MRJ国産中型ジェットの話

MRJ

先月の23日には話題の国産中型ジェットMRJを題材にして、日本の航空産業の現状と展望について話を聞いた。

実際に開発に携わっている人の話で きっと機密の話は無いのだろうが現在の飛行機の開発や製造状況を考える機会が有って嬉しかった。

彼はMRJの最終組み立てをやっている三菱重工の岐阜基地にある名古屋航空宇宙シスム製作所の工場長兼テストパイロット、元は航空自衛隊のヘリコプターテストパイロットから三菱重工に移籍している。

※ここの記事は覚えていた事にあとで本読んだ記事をすこしくわえています。※

1。現在の世界の飛行機産業の状況は生産は伸びている。 しかし殆どが民生機で軍用機は停滞している

(軍用機はかつてのように大量生産用の新しい機体が作られていない、ステルスとか可変エンジンなど2次大戦から有るアイデアの現実化で米国ですら高価すぎて実用にならない)。

民生機分野は:800人乗りを越える分野は米国のマグダネルとEUのエアバスで独占状態で市場の拡大はなく、小型機分野も市場がせまく、

この間を埋める150から600席の中型旅客機が拡大されると思われて、(小型機の改良ベースの新規開発を含めて)新規参入競争が激化している。

現状の中型ジェット機市場はカナダのボンバルディア、ブラジルのエンブラエル、ロシアのスホーイの3社が支配しているらしい。

カナダ ボンバルデア社 ボンバルデア

bonbardia

ブラジル エンブラエル社 (JALが地域航空会社で使用)

enburaer

ロシア 戦闘機で有名 スホーイ社 新潟空港等に飛来

shoi

ここに日本、中国が参入競争している。 なお中国は自国市場が大きく既に開発終わり完成した機体をまずアメリカの認証が不要な中国国内市場へは参入を始めている

国産初の旅客機YS11は今回の話題に乗りませんでしたが、私の国産旅客機といえばYS11です、 鹿児島から屋久島まで行ったのを思い出します。

短い滑走路で離陸と着陸を行っていて滑走を始めると直ぐにぷるぷると離陸してしばらく海を見ながら飛んでいくと、すぐに屋久島の独立峰に近付き到着、歩いて空港ハウスへ到着したのを思いだします。

確か、此の会社は 戦前に航空産業で働いていた多くの企業や優秀な人材がリーダーとして参加していましたが寄り合い所定で、販売システムも整備されていなくて 最期は資金面で赤字に終わって

失敗と言われて今の時点では口に出したく無かったのかもしれません 国外にも輸出され、ジェット化まえの短距離の主要路線で活躍してたと思います。

2。日本の航空機生産の発展は米軍機の開発生産を部分的に請け負いその範囲を拡大して来た。

初めは米軍機体の部品単位で委託生産し、主翼部分などのユニット単位での共同開発委託に移り付加価値を増やして来た。

今はこれらのユニット生産を支える新素材の開発や生産を国内工場で出来る様になっているが、此の分野のアジア各国への技術移転が進んで来ていて 此の状態が何時まで続くかは余談が許さない。

(そう云えば去年のニュースでわたしも、インド等ではロシアとスホーイの第3世代の最新型戦闘機を生産する記事を見たことがある)

つまり 現在のもっている生産技術を使った商品を作りつずけられるのか??

いまこそ、軍用機生産で培った新素材技術を使った民生機を作り競争力ある機体をつくる必要がある。

と考えたのではないのかなと思いました。

3。三菱と言えば最近では映画のせいも有って零戦を思い浮かべる人が多いのではないかと、戦時の三菱で設計生産していた零戦の事を話してくれた。

戦時の航空産業も、当時の世界的な技術の発展の見通しのなかで材料技術や加工製作技術が何時頃にはどのレベルになるか予測して、それを採用する機体やエンジンを何時頃採用するかマップを作り

それを織り込んだ状態で順次これだけの性能のものを作って行くと企画されていた。 海外の技術動向も調査に良くいってたようで、零戦も堀越課長が欧州調査から帰国して開発始めていた。

具体的に今日本が持っているすべての関連技術やこれからの技術動向、日本が開発している技術、同盟国のドイツばかりでなくイギリスやアメリカの技術や部品も手に入れて使っていた。

初めボーイングを基に開発した90式戦闘機であったが、この機体を翼構造や組み立て構造を新しくして330km/hだせる96式を開発した。 さらにエンジンも星形14シリンダーの開発により三菱は780馬力

さらに競作の中島製900馬力誉れエンジンが採用されて、ジュラルミン材の機体構造部材も開発され採用された。

これに対して零式戦闘機ではさらに

空力の向上のために外板の接合も表面から飛び出さない鋲材をつかい、主翼も一体に繋がった軽量高剛性の構造の採用などにより燃費を向上させたうえ、増加燃料タンクも取り付けれる様にした。

これらのことで航続距離は増加燃料タンク付きで3100Kmと中国内陸部の重慶まで爆撃機の支援して行って帰れる様になった。

同時に当時は珍しい20MM機銃を採用した事により 南太平洋や東南アジアでの戦場で圧倒的に有利な長所として緒戦の一年半ほどを活躍する事が出来た原因の様だ。

しかし、戦闘方式が戦闘機どうしの戦闘から編隊戦になり、個々の機体の小回りより編隊で一撃しエンジン馬力で素早く離脱する戦闘方式になると、戦闘機への要求が様変わりし高馬力エンジンの

無い日本には(当時1000馬力の零戦のエンジンを1500馬力に開発し搭載するには、時間がかかって此の状態でなんとか戦い続けた優秀なベテラン戦闘員は戦死していった。 此の時米軍のグラマンは既に

1500馬力、更には2000馬力のエンジンを搭載していった)。

それから戦争前にガソリンや潤滑油等をアメリカから大量に輸入して軍用として蓄積していたので1年ほどは性能を落とさずに戦えたが、東南アジア侵攻で原油を手に入れガソリンや油脂類を作るつもり

だったがアメリカ原油とは質が異なり蒸留残量も計画の様に手に入らず上手く使えず添加剤等大量に加えても性能不足だったという。

しかし、設計技術や生産技術も戦時であれば各国共に急速に改良されて、先日も実戦の中で改良されて当初の優位はすぐに落ち、それを改良して採用して行く国力を日本は持っていなかった。

元々が高性能なガソレインや石油系油脂など大量の工業資材を生産する先進工業国ではないのが表に出て来たとおもう。

(ドイツも石油は無かったが、最高の化学力を使って石炭を化学合成したガソリンを此の戦争に必要な分を生産備蓄していた)

なお零戦の生産方式はジュラルミン材をプレス成形で形を作り、そのパネルを繋げ各パネルを作る、作業には沈頭リベットで加熱してリベット撃ちをしていたので男の体力で無くても作業が出来た。

生産はラインの中央にタクトと言い時計を置き、機体を載せた台車でパネルを繋いで機体を組み立てる作業をしては完了する時間になるとタクトを音で伝えて行程完了を伝え前進していたという。

これが今に繋がるタクトの名のもとになったという。

4。話題のアメリカ航空局の認可の件、当初に予定された認証資料の他に色々な追加が有る様です、中国の新型中型機認証も同じ様にトラブって様です。

機体は小牧工場で完成後はアメリカに送り認証のじゅんびしている。

かっての零戦は設計者は堀越課長含め全部で16人、手回し計算機で構造計算して1.5年で開発、現在のMRJはスパコンもつかい2千人で開発。

人間の夢とアイデアも含めた経済主体の現代社会の生産性の問題が有りそうな気もします、 時代が変わり細かい仕様が増えて、必要な書類も増えている様ですね。

その他色んな話が有りました、ありがとうございました。