1021-46年目の邂逅

46年目の邂逅 田上 俊三 大正6年 稚内生まれ 会社社長

多くの西洋の人たちには、第二次世界大戦中、日本人は、野蛮で非人情、あたかも「アッチラ族」か「ジンギス汗」の様に印象付けられていた節が有るが、確かにそんな人もいた。

しかし、幸いな事に私の体験は、これとは全く違った物であった。

それは、チルバルリー(騎士道)というべきもので、「オックスフォード辞典」によれば、それは(中世期のナイトの様な宗教的道徳的な社会律を持ち、特に弱者に対する同情と夫人に対する敬愛を旨とする制度)と定義されているが、私は、私は敗れた弱者に対する憐れみと寛容を見たし、また、受けたのである。

これは1987年海事誌「プロシーデングス」に掲載された、イギリスのサー.サムエル.フォール(Sir Samuel Falle)氏の『チリバルリー』(騎士道)という文章の一節である。

氏は、大戦中、英国駆逐艦「エンカウンター」の砲術科士官(海軍中尉)として勤務していた。

1942年(昭和17年)3月1日、スラバヤ沖海戦において「エンカウンター」は、英巡洋艦「エクゼター」とともに、日本海軍と戦い敗れ、撃沈されたのである。

乗員はすべて海に投げ出され、救助される術もなく絶望の中に漂う事18時間、幸いにもここを通りかかった駆逐艦「雷」(イカズチ)により、救助された時の事を書いた記録である。

私は当時、奇しくも駆逐艦雷の砲術長(海軍中尉)として勤務していた。 「雷」は、我が艦隊に合流せよとの命を受けて、スラバヤ沖を西進中であった。

3月2日午前7時頃、遥か洋上に、点々と多数の漂流物を発見、置かついて見ると、多くのひとびとが浮き袋を身につけ、ようやく頭だけ出して漂流しているではないか。

彼らは手を振り、救助を求めていた。 すぐに、昨日、この海域の海戦で敗れた英海軍の将兵とわかった。

「溺者救助用意」の号令が艦内に流れ、直ちに艦はエンジンを停止した。

私は、部下の砲術科員約百名を指揮して救助作業に当たった。 ボートを下ろす者、縄梯子をかける者、医療品、担架を用意する者、紅茶、ミルク、パン、衣類などを用意する者、両舷に仮設トイレを用意する者など、甲板はごった返した。

やがて収容作業が始まった。

自力で上がれる者は縄梯子から、上がれない者は艦上から引き上げ、怪我人、病人は、担架で、約2時間掛かって全員の救助が終わった。

総勢404名を数え、甲板上は足の踏み場もない。 「雷」の乗員数は240名であるので、その光景は容易に想像出来るだろう。

さて、これから、この大勢の人達に、それぞれ手当をするのであるが、私には大変心配な事が有った。

それは、「雷」は昨年十一月九日、吸収の佐伯湾出航以来約四ヶ月、その間、海戦を交え、あるいは哨戒に、船団護衛に明け暮れ、一度も上陸した事がない。

狭い艦内で生鮮食料品にも事欠き、乗員は神経質になり、ちょっとした事にもカッとなりやすく、心が荒んでいた。

昨日まで戦っていた敵国将兵に対して、勝者としての誇りを持ってつらく当たる事はないか、いわゆる捕虜虐待をしないだろうかという不安である。

しかし救護作業は開始され、もうそんな注意を与える事は出来ない。 私は長い甲板の両側を縫うようにして見回った。

ところが、私の心配は間もなく消え失せた。 私の部下は、その太い腕でぎこちなく白布にアルコールを浸し、重油でべっとりと汚れている英将兵の体を拭っている者、傷の手当をしている者、

疲れ切っている者に飲み物を与えている者、等々、いずれも弱者に対する憐れみの情が、ありありと見える。

性格が粗暴で喧嘩早い年長の水兵が数名おり、この者たちが乱暴な事をしないかと特に注目していた。

ところが驚いた事に、彼らはまるで人が変わったように、他の者以上に英兵達を優しくいたわっているではないか。 相手が敵国軍人であるという意識なぞ毛頭感じられない。

私はこの光景を見て心を打たれ、目頭が熱くなり、感動のあまり、甲板に立ちつくした事が今もありありと記憶に甦がえって来る。

あとで英将兵は、「雷」が近づいた時、機関銃で皆殺しにされるのではないかと思ったと語っていたが、それがこんなに優しく手当てされるとは思ってもいなかったようであった。

サムエル卿はこの時のことを、

「前甲板に日除けの天幕が急造され、煙草も支給された、聖書にある奇跡ではないかと思われる光景で、乗員全員に食事と飲み物を支給してくれた」と書いてある。

しばらくして私は、砲術士官の「サムエル中尉」を自室に招き、くつろいで、いろいろと話し合ったが、この戦争が終わって、再び会うことが出来るだろうかと思った。

その時の横顔が、今も目に焼き付いている。

英国将兵は、一夜、「雷」に宿泊し、翌日、病院船に移乗していった。 サムエル中尉は、何度も振り返り、手を振りながら去っていった。

私はその後ろ姿に対して、「いつまでも無事でいてくれよ」との願いをこめて見送った。

それから45年。

1987年、『プロシーデングス』誌のサムエル卿の手記『騎士道』を、奇しくも発見し、夢ではないかと驚いた。

しかも、戦後、英外務省に勤め、この功績により貴族に列せられたという。

私は、早速、防衛庁を通じて、卿の住所を探してもらった。 卿は、奥さんの故郷の関係上、スウエーデンに住んでおられることがわかり、早速、手紙を出すと、折り返し、卿より返事が有った。

1987.7.13

親愛なる田上俊三様、素晴らしい御手紙有難うございました。 私は命有るかぎり、この手紙を宝物といたします。

私が今日生きていられるのは、あなたの艦長はじめ、乗組員の皆様の御蔭であります。

私は当時、駆逐艦「エンカウンター」の砲術科士官でありました。

「雷」に救助された時の御好意、ご厚情に対して、深く感謝申し上げます。

それは45年も前のことでありましたが、私はあなたが覚えておられる士官であると思います。 私も年齢二十三歳でありました。

私は戦後、英外務省、ヨーロッパ委員会(E.C)に勤務、退官後はスウエーデンの森で平和に暮らしております。

あなたにすぐに御目にかかりたいのですが、今のところ、日本訪問がかなえられそうもありません。 もし、あなたがヨーロッパに来られるのならば、いつでも歓迎いたします。

私は外交官として日本勤務がなかったので、日本語が出来ないのが残念です。

しかし、貴国と我が国が、再び、友好関係を結んだことはまことに喜びに耐えません。 我々はお互いに敵になるべきではなかったのです。

あなたとあなたのご家族そしてあなたの御国に対して御多幸を祈ります。

サムエル. フォール

この手紙に対して、私は、「明年、妻とともに訪欧する」旨の返事を出して、早速、妻と英会話の特訓を開始し、訪欧準備に入った。

翌1988年6月19日、稚内空港を出発、訪欧の途についた。

6月20日朝、デンマークのコペンハーゲン空港に到着、パスポートの点検を終わり、おそるおそるゲートを出た。 背の高い英国人らしい人が近つく瞬間、「サムエル卿」と直感した。

ものも言わず、肩を寄せ合い、固い固い握手。 46年の風雪はお互いの顔をすっかり変えているが、心と心は通い合う、46年と云う年月を、この一瞬に凝縮して、夢に夢見る心地、

我に返りはじめて、「ハウ.アー.ユー」といったように記憶している。

この時の写真は、取材に来ていた北海道新聞ロンドン特派員により、北海道とロンドンに送られ、北海道新聞とロンドンのデイリー.テレグラフ紙に掲載された。

それからスウェーデンに渡り、サムエル卿の御家族や親戚の方々の家に宿泊し、六日間、家族ぐるみの大歓迎を受けた。

スウェーデンの各新聞は、一面トップ記事で報道した。 また、ストックホルムでは、日本大使館の昼食会に招かれる光栄に浴した。

第二次大戦中、日本は、中国、ビルマ戦線その他で、幾度か残虐行為を行ったと指摘され、日本人は野蛮人のごとくに思われているのはまことに残念である。

それがそのまま、日本の歴史の一頁として、子孫に伝承してゆくのは忍び難いことである。

私どもは、小学校時代、「日本人は物のあわれを知る民族である」あるいは「日本は東海の君子国と言われる」と教えられ、日本人として生まれたことを誇りとして育った。

日清、日露の戦争においては、海にも陸にも多くの美談がある。 だが、第二次大戦には、美談はほとんど聞かれない。

日本の心はなくなってしまったのかと心配する人が少なくないと思う。

近代戦においては、戦いの様相が一変し、美談の生まれにくくなったことは事実である。

だが、第二次大戦においても、世に伝えたいほどの話は幾つもあることを私は知っている。

だが、長期間にわたる戦争が敗戦に終わり、各艦の幹部がほとんど戦死してしまったので、そうした話を証言出来る人がいなくなってしまったのはまことに残念である。

我が国は四季の変化がはっきりし、四季折々の花が咲き、鳥がうたう美しい風土に恵まれている。

この中で生をうけて来た日本人は、本来、心の美しい優しい民族であることを、内外の人々によく知ってもらいたいと思う。

そして、その事実を歴史の上に残して、子々孫々に伝承してゆきたいと希求してやまない。