9 双子の宇宙 ブラックホールは存在しない

本書のようなものを書くのは、まったくわたしの手に余ることだ。様々な展開を見せ、調査の対象となり、事件の引き金となった2000通にも及ぶ書類の束を、どうしたら一冊の本に

まとめることができようか? ごく一部にスポットを当てて、いくつかのエピソードや科学的な側面の解明を試みる以外にない。

科学の面においては、専門家しか分からないようなこみいった話をしなければ、突っこんだことを言うのは難しい。

それでもせめて理論物理学におけるわたしの個人的な体験と、宇宙論の領域で完成させることのできた研究※1について話してみたい。

1976年にスペインから持ちこまれた手紙の束の中には、1962年にセスマが受け取ったものがあり、そこに宇宙に関する前代未聞の記述が見つかった。

宇宙は一つではなく二つであり、二枚の薄い層状になっているらしいのだ。セスマの本から正確な引用をしておこう。

『ただ一つの宇宙(われわれの宇宙)があるのではなく、ペアになった宇宙が数限りなく存在するのだ。宇宙の生成にもやはり二重性がある。ペアになったA、Bの二つの要素の相違は、

それぞれの原子構造が電荷の記号によって異なることによって生じたものである(あなたがたはそれを誤って物質と反物質というふうに呼んでいるが)。

従って双子の宇宙は存在する。

ただし、

(1)宇宙の原子の中では、膜は陽電子(ポジトロン) でできており、これは原子核の周囲の軌道を運動している反陽子によって維持される。

(2)二つの宇宙は絶対に接触する可能性はない。両者を分離する次元関係が存在しないのだから、出会いの可能性を考えるのは無意味である

(何光年離れているかとか、両者の存在は時間的には同時だなどというのは無意味である)。

(3)二つの宇宙は同じ※2質量であり、マイナス曲率の超球に相当する半径も同じである。

(4)しかし二つの宇宙にはそれぞれに判然とした個別性がある(すなわちわれわれのペア宇宙にある銀河の数は同じではないし、その構造もそれぞれの宇宙で異なっているのだ)。

したがって双子の惑星ウンモとか地球がもうひとつ存在するのだと想像するかもしれないが、そういうことはない。

この結論は最終的なものであり、さしあたっての仮定などというものではない。その理由は後述する。

(5)ペアになった二つの宇宙は同時に創造されたが、時の流れの方向も同じだとは考えるべきではない。つまりこの宇宙がわれわれの宇宙と時間の中で共存しているとか、

以前に存在していたとか、今後存在するだろうなどと言うことは、非論理的なのだ。

それは存在するが、「今」でも「今後」でも「以前」にでもないとのみ言うのが正しい。ただし進化が一段進めば、われわれの宇宙と並存し、同一なものとなるだろう。

複数の宇宙に存在する数限りないペアとなった宇宙についても、同じことである。複数の宇宙のイメージが一個の宇宙と似ている(宇宙空間の意味)ことも、やはりあり得ない

のである。

この一個の宇宙では、銀河は広大な海を漂う島のように移動するが、ただこの海が多次元の球体であり、少なくともこの球体にまつわる銀河間の距離や、銀河間の空間に充満する

星間ガスについて語り得ることはある。

ところがWAAMWAAM(複数の宇宙空間)のことを想像するのは、なにしろペアになった宇宙が虚無の中に沈みこんでいるので、それよりもはるかに困難である。

距離が存在すると言いながら、その距離がゼロだと想像しても何にもならない。そのようなイメージは錯覚にすぎない。

われわれの親子の相手の宇宙は、空間=時間の関係で結び合わされているわけではないのに、われわれのほうに一定の影響を及ぼしている。

この影響を分析したおかげでこそ、われわれはこのもうひとつの宇宙の存在を推定することができたのである』

まったく不思議なことばかりだ。時の流れる方向がいかにして逆転しうるのだろうか? だがこの手紙には重大な点がひとつ抜け落ちていた。

わたしはそれを「宇宙のコンセプトをめぐつて」というタイトルの別の手紙の中で見つけたのである。

こちらの手紙には、二層の宇宙は左右対称形、つまり鏡の向こうとこちら側の関係なのだと明確に表現されている。この情報はその後重大な意味を帯びることになる。

わたしはフランス・アカデミー会員アンドレ・リクネログィツチ氏の世話で、パリ科学アカデミー報告に「時間の流れが正反対になっている左右対称の宇宙」というタイトルの論文を

公表した。

この種のモデルを提示したのはわたしが最初で唯一人だと思っていた。

ところが1984年にアントロポ社から出た著書の中で、アンドレイ・サハロフ※3が似たような研究を発表しているのを知ったときの、わたしの驚いたこと驚いたこと。

ユミットのこの膨大な書類のいくつかの側面に触れるうちに、わたしには単に時間の流れに沿って論旨を追うことができなくなってしまった。

宇宙論に限って言えば、この最初の突破口が開かれて後、ペアとなった宇宙という仮説は、だれもこの研究に反応しなかったせいで、七年もの間埋もれたままになっていた。

科学の世界では、強力な党派による共同研究の恩恵に浴する人は別として、これはごくごく普通のことではある。

わたしは何年もの間、これらの手紙を手つかずのまま放っておいた。

だからノーベル賞の研究が載った前述の本の中に、時間が逆方向に流れる双子の宇宙のヴィジョンが延々と展開されていることを知って、かなり驚いた。

この本でもサハロフの関心は、もっぱらわれわれの宇宙に反物質は存在しないことを論証することに向けられているのだ。

この反物質は、1962年にセスマがマドリッドで受け取った手紙によれば、双子の宇宙の中にある。サハロフはこの点について10年はわたしょり進んでいた。

このテーマに関する彼の最初の論文は、1967年に発表されているのである。

わたしはこの人物と議論してみたくて死にそうなほどだったが、彼と接触する手段はまったくなかった。

それでもわたしは1097年には別の口実を見つけてモスクワ入りを果たした。この機会に彼の勤務している研究所とコンタクトを取って、何とか会ってもらおうとしてみた。

だがついていない時はついていないものだ。

当時彼はジャーナリストたちに追い回され、ベレストロイカに参加して心身ともに疲れ果てたため、少しばかり休暇を取ってしまっていた。

そして茶目っ気たっぷりに、長の年月幽閉されていたゴーリキーの地に、またわざわざ出掛けていったのである。同僚たちには別れ際にこう言い残したそうだ。

「あっちじゃみんなぼくの知り合いだし、やっぱり暮らしやすいから」

わたしはそれでも、同じ研究所の所員であるリンデ※4に会うことができた。当時の彼は今ほど有名な人物ではなかった。

わたしが具体的には何をしたかったかというと、ひょっとしたら彼の研究の進度を遅らせることになるかもしれないような補足的な情報ではあるが、二つの宇宙の間の左右対称性

という発想を、サハロフに伝えておきたかったのである。

「でもサハロフからそんな考えを聞いたことは、一度もありませんよ」と、リンデは声を大きくした。

「あなたが彼に会えないのは残念ですな。彼はきっとすごく興味を持ってくれたでしょうに」

リンデはわたしが何者か知りたかったに違いない。わたしは七年前に科学アカデミーから出した双子構造に関する二点の論文を彼に見せた。

思うにわたしはこの男の人生を亡霊か何かのように駆け抜けたに違いないし、彼はホテルの部屋のドアを閉めたとたんに、わたしのことなぞきれいさっぱり忘れてしまったはずだ。

サハロフはその後ほどなくして亡くなった。

わたしは大切な質問をする機会を、つまり彼は一人でこのアイデアを思いついたのか、それとも、いわゆる異界の情報を利用したのかどうか、尋ねる機会を永久に失ってしまった

のである。これは第三者の居ないところで、当人に面と向かってでしか聞けないような質問である。

サハロフが、単なる手紙によるものだとしてもE.T.の文明との接触にかかわっていたと想像するのは、何としても行き過ぎだし、性急に過ぎるというものではあるまいか。

サハロフの記念論文集には、どこか私を惹きつけるものがあった。この本には1975年、ストックホルムでエレーナ・ボナーによって代読された、彼のノーベル平和賞受賞演説の

全文が掲載されており、次のような箇所が見いだされるのだ。

「惑星や銀河間の空間に関する研究は、地球外文明から発信される信号の探知を含め、中断するわけにはいかない。この種の実験が成功の栄に浴する可能性は乏しいに違いないが、

得られた結果はきわめて重要なものと評価される可能性もある」

演説のしめくくりの部分はもっと強い印象を与えるものだ。

「数千年前、人類は生存のための闘争において、大いなる欠乏に苦しんでいた。当時は棍棒を使いこなすのもさることながら、知的思考能力を持ち、部族に蓄積された知識や経験

を活用し、他の部族との協力関係の基礎となる絆を広げていくことが大切であった。

今日では人類はそれと似たような試練に立ち向かわねばならない。もしかすると無限の宇宙には複数の文明が存在するし、その中にはわれわれの社会よりも賢明でもっと『高性能の』

社会があることも考えられる。

わたしとしては宇宙は無限に反復を繰り返しながら、成長していくのだという仮説を支持している。

もっと『高性能な』文明を含め、地球の文明以外の他の文明は宇宙という書物の『次のページ』もしくは『前のページ』に、数限りない回数記載されているのだ」

演説は全部で15ページに及んでいる。サハロフならこの種の論文では、もっとも重要な考えは結論の部分で集中的に述べるはずだ。

誰が発見したわけでもないのに、E.T.との接触の可能性にこんなふうに唐突に触れるとはいったいどうしたことか。

サハロフはひょっとして、ユミットのとてつもない手紙の作成に加担していたのだろうか? 彼の「回想録」を読み、苦難に満ちたその生涯を辿ってみると、自分でも滑稽だと

思うかもしれないようなことに進んで参加するような人だとは想像し難いのだが。

それに彼はなぜ自分では活用しょうともせずにこの左右対称性という、実り豊かな発想をそのまま公表したりしたのだろうか?

ふつう科学者というものはこんなグロテスクな冗談に興じたりしないし、そのうえ、自分でも利用できそうな情報を29年もの長きにわたって、彼らの書くことを理解するほどの

科学的素養を持ち合わせていない一握りの人たちに流して人の心をむやみにくすぐつったりはしないものだ。

とはいうものの、わたしはこの宇宙論に関するユミットの手紙を読まなかったとしたら、このような方向で研究することなぞ絶対になかっただろうと思う。

時の流れを逆転させるなどという狂気じみたアイデアを、ひとりで思いつくわけがない。

サハロフの死後、このアイデアは再び忘れ去られてしまった。

数学者のジャン=マリー・スリオーが理論物理学の偉大なるデザイナーと呼んだ人たちは、超ひも理論※5とかインフレ宇宙※6とかを持ち出して、

われわれの知識を別な方向に展開させている。

はたしてサハロフは手紙を読んだのだろうか? それは誰にも分からない。

ただ、ユミットの手紙には、ソ連の科学者集団にある種の情報を提供したところ、そのうちの一人がそれを具体化して自分の名前で発表したという記述も見いだされるのである。

この20年来、スペインでは主として実業家のラファエル・ファリオルスによって組織された、ユミットをテーマにした学会が数回開催されている。

会議の目的は、一般の人に情報を広めることではなく、本当は 「情報源」があまり長いこと沈獣…している時に、接触者たちが集まって働きかけをすることなのだ。

この会議が質、量ともに極めて重要な情報を公開する機会となったこともやはり事実である。

アギール医師の世話で数百ページが印字され※7、コピーされ、高い値段で売りに出され、金さえ出せば誰でも買えるようになったのである。

わたしも二度ほどこの種の会合に出席したことがある。1979年のアリカント会議には100人ほどの人が集まったが、乱雑なお祭り騒ぎに近いものであった。

ジャーナリストが大勢つめかけるなか、主たる接触者があちこちでくり返しインタヴユーに応じ続けるのだった。

会議の幕が閉じて数日後には、やはり手紙が舞いこんだ。ユミットたちは公開を旨とするこの学会の初日にやってきて、ほんの20分ほどの合間にあちこちの会場に超小型システムを

備え付けたというのである。 興味ある発言者には、セロテープでこれを貼り付けて話の内容を録音した。

このシステムは寸法といい外形といい「グラファイトの薄片」と間違ってしまいそうなものであった。寸法もきちんと記されている。

ユミットのマイク送信機は幅一・五ミリ、厚さ〇・五ミリである。講演会場にはセンチ単位の、もっと大がかりな情報収集装置がつけられた。

そしてこういった小道具は、翌日にはまんまと回収されてしまったのである。接触者たちの話の内容のレベルはあまり感心したものではなかったそうだ。

そして自分たちの手紙のおかげで、中には信仰に走ったり、宗派に帰依するのと同じような心情に陥る者が出てしまって、この小さな集団にとってはかえって逆効果を招いてしまった

というのである。接触者たちは大目玉を食らったことになる。

だがそもそも彼らを選んだのは、指導者のほうではなかったのか・・・。

二回目の会議はもっと内輪なもので、マドリッドで開かれた。わたしはパストールと一緒に出かけていった。

マドリッド・グループが研究成果を発表しており、ドミングスは宇宙論について黒板を使って説明していた。

取り上げられた資料にしろ、示されたデータにしろ、とくに目新しいものはなかった。宇宙がマイナス曲率の超球体であることくらい、先刻承知である。

なにしろわたしは多くの科学者と同じように、マイナス曲率の宇宙は必然的に開放されており、無限のものだと思っていたので、この考えには1978年以来悩まされてきたのだ。

ところが数学者サーストンの研究によればそうではなくて、マイナス曲率の宇宙が閉じられたものである可能性が明確になったのである。

ユミットの言う「複数の宇宙」は、ペアになった無数の宇宙によって構成され、どのペアも光速度Cの固有の数値によって定義されるはずだ。

このようなヴィジョンが確立するには、光速が何らかのかたちで変化することが前提となる。

粒子全体が任意の三次元の枠から別の枠に移行することも不可能ではない。

他の手紙では、物質=エネルギーはこの枠から別の枠へ移行しても、そのまま維持されるはずだと書かれている。

ついでに言うと、宇宙論にかかわる他の手紙を補足しっつ全体の鍵となっているこの情報は、プラズマ兵器に関する手紙に出てくるものだ。

これは著者がよくやる手で、ジグソーパズルのピースをあちこちに散らばせておこうという魂胆なのだろう。

マドリッドの会議で、ドミングスはこれ以上詳しいことには触れず、ユミットの手紙全体から、理解しやすいと思われる科学的データを抜き出して話を進めた。

その中にはR宇宙の曲率半径と光速度の方程式があった。

セスマのところに来た手紙には、曲率半径と光速度は逆比例するとある。宇宙が 「中心に向けて圧縮する」ときは、その中での光速度は無限に速いものとなるが、逆に無限に膨張を

続けるときは、光速度Cはゼロに近づくはずだと言うのだ。

わたしは静力学的考察にもとづいて、R Cの積は定数で表されるのではないかという考えを長い時間をかけて検討してきた。

ドミンゲスは、わたしの考えを受けてこう言うのである。 「いやいや、Rc^2=定数というのが正しい法則なんです」

わたしはそのときは非常にまごついてしまった。

この方程式はわたしが勝手に導入したのではなく、アインシュタインの場における光速度Cの可変性から数学的に導き出したものであり、本書の巻末資料にはその科学的プロセスが

説明されている。

わたしはこれを1987年に発見し、88年と89年に「モダンフィジツクスレターズAJ Modem Physics LettersAに三回に分けて連載した。

当時の編集長はジャン・オードウーズで、今ではミッテラン大統領の科学参事官の要職にある人物だ。

そして論文審査に当たったのは、もとマルセイユ=リユミニ理論物理学研究所所長で、マルセイユ大学理学部数学科教授、エクス・アン・プロヴァンス出身の数学者、

ジャン=マリー・スリオーであったが、彼には専門家として点が甘いという評判はとくになかった。

それにもし数学者か物理学者がこの研究について何か言いたいことがあるのなら、それを雑誌論文として発表してくれたらわたしとしても大いに有り難いと思う。

わたしはユミットの手紙の中にある数行の言葉

エネルギー保存のテーマや、Cの可変性ーから出発し、他の内容、ことに先ほどのRc^2=定数の法則がそこから生じていることを、そして唯一の解決はマイナス曲率の宇宙であること

を発見した。

これで半世紀も以前からの論議※8は、無効になってしまったわけである。

わたしが主張したいのは、これほど制約の多いデータを無作為に抽出して、数学的に一貫したひとつのものに配列しても、まったく無意味だということだ。

アインシュタインのいわゆる場の方程式にもとづく一般相対性理論は、複雑きわまりない数学の組み合わせでしか開かない金庫のようなものだ。

アインシュタインやロバートソンやウォーカーのような人たちは、いくつかの解がある方程式に、それなりの数値をもたらしてくれた。

つまりこの金庫にはさまざまな組み合わせがあり、それが宇宙の多様の局面を記述していることになる。

金庫を開ける数字の組み合わせは、最終的にはロシアのフリードマンが発見した。

現代の宇宙論はどれもみな1921年に突如として現れたこの解をめぐるものでしかない。

わたしはユミットからの情報をもとにして別の解を見つけることができたが、これもまったく同じように有効であり、数学的にもしっかりしているし、観測されたところとも符合する。

そのうえクエーサー※9の神秘的な現象に対しても、これが解決の糸口となるのだ。

この手紙は誰の手になるものにせよ、著者が自分の語ることの意味を理解できていないはずはない。

前に述べたように一人の科学者が、たとえCIAの応援を得たとしても、これほどまでに強力で一貫した情報を、自分で活用もせずに29年もの長きにわたって宝探しゲームみたいに

小出しにしてきたとはとうてい考えられないのである。

わたしはユミットの手紙で何かを知り、メモを取るその度に、熟慮してみることにしていた。1977年に双子の宇宙というテーマにぶつかったとき、これは面白いぞと思って

着手したのがわたしの初仕事となった。

その次は1987年から88年にかけて、光速度の可変性に関するパズルのピースを、突然の閃きでひとまとまりに組み合わせたことだ。

そして残るのはブラックホールについての衝撃的なひと言であった。

ドミングスは、ユミットと直接電話で話ができるようになっていた。ルウが耳打ちしてくれたことだが、ある時、ドミングスはふと相手にこう尋ねたそうである。

「ところでブラックホールって何ですか?」

相手はすぐさま答えたそうだ。

「そんなものは存在しません。中性子星の安定度が限界に達すると内側に破裂して、その質量は双子構造の中へ移送されることになります」

これはまさに、長年にわたって人口に胎灸してきたどの宇宙論にも逆行するものではないか。

この点については巻末の科学論文の中でもう一度論じることにするが、わたしの′頭の中ではこの言葉がぐるぐる回りはじめた。

わたしはパリの宇宙理論重力研究所所長である、ある研究者のインタヴユーを思いだす。

「ブラックホールが存在するという確たる証拠は今のところありませんが、今日ではその存在を疑っているような人は誰もいません」と彼は言っていた。

わたしはブラックホールというようなモデルには納得できない人たちの仲間入りをさせてもらった。 数学的に言えば、これはまさしく妄想なのだ。

フランスの宇宙物理学者、ジャン・エドマンはたしかこう言っていたはずだ。

「ブラックホールを話題にするのなら、良識はクロークに預けておかねばならん」わたしには彼の言うことが正しいかどうかは分からない。

※1 科学を熱烈に信奉する人は、以下の二つの資料でさらに詳しい情報を得られよう。まず初めにわたしの著書、『UFOに関する調査』に掲載されたかなり詳細な科学資料であり、

第二にはブレザンス書店刊の『クロノロジコン』「Le Chrono-logiconという写真集にある、このゲージ宇宙論モデルの大衆向けで分かりやすい記述である

(この本は、04200Saint-Vincnt-Sur-Jabron,editions Presence宛に55フラン送金すれば入手可能である)。

プロの科学者なら、本書の巻末資料にある、ある意味では「証拠物件」と言える、「モダンフィジツクスレターズA」に発表された論文を読んでもらえればよい。

※2 他の手紙にはこの質量が、絶対値は同じで符号が異なるとされている。

※3 旧ソ連の ″水爆の父″ といわれた科学者で、反体制運動の指導者。80年1月、それまで与えられた称号と勲章を剥奪されたうえ、ゴーリキー市へ国内追放された。

86年、流刑解除となり学究生活を再開。89年には人民代議員大会に選出されたが、同年12月に死去。

※4 東京大学理学部教授の佐藤勝彦氏やアラン・ブースによって提案されたインフレーション宇宙のモデルを発展させて「カオス的インフレ」という考えを提唱したロシアの学者。

※5 大きさのない「点概念」中心の物理学に、大きさのある「ひも」を導入したもの。時空は10次元になり、量子重力理論の計算に無限大があらわれない。

「超」というのは、素粒子のフェルミオンとボソンの間に対称性がある、という意味。

※6 宇宙の初期に、急激な膨張(インフレ)があったという説。これにより、なぜ宇宙が平坦なのか、なぜ宇宙が大きなスケールで均一なのか、といったビッグバン宇宙論の問畏点

が解決される。ただし、具体的なモデル構築には決定打が出ていないのが現状。

※7 最初の地球滞在の手紙は、ここから採られている。

※8 もっぱらひとつの解、というよりもソ連のフリードマンが1921年にもたらした三種の解に基づいた、古典的宇宙論の論議の中心テーマのひとつは、時空の曲率に関する

ものである。フリードマン以来、この曲率がプラスなのか、マイナスなのか、ゼロなのかをめぐつて、観測の結果から答えを割り出そうと研究者の努力が続けられて来た。

ユミットの手紙から引き出された考え方に従えば、場の方程式の解は、マイナス曲率の解のひとつでしかない。

※9 準恒星状天体の略称で、準星ともいう。きわめて遠方にあって強い電波をだす星雲。1963年に発見された。