々の声を、監督に語る形もあるけれど、多くは2人セットで夫婦、姉妹、友人どうしが向き合って語り合う「対話」形式で、これが観る者(いや聴く者)の心を撃つすばらしい語りを引き出しています。
むしろ監督が問いかけている場合、監督のほうもまだ年若く、若者で、こうしたドキュメンタリー映画を撮る経験もはじめてか、ごく浅い経験しか持たなかったのでしょうし、そうでなくても生きるか死ぬかのような体験、中にはかけがえのない人を亡くした人もあるような津波の被害者にいったいどんな言葉を投げかけることができるか、途方にくれるような作業ですから、向き合って問いを投げかける側に、ある種のうしろめたさのようなためらいの表情や素振りがみられ、その戸惑いの表情やぎこちなさが、そのまま映し出されています。
けれども語り手である住民たちのほうは、そんな慮りなど必要ないよ、というように、見事に自分を、そして自らの体験した津波を、身近な人々の様子を物語ってくれています。私もかつての仕事柄、たくさんの人たちにインタビューの類をしてきたけれど、非公開のインタビューであっても、これほどみごとに自分を、またその未曽有の体験を語るような言葉を引き出すことがどれほど難しいか、多少は知っています。その感覚でいうと、この作品で聴き取られた言葉はほとんど奇跡のように思えるほどです。
もちろんそれは長い時間をかけた監督たちスタッフの現地の人たちに向き合う姿勢と、周到な準備と本番ロケに注がれた粘り強い作業に裏付けられたものには違いありませんが、おそらくこの映像に示された当事者同士の「対話」という方法によって見いだされ、引き出されたものに違いないと思います。
それはまっすぐに、たとえば濱口監督の「ハッピー・アワー」に通じるものだと思うのです。
津波襲来のほんの数分前に駆け込んだ自宅(妻)、事務所(夫)もたちまち2階にまで水が達し、夫の腕につかまって事務所の2階に寄り添うことができた夫婦は、家を流され自分たちがいた事務所もまた建物ごと流されて橋にぶつかって破壊されながら筏となって川を1kmほども上流に押し流され、速度が緩やかになったときに夫の判断で川へ降りて土手に上がって救われ、文字通り九死に一生を得た夫婦の「対話」は、その体験の中身もすさまじいけれど、苛酷な体験のさなかに我を忘れ、あるいは右往左往する自身の姿を、ときに滑稽な人の仕草を見るかのように笑いながら語り、ときに絶望の瞬間に立ち返ったかのように沈黙しながら、その時の自分と向き合い、再現し、丁々発止と語り合う、その語りの見事さに心底感動しました。
一人一人のごくふつうの生活者が、これほどの力強い声、これほど力強い言葉を持っていることを、おそらくは若い映画監督たちもこういう人たちに出会うことで、あらためて「発見」しなおすような経験をしたのではないでしょうか。私にはそれが、「ハッピーアワー」の、プロの俳優ではない素人の演者からあれだけ力強い語りを引き出した方法につながっているに違いないと思えます。
その「対話」の映像を見、その語りを聴いていると、人が語り合う、ということが、単なる言葉の意味の伝達ではなく、声であり、表情であり、身振りであり、沈黙であり、間合いであり、笑いであり、語り手と聞き手が互いに共鳴しあって生み出す空気でもあるような創造のプロセスだということが、まざまざと了解されるような気がします。
それは同時に、私たちが平生みなれているドラマの登場人物たちが語る「物語」とは大きく隔たる、その距離に気づかせ、ある種のショックを与えるところがあります。
こういう映画をみたあとでは、なまなかな映画やテレビドラマなど、嘘くさく思えて仕方がないでしょう。登場人物たちのセリフが、キマジメであればあるほど、白々しく聞こえて仕方がないだろうと思いました。まして映画やドラマの作り手にとっては、なまなかな「物語」ができなくなるでしょう。
しかし、それは必ずしも、彼らの「対話」の中身が津波と言う現実の苛酷さを語るものだから、というわけではないように思います。現実とフィクションとか客観的か主観的かなどという話ではないように思うのです。
これらの映像は歴史的な災害の貴重な記録となるでしょうが、彼らの語りは科学的な定点観測のように、思い込みや主観を排した客観的な記録ではありません。むしろその正反対といっていい語りであり、映像なのです。それはむしろ徹底的に彼ら一人一人の個人の目や耳や膚を通してとらえられ、彼ら個人の主観に映じた出来事にほかなりません。そして、だからこそその声は生々しく、その言葉は強く、彼らが何を体験したか、そこで何が起きたか、真実に深く届くように感じられます。
こういういい方は語弊があるかもしれませんが、あの九死に一生を得た夫婦の「対話」を聴いていると、まるで幼いころ聞かされたアラビアンナイトの「船乗りシンドバッドの冒険」のように、ほとんど現実離れした、ありえない体験の連続で、そんなことが!と思いながらいやおうなく聴く自分もその空想の世界の出来事のようなエキサイティングな体験の渦に巻き込まれていく錯覚を覚えます。
それは本当に人間に可能な限りの知恵をしぼり、信じられないような勇気と瞬時の判断力と決断で行動し、未曽有の困難を克服してサバイバルする冒険譚にほかなりません。聴いているときはただ圧倒されて聴いていただけですが、あとで反芻していると、それは幼いころ、現実にむかしむかし実際にあったお話、として「船乗りシンドバッドの冒険」を、その主人公になり切って興奮して聴いていた、まだやわらかだった自分の心に戻っているような気がしました。
被災者の体験はもちろんシンドバッドの冒険のようなハッピーエンドとは限らない。むしろ圧倒的に多くの人々にとって忘れることのできない地獄絵であり、深手を負ったまま歩きつづけなくてはならない現在なのだと思います。けれどもこのドキュメンタリーに記録された人々一人一人の声、言葉の強さはその苛酷さを語りながらも、わたしたちに希望の光もみせてくれているように思います。
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