17 地球、そして人類にどんな未来があるか

地球では惑星の原初の大陸が次第に分割されていく現象は、「ゴンドワナ」と呼ばれている。

だがユミットの語るところによれば、この分割こそ同じ人間や動物の間に極端な差異を生みだす原因であり、じつはきわめて珍しい現象なのだ

地球では実質的にはまったくかけ離れた時代に生きる人々が、現実には共存しているのも、これが原因となっているのである。

地球上のある種族にいたっては未だに石器時代※1の生活をしているというのに、「文明」のおかげで寛大に保護されているしまつである。

生命圏の特殊性によって生じたこのような時間のズレは、遺伝や文化の面での民族間の相違を早急に解消する障害となっている

もし心的現象としての「あの世」が地球についてもあるのだとしたら、われわれのほうが選ぶべき惑星を間違えたということになるのかもしれない。

こうした条件下における「あの世」の形状は、生物圏と似たものとなろう。民族と文化の異なるこのような集合体には、同じように異なる心的現象の集合体が対応するのである。

すなわち地球は、生物学や心的現象の面では、じつにキマイラ※2的怪獣である。

人間集団は明らかに原初の大陸の分割による時間のズレの犠牲となっており、きわめて不均一である。そして残留応力※3のあおりを受けて、自己免疫的とも言うべき防衛反応を

くり返し、時代錯誤的な戦争に絶えず駆り立てられている

人間の悲劇は、自分たちが皆同類であることを、未だに認識できていないことにあるのだ

人類は自らの差異をむしろ儀礼化する方向に進み、複雑な言語や、対立する傾向にある種々の宗教を生み出してしまった

そのために自然界では種の存続のためには、自己の個性を犠牲にしてまで同朋との融和を図るという適応メカニズムを必要としているのに、人間の場合はある民族、もしくは個人が

他の民族や個人を犠牲にしてまで存続しょうという時代錯誤的な行動が一般化してしまったのである

そしてそのような行動パターンが、大陸間弾道弾や核爆弾や化学兵器や生物兵器や、その他もろもろが混在した、比較的発達したテクノロジーとともに共存しているのである。

これが現在の地球の状況なのだ。米ソのいわゆる二大超大国によって、まったく相対的な軍事的平和がほぼ半世紀にわたって維持された後、その代償として核軍備による

地球的規模の生け贅の儀式が、現実の脅威となってしまった。

今日では確かにこのような危機は遠ざかったように見えるが、好敵手を失ったアメリカ軍関係者は予算獲得の絡みもあって、今度は核兵器の照準を星々のほうへ向けている。

小惑星が地球を危機に陥れる場合を想定して、破壊作戦やら迂回作戦やらの準備に大忙しなのである。

今日では信頼に足るイデオロギーや宗教を世界に向かって説くことのできるような民族は、まったく存在しない。

人々はこのような政治的精神的空白を目の当たりにして、ワラをもつかむ思いで聖書や伝統宗教に固執するばかりなのだ

個人の行動には、民族の行動パターンが反映されている。

酸よりも強い浸透力を持つ″マスメディア″ のメッセージは、個人の最後の砦とも言うべき文化や家族の感覚を溶解してしまった

今や人々は、おびただしい情報とイメージの氾濫の中で、ひとり自分の殻に閉じこもっている

社会に向けては、強い人物となって仕事の上でも成功するためには、他者に対して愛情を抱くよりも、誇大妄想的パラノイアになったほうが進歩があるというものだ

愛他主義は非能率的である。われわれの指導者たるべき政治家の連中は、しみったれたマキャヴユリズム※4よろしくその場しのぎの禰縫策に現を抜かしている

このような状況において、「あの世」は何をしているのだろうか?

ユミットは言っている。社会とともに精神の法則そのものも進化するのだと。

だがわれらが惑星はあらゆる意味で病気なのだ。 経済もテクノロジーも社会心理も、そしておそらくは心的現象も何もかもが

「あの世」の世界観は善悪の観念を超越しており、個人の責任はそのまま集団の責任となる

われらが地球は、非常に困難な状況で進化しょうとしているひとつの組織のようなものだ。 地球は生物圏が特殊であるために苦しんでいる

この文化的な時間のズレは危険なものであり、テクノロジーが発達し、非常に効果的な破壊手段がすでにある現代のような時代には、時代錯誤滝甚しい

惑星ウンモでは、このようなことが自覚されるずっと以前に、政治的統一が果たされていたそうである。

この点に関しては、われわれには運がないのだ。

我々のテクノロジーの進歩にとって、一番不安なことのひとつは、遺伝子操作の問題である

これは生物の正常な進化と見なすべきなのだろうか、それとも深刻な誤りと考えるべきなのだろうか?大変な問題である

科学者は何世紀もかけて種の選別を行ってきた。

とりわけ野生の麦をもとにしてまったく違うタイプの、もっとずっと収穫量の多い耕作用の麦をつくったのである。そこまでなら同時的進化のもうひとつの例でしかない。

だが今日では人は突然変異の種を取捨選択することに蝕き足らず、魔法使いの見習いよろしく人工的に遺伝的変異を起こしているのだ。

このような所業の背景には、遺伝学が単純なゲームか何かのように機能するのだという素朴な信仰がある。

ところが前述したように突然変異、つまり遺伝子の変化は単発的にではなく一挙に、すべてが一致協力して生じるのだ。

ある特定の遺伝子を接木したりすれば、思いもかけないような破局的結果を招いてしまうことも大いにありうる。

不協和音がほんのいくつかあるだけで、全体のハーモニーが台無しになってしまうのと同じ理屈である

人間は自然とともに進化しょうとせず、今日では自然にとって代わろうとしている。

これは自分では知っているつもりだが、ほんとうは規則をそれほど正確に把握できていない領域でやみくもに動きまわり、危険きわまりないゲームをしているようなものだ。

ユミットの手紙には、彼らが人間の改造を試みた顛末が報告されている。

やり方はかなり大胆なものであった。

重度の精神的な障害者の治療のために、情報工学で言う「オール・リセット」を実施し、患者を精神的には初めからつくり直そうとしたのである。

当の患者たちは、『トータル・リコール』というアメリカ映画を地で行く恰好で、記憶喪失に陥ってしまった。

だが肉体的には大人のままで、精神的には子供時代に逆戻りした彼らには、新しい知識を瞬く間に吸収する能力も付与されていた。

こうして彼らは、以前の彼らとは似ても似つかぬ人格を獲得するに至ったのである。

ところが「治癒した」ように思われたのはかなりの短期間のみであって、その時期を過ぎると患者たちは完全な呆然自失状態に見舞われた。

そのとき研究者たちが目の当たりにしたのは、昏睡状態に陥って生ける屍と化した存在でしかなかったのである。

ユミットの得た結論は次のようなものであった。

科学にも限界がある。聖書にある「生命の樹」のように、触れることができず、また触れてはならないものがあるのだ。

このような警告は心して受け取めねばならない。なにしろヴァチカンが「中絶によって取りだされた胎児を、そのまま生かして育てる可能性がないかどうかを調査するため」と

称して、人工授精による胎児を、切断された子宮の一部に植え込む実験を許可したような時代に、われわれは生きているのだ。

現在の地球が置かれた状況は、人間に個人的また集団的な責任を鋭く問うものである。

何をおいても自由主義を標樗するのは危険なことなのかもしれない

科学における自由主義は、大量破壊兵器のような常軌を逸した結果を導いた。地球環境の面では事態はさらに深刻である。

人間は何のために存在するのかを率直に自問してみることが焦眉の急なのに、今日ではそんなことを真剣に考える者は誰もいない。

もちろん今すぐ明確な答えが得られるというものではないが、この疑問にはどうしても集団的思考※5の形而上学が絡んでくる。

すでにわれわれは、ヒト化と意識の目覚めが少しずつ進展したのだとする、古生物学者たちに支持されている段階説を否定した。

そして明確に合目的な世界観に立ちつつ、大量の突然変異によるヒト化の瞬時の実現という説を立てた。

さらにユミットの手紙を手がかりにして、いずれ新たな量子的飛躍が起こり、「人間+1」の出現を待って、人類の未来が新たな段階に突入するのだということも明らかにした。

この「人間+1」は、あらゆる意味において人間より優れているので、地球の生態的地位において支配的な位置を占めることになるだろう。

そのとき人間はどうなるのか? 人類は自然に滅びていくのである。

宇宙船の建造が可能なレベルにまでテクノロジーを発達させるという、自らの任務をまっとうした後は、単なる人間は「人間+1」に席を譲らねばならない。

さもなくばもっと単純に彼らと共存していくかである。

われわれはサルと共生し、あらゆる動物と共生しているが、それらの動物たちにしても進化の環であったことがあるのだから、人間もそれなりの生態的地位に適応すれば、存続する

可能性は常に残されている。

これまで生命の進化において作動しえた様々なメカニズムや、行動の様態を考察してきた。

そして人間の誕生についてはわれわれなりの推論も試みてきた。

そもそも人間が自己の内に動物の片鱗を認知した(デスモンド・モリス著、『裸のサル』)のは、ごく最近のことにすぎない。

このような観点に立つのなら、人間をひとつの総体として捉え、その行動全般を再検討せねばならない。

生物の中には、たとえば生殖を終えると死んでしまう種も沢山ある (植物では竜舌蘭、動物では鮭、タコなど)。

人類は「生殖」の後にも、つまり星に向けられた「人間+1」という「種」の放出の後にも、生き残ることはできるのだろうか?・

どんな可能性も否定できない。

集合的魂には善悪※6の観念はないのだから、人間は自分で自分を容赦なく排除することによって、進化に協力することになるのかもしれない。

刹那的産業活動による破局的結果、つまり公害によって滅びるのか、過剰軍備の果てに殺し合いに及ぶのか、それとももっと陰湿であるだけに効果が著しい病気によって滅びるのか。

エイズのような病気は、大量殺戟の絶対兵器になるだろう。

なぜならば一切セックスを断ってしまえば、それだけで人類の子孫は絶えてしまうのだし、セックスしてもやはり当人が病死することになるからだ。

恐るべきことだ。種の目的そのものである生殖が侵されているのである。

もしエイズ※7が今より一世紀だけ早くこの世に出現し、感染源がすぐには究明できなかったとしたら、この他に類を見ない現象によって、全人類はほどなくして、自分たちに

何が起こつているか考える時間も与えられぬままに死滅していただろう。

感染しても発病がきわめて遅いので、人々はこの病気がセックスと関係があることにすら気がつかなかったかもしれないのだ。

人類はこれまでにもペストのような疫病を経験し、大量の死者を出しているが、エイズに類するようなものは決してなかったのである。

要するに地球の未来の

第一のシナリオとして考えられるのは、もっと分別ある種が現れて、人類は完全に滅亡してしまうことだが、それも生命の進化の過程と考えられるのだ

第二のシナリオは、少数の孤立した共同体しか残らなくなることで、これは聖書の「ノアの箱舟」の生物学版となろう

ユミットの言ったことが本当だとしたら、

もしエイズが人間の遺伝子操作による産物だとしたら、これは核軍備と同じことで、テクノロジーがその本来の目的を逸脱し、濫用されたことの悪影響の一例であろう。

ついでに言っておきたいが、原子力は人類の進化に不可欠なエネルギー源だなどということは毛頭ない。

原子力の出現は、人間とテクノロジーの調和ある進化という見方からすれば、時期尚早だったのだ。

遺伝子操作の破局的影響は、したがって人間がそれが宇宙において占める本当の意味の何たるかを理解する前に手にしてしまったことから生じたものであり、

これは早すぎた発達のもうひとつの例である。

核と遺伝子扶作というこの二つのものの悪影響は、人間を罰し、強制的に「足並み」をそろえさせるための、生命独特の反作用だと考えるべきであろう。

※1 ユミットの手紙には、地球人とユミットの科学技術の面でのタイムラグは、数世紀ほどだとある。

となるとこれはパークレー大学の科学者とニューギニアの先住民との差よりは百倍も少ないということになる。

※2 ギリシャ神話で、ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を持ち火を吐く怪獣。

※3 外力や熱を加えた固体に、除去されないで残った擾乱的な分布応力。その大きさは必ずしも固体全体の歪みの大きさに比例するものではない。

※4 マキヤヴ工リ (1469~1527) イタリア・ルネッサンス期の政治学者。主著『国家論』で、国家支配は個人倫理に制約されるべきでないことを説く。

一般には権謀術数の代名詞となっている。

※5 種の成長や自己組織化には調和が保たれていなければならない。一部の破綻によって全体が存亡の危機にさらされるのだ。

たとえばガンとその転移は、成長の阻害を伴わない機能停止であり、自己免疫性疾患は管理機能の停止である。

※6 動物にとっては種への貢献が善である。自然界では種を最大限に存続させるために、状況に即した行動メカニズムが常に更新されていく。

このメカニズムが個体を犠牲にしたうえで作動することも珍しくない。 動物の親は移動の時期が来れば、生まれたばかりで歩くことのできない子供を置き去りにする。

この場合は善も悪も、親切も優しさも、人間におけるような意味を持たないのである。

※7 エイズは家族の絆が崩壊しようとする時代に、それを再建するために出現したのではないか。

文化がほぽ有効性を失ったとき、生物学が自動的に介入するのだ。

ユミットの宗教、それは生物学である。自然選択、性能の最大限利用、進化、情報伝達の拡大、遺伝的混合などに重点を置いた、一般化された生物学である。