09-031 私を泣かせて

第9集 私を泣かせて。 青山晴美 昭和30年生まれ(愛知県) 短大助教授

ニューヨークのツインタワーの事件以来、私はずーと白を着ている。 白は降伏の色、戦いに反対するささやかな自己表明だ。

私は、あるとき、自分の人生において、すべての物事や人と争うということを手放そうと思い至った。

それ以来、憎しみや怒りがわき上がった時、いつでも胸に手をあて、自分の本質が『愛』であることを思い出す。

人は誰でも沢山の悲しみや苦しみに出逢うだろうが、私にも身近な人に裏切られ、喪失感に苦しんだ経験が有る。

悲しみは怒りの炎になり、憎しみはますます増大し、次第に手に負えなくなっていった。

朝起きると歯が痛い。 裏切られたことへの悔しさで、寝ている間もずっと歯を食いしばっていたからだ。

むくみもまた酷かった。 身体中の何かが流れに逆らい、循環機能がマヒしている様だった。 まるで怒りという固まりが、身体の流れの前に強固に立ちふさがっている様だった。

そんなある日、旅に出た。 行き先は新穂高。

ロープウエーで頂上の展望台まで登った私は、あまりの神々しさに呆然とした。

360度の白銀の世界が、何処までも澄み切った青い空を背景に浮かび上がっていた。 涙がとめどもなく頬を伝わった。

私はうずくまりながら肩をふるわせて泣いた。 怒りと憎しみの正体は悲しみだったことを知った。

身体中に巣食っていた悲しみが嗚咽となって喉から溢れ出た。

「私にはもう悲しみはない」 ふいに、言葉が口からこぼれた。

そして、言葉は続いた。「自然と一体化しなさい、もう悲しみはありません」 私には、その言葉が山の神々からの物だと思えた。

それが癒しの扉の前にたった瞬間だった。 それから二年間、「自然と一体化する」とは何かを問いながら、自分を癒すことに多くの時間とエネルギーを費やした。

静寂の中に自分を置き、自分を見つめる時をもうけた。 深い呼吸に意識を集中させ、めまぐるしく変わる心の動きや、その動きに順応する身体の状態をあるがままに受け止めた。

内蔵の声を聞き、その微妙な反応にまで注意を傾けた。 憎しみや怒りを思うと、身体が硬直した。

愛や慈悲を心に抱くと、体全体の筋肉が緩み、口元からも自然に笑みがこぼれた。

私は、ここで、許すということを学んだのである。 誰のためでもなく、自分の為に、自分を傷つけた人を許すことを。

憎しみや怒りを心に抱くことが、どんなに自分の心と身体を蝕んでいたかが分かり、自分自身に申し訳なく思った。

人を憎みことは結局、自分を傷つけるということを学んだのである。

心に憎しみや怒りが浮かんだ時には、それが呼吸とともに自分の体内から出てゆくことをイメージした。

すべてのネガテブな感情は対外へと追い出され、愛の光のシャワーが体の隅々まで行き渡るのを想像した。

他人への憎しみのベールがはがれていくうちに、私はあることに気が付いた。 自分が誰よりも自分を許してないことにである。

人を許せない根源は、欠点だらけの自分を許せないことにあった。 あるがままの自分を認めた時に、心の中に感情のほとばしりがあった。

とめどもなく押し寄せる感情の波に、ただ自分をまかせた。 そしてふりしぼるように泣いた。

私を泣かせて。

それは魂が自由になるための道しるべだったと思う。

穂高の山で聞いた、自然と一体化することの意味がやっと理解出来た。

自然と一体化することは自然にゆだねることなのだ。 悲しみや苦しみが心にやってきた時も、それをあるがままの感情として受け止め、戦い、抵抗することを手放したのである。

悲しみも苦しみも、憎しみや怒りに変身しなければ他人を傷つけることもないし、自分をむしばむこともない。

心が何時も花園ならば、やってきたネガテブな感情も、春の光の中に溶けてゆくのだろう。

私は、自分と戦うことを手放した。

他人と争うことを手放した。

悲しみや苦しみに抵抗することを止めた。

抵抗を失ったこうした感情は、しばらく心の中にいた後、自然に体外に排出されていった。 怒りと憎しみの固まりになる前にである。

今、世界では戦争が始まった。 神の名のもとに、あるいは、報復という名目のもとで殺し合いが続いている。

どんな争いも神が望まれるとは思わない。 神は愛なのだから。 そして、人の本質もまた愛なのだから。

悲しみを戦いでしか表せない人、悲しみを怒りでしか表せない人に捧げたい。

今、戦いを手放し、傷ついた自分を癒すことに向かいませんかという言葉を。 心の安らぎを得ること、それが一番大切なことなのだから。