第11章 これからどうする?
第11章 これからどうする?
オークリッジ国立研究所は半世紀以上にわたって、研究用ないしは医学用に放射性同位元素の販売を行ってきました。
アドレスwww.isotopes@ornl.govにおいて、販売している同位元素の種類とその販売内容の記述がなされています。価格は時価ですから、電話で問合せないといけません(下記リスト)。
私はプルトニウム239の値段を調べてみようと思いました。
1944年春に、オークリッジにあったクリントン原子炉からロスアラモス研究所に届いたプルトニウムの最初のひと口は半グラムであったことを思い出してください。
当時ミリグラム単位で買っても、百万ドルのオーダーにはなったはずです。
電話に出たのは、価格表を持っていたオークリッジの非常に快い男でした。彼は、現行価格はミリグラム当たり5.24ドルだと言いました。
ここで、私はウラン235については開きませんでした。原爆材料になり得る2種類の価格などを問い合わせたりすると警戒されると思ったのですが、実は数年前私の同僚が開いたところでは、
1グラム当たり57ドルとの答を得たそうです(注1)。
ウランがどのような形で納入されるのか私は知りませんが、.その値段で鉄砲方式の原爆を1個造るのに必要な金額は約240万ドルになるでしょう。
私の推測では、もしあなたがそんな量を注文したら、連邦捜査局(FBI)の親しみやすそうな係官からの訪問を受けることうけあいです。
∂相プルトニウムのむきだしの臨界質量だけの重さは15キログラムです。ここで「むきだしの」というのは、爆弾をたとえばウランタンバーを加えて改良しないという意味ですが、
このタンバーは付加的な中性子を発生させて核分裂を促進し、また爆発する材料の膨張を抑えるものです。
原爆中での核爆発を停止させるのは材料の膨張で、それによって密度が低くなって核分裂のための平均自由行程が連鎖反応を継続させるには長すぎるようになるのです。
これはウランやプルトニウム全体が核分裂してしまうずっと前に起こるのです。実際、広島での原爆では原爆材料の98%、長崎のものでは80%は核分裂しませんでした。
ついでに言いますと、核爆弾の大気中爆発実験をすべて計算して、10,000キログラムのプルトニウムが大気中に放出されたと推定されています。
プルトニウム239の価格表での値段でむきだしの臨界質量だけ買うのには、1億5千万ドルかかることになります。
また、輸送費がミリグラム当たり数千ドルかかると言われましたし、どれだけの量であっても政府からの許可証が必要です。
ウラン235
同位元素 235u
半減期/娘元素 7.04×108年/トリウム231
主たる放射線 アルファ線一エネルギー4.39MeV
性状 酸化物
放射能 ~2.16〃Ci/g
放射能純度 >98%
製造法
原料 天然ウラン
処理法 天然ウランの電磁場分離
配布
送付法 非返還または返還容器に入れたガラス瓶
入手可能性 ストックあり。核物質と規定され、移送文書を要す(DOE/NRC様式741)
販売単位 ミリグラム
備考:
量による値引き可能。現行の値引き価格については電話にて問い合わせのこと。
問合せ先 オークリッジ国立研究所
図17 注文者向けに作られたオークリッジ国立研究所の情報:ウラン235とプルトニウム239(credit:WWW.Ornl.gov/sci/isotopes/catalog/html.)
プルトニウム239
同位元素 239pu
半減期/娘元素 24100年/ウラン235
主たる放射線 アルファ線-エネルギー5.15MeV
性状 酸化物紛未
放射能 ~61.3mCi/g(理論値)
放射能純度 99.00-99.99%
製造法
原料 ウラン238に中性子照射して得たプルトニウム同位元素を電磁場分離
処理法 超ウラン元素処理法
配布
送付法 非返還または返還容器
入手可能性 ストックあり。核物質と規定され、移送文書を要す(DOE/NRC様式741)
販売単位 ミリグラム
備考:
量による値引き可能。現行の値引き価格については電話にて問い合わせのこと。
問合せ先 オークリッジ国立研究所 同位元素ビジネスオフィス 電話:(865)574-6984
ファックス:(865)574-6986 電子メール:isotopes@ornl.gov
オークリッジ国立研究所が売っているプルトニウム239は粉末状をしています。それを吸入するのは非常に危険です(注2)。
20ミリグラムを吸入すれば、繊維症によって1ケ月程度で死に至るとされています。1ミリグラムを吸入しても、確実に肺癌にかかります。
エネルギー省[訳注:業務の一環として、アメリカの薇爆弾の開発や試験も担当]は、プルトニウム作業者に対する空気中の最大許容濃度を1立方メートル当たり1グラムの1兆分の1と決めていますが、
これは無機鉛(普通の鉛化合物)に対する1立方メートル当たり1グラムの1千万分の1の許容値と比較してその微量さがわかります。
このことをさて置いても、粉末プルトニウムを金属状にするには、以前に述べましたような多数のステップを市販されている文献に従って繰り返す必要があります。
良いこととしては、オークリッジ研究所が販売している同位元素の純度が高いことで、プルトニウム239については99.00から99・99%の間の純度です。 これは超兵器級のプルトニウムです。
長崎に投下されたプルトニウムもほぼこの純度のものでしたが、それは必要な量が得られるとすぐに原子炉から取り出されたからでした。
兵器級のプルトニウムと言えば、原爆に関してそれのみが、すなわち原子炉級ではないもののみが核拡散に脅威になると思うのは実体化の誤りであること、
すなわちあるものの名前と実際のそのものとを混同している過誤を犯していることになります。
以前に述べたことの繰り返しになりますが、兵器級のプルトニウムはプルトニウム240を7%以上は含んではいけません。
しかし、この同位元素以外にも、他のいくつかももっと少ない割合でしか含めないのです。いくつかの例を示せば、わかりやすいでしょう。少量のプルトニウム238、241、および242が含まれています。
これらの同位元素について、以下にプルトニウム240とともに述べましょう。
これらはすべて放射性です。 プルトニウム238、239、240、および242は異なる半減期でアルファ粒子を放出します。
その半減期は、プルトニウム238の88年からプルトニウム242の376000年までの間にあります。
プルトニウム238、240、および242はかなりの程度の自発の積分裂を生じますが、それは中性子を発生して爆発的連鎖反応以前に前駆爆発を起こさせる可能性があります。
他方、多分これはびっくりすることで理解しておいたほうが良いことですが、これらすべての同位元素の核分裂断面積はウラン235より大きいのです。
実際、プルトニウム238の核分裂断面積はプルトニウム239より大きいのです(注3)。
このことから、これら同位元素の多くが自発的に核分裂しますが、コストと効率こそ違え、そのどれから、またはどのような組合せでも原理的には原子爆弾を造ることができるのです。
プルトニウム238に関連しては、人工衛星のための有益なエネルギー源になるそれからの放射能は、同時に多量の熱を発生します。
プルトニウム爆弾を80%以上のプルトニウム238を含む材料で造ったとすると、その材料を溶かしてしまうでしょう。
とは言え、∂相プルトニウムのむきだしの臨界質量は僅か25キログラムであることを繰り返しておきましょう。他方、プルトニウム242の臨界質量は177キログラムと評価されているのです。
原子炉級プルトニウムはこれら核分裂性同位元素の混合物なのです。
典型的な軽水炉をしばらく運転後には、そこで生じたプルトニウム同位元素の混合物は、プロトニウム239が40%、プルトニウム240が30%、およびプルトニウム241と242がそれぞれ15%である
と考えられます(注4)。プルトニウム238もこれらより少量存在しますが、それは原子炉をプルトニウムを抽出する前にかなりの時間運転した場合だけのことです。
このプルトニウム238の生成過程について言えば、まずウラン238が中性子を吸収してウラン239になり、それが中性子2個を放出してウラン237になったあと、
それがベータ崩壊によってネプツニウム237となり、それがさらに中性子を吸収してネプツニウム238となって、最後にそれがプルトニウム238になるのです。
明らかな国家安全上の理由から、試験された原子炉級プルトニウム爆弾の正確な同位元素構成は公表されていませんが、1977年に公表されたところでは、原子炉級プルトニウムを用いた原爆が
ネバダ州地下実験場で実験に成功しました。威力について公表されたのは、長崎または広島原爆の約20キロトンより小さかったということです。
ここで「成功した」というのは、核爆発が達成されたということを指すのでしょう。
この実験で奇妙なところは、プルトニウムの来歴です。原子力法1954では、アメリカの商用原子炉で造られたプルトニウムを兵器に用いてはならないとしています。
この実験に用いた原子炉級プルトニウムは、米英相互防衛合意1958に基づいてイギリスから供給されました。
このことから、通常の原子炉で造られたプルトニウムを原爆に利用できることが核拡散に及ぼし得る問題点は明らかです。
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ハンフォード実験場とロッキーフラツツ・プルトニウムプラントは、プルトニウムに関連して起こった悲惨さの化身とでも言うべきものです。
両方とも戦争、それは熱戦と冷戦でしたが、その危急の圧力下で建設されました。 ナチスドイツとの熱戦のことは言わずとも、ソ連との冷戦が終わった現在では、当時の精神構造を思い出すのは困難です。
ハンフォード実験場での原子炉に関わった人々のうちの典型的な2例は、ユージン・ウイグナーとジョン・ホイーラーです。
ウイグナーがシカゴ大学冶金学研究所にいた1943年12月に、彼は、一方ではドイツが原爆開発で自分たちより先んじていると信じ、他方では彼らが冶金学研究所の場所を知っていて爆撃するだろう、
との結論に達しました。 そこで、彼は自分の家族を市外に移住させました。
もう1人のホイーラーについては、私が彼にインタビューしたとき、彼は次のように言いました。
第一次世界大戦での経験から、私はわれわれが戦争の圏外におれるだろうとの間違った考えを持っていたが、そのように思ったのは不幸なことだった。
もし私がウイグナーやシラードと同じぐらいにわれわれが戦争にはまり込むことに確信を持っていたら、爆弾製造を始めるのにもっと力を注いだであろう。
大戦の後半には、1ケ月当たり概略50万人から100万人が死んでいったと思う。 戦争を1ケ月短縮するごとに50万人から100万人の人命を救えたはずで、その
中には私自身の兄弟も含まれていた。初めに誰かが原爆製造計画をもっと強力に進めていたら、どれほどの人命救助になっていたことか(注5)。
これら2つの場所が建設され運転されたのは、このような危機意識の強い状況下でした。
1943年1月に、グローブス将軍はワシントン州のコロンビア川沿いの大部分が農場だった670平方マイル[訳注:約1・700平方キロメーいレ]を接収しました。
土地を接収された人々は理由を告げられずに、もう一収穫だけの農作を許可されました(注6)。
グローブスは、自分が子供のときに魚釣りをした川に愛着を持っていました。 特に、彼は鮭(サーモン)に危害が及ぶことなどないよう心に誓っていました。
1943年から1945年までの建設計画は、約30,000人の労務者がかかわり、3億5千万ドルがかかりました。
その結果、386マイル[618km]の高速道路と158マイル[約253km]の鉄道が造られ、コンクリート780,000立方ヤード[約588,000立方m]が注ぎ込まれました。
それ以前には、このようなスケールの産業的なものが建設されたことはありませんし、特にそのような短時間になどなされた例はありません。
デュボン社がこの事業を監理しました。
1963年までに、9基のプルトニウム生産炉が建設されました。その最後の炉が1987年1月に閉鎖されるまでに、プルトニウム67.4トン(注7)(67,400kg)を製造し、そのうちの54.5トンは兵器級でした。
このプルトニウムからは、爆弾のための中心核35000個が造られたはずです。
これに加えて、1953年から1955年にかけて、サウスカロライナ州アイケン近郊のサバンナリバー実験場に5基の重水減速炉が建設されました。
1988年に閉鎖されるまでに、それら5基はプルトニウム36.1トンを製造しました。
グロープス将軍のコロンビア川とそこにいる鮭への懸念もあって、その両者への危害が及ばないようにかなりの努力がなされました。
プルトニウム製造炉の8基、そのうちの最後のものは1955年に運転を開始しましたが、それらはウイグナーによる冷却システムを採用していました。
コロンビア川からの水は配管を通じて炉の中心部を通過した後再び川に戻される、いわゆる一過冷却」方式を採っていました。
放射性同位元素が幾分か造られ、水は非常に高温になることは理解されていました。事実、水が炉を出たときの温度は2000F[930C]にもなっていました。
これらの問題を処理するために、保持プールが造られ、そこにしばらく貯めておいてから川に戻すようにされました。プールには2時間から6時間貯めておくように設計されていました。
川に放出するときには、水の温度はまだ川のそれより高く、またまだ減衰しきっていない放射性同位元素の残りがあるだろうことも認識されていました。
それでも、川に戻す水は環境基準に合致するものであると期待されていました。そうではなかったのですが、それには少なくとも2つの理由がありました。
冷戦時にはプルトニウム製造は非常に緊急と思われていましたので、放出水が保持プールに貯めておかれたのは20分にまで短縮されていました(注8)。
これ以外に、実際に造られた放射性物質についてどんなものが含まれているのか、誰も予想していませんでした。 第一に、冷却水に化学物質が含まれていました。
その一部は川にあったもので、また冷却系の配管を清浄に保つために加えられたものもありました。
たとえば、リンは中性子照射後に同位元素のリン32になりますが、そのリンの20%から40%は洗浄用の化学物質によるものでした。
リン32の半減期は14.3日で、人が多量にそれに曝されると骨癌にかかります。
ここで問題になる放射線量について理解するためには、放射能を測定する共通の単位キュリーについて知っておく必要があります。
もともとは、1キュリーはラジウム1グラムが1秒間に崩壊する数であって、その数は370億個です。
その後にキュリー夫人との込み入った交渉の結果、どの放射性同位元素の1秒間当たりの崩壊数が370億個のものも1キュリーとするとの一般的な定義がなされました。
この単位のイメージを得るために例を挙げますと、ウラン238の1ポンド[約0.45kg]は放射能0.00015キュリーですし、同位元素コバルト60の同量は518000キュリーです。
ハンフォード原子炉群から最終的に何キュリーに当たる種々の放射性同位元素が川に放出されたかの評価がなされました。
リン32についての評価値は約230,000キュリーでしたし、他方たとえば6,300,000キュリーのネプツニウム239が放出されました。
これらのいくらかは前述した化学物質の中性子照射によるものですが、多くは原子炉がより大量のプルトニウム製造をするように増力運転したときの燃料要素への応力によるものでした。
燃料要素の金属カバーがときどき裂けて、放射性燃料の1ポンド[約0.45kg]にもなるような塊が漏れ出し、川へ流されたのでした。
そのような事象が、8基の原子炉についてほぼ2,000回にも達して起こったと言われています。
これらすべてが結果的に、川で泳いだり、そこの水を飲んだり、そこで獲れた魚を食べた人々にはどの程度危険だったのでしょうか? 誰にもはっきりしたことはわかりません。
しかし、ハンフォード原子炉が運転中に、その下流での魚釣り、水泳、飲み水についての注意などしない方針が取られたのも事実です。人々をパニックに陥れるのが嫌われたのです。
これは気がかりなことのように見えますが、陸地で起こったことに比べれば無に等しいものでした。所詮、川は一旦汚染が止まれば、そのうちに自然に清浄に戻ります。
陸地でこのような自己回復が起こる可能性はありませんし、地下水が汚染されていてそれが川に漏れ出す懸念もありましたし、それは今もあります。
これは余りにも巨大なしかも情緒的な間邁ですので、それに正義をなすには、もし正義というものがなせたとしてのことですが、もう一冊別の本を書かないといけません。
ここでは、一般的な事情を説明するような年代記の抄録を示すだけにしましょう。
エネルギー省は1989年に、ハンフォード実験場に設けられた177個のタンクに蓄えられた5千4百万ガロン[約2億リットル]の放射性廃棄物のクリーン作戦をしようとしましたが、
その廃棄物の一部は当時漏洩していたのです。
その作戦は廃棄物の一部を固化しようとするものでしたが、1991年に放棄されました。その年になって、廃棄物をガラス化すること、すなわちタンクをガラス状にしてしまうとの提案がなされました。
その案の当初のものは2年後に放棄されましたが、それは廃棄物処理に時間がかかり過ぎることが原因でした。
エネルギー省は1995年にはその処理計画を民営化することとし、英国燃料公社との契約を結びました。 その契約は5年後に破棄され、ベタテル社を採用してガラス化のスピードアップが図られました。
ベタテル社とは43億ドルでの契約がなされ、2002年にはこの計画を2011年までに終わるための報奨金として契約金が58億ドルに増額されました。
2005年になって、2015年以前の終了は難しいとの評価がなされ、一部の作業は地震時の安全性への危惧から停止されました。
現在の評価では、クリーンアップ作戦は96億5千万ドルかかり、1年間に2300人相当のフルタイム技術者がかからなければならない、というものです。
いくらかの進展はなされています。 使用済み核燃料棒は貯蔵されていた保持池から取り出され、池の放射性泥は清浄化の途中です。
グロープス将軍は1970年に亡くなりましたので、この悲惨な状況についてのコメントを求めることができません。
ロッキーフラッツ・プルトニウムプラント(下の写真)は全く別の目的に用いられました。1950年に、トルーマン大統領は水素爆弾製造の突貫計画を命じました。
ロッキーフラッツはデンバーの北西16マイル[約26km]に位置してその面積384エーカー[約1.6平方km]ですが、生成したプルトニウム中心核を造るために設けられ、
それは当時まだ仮想的な段階にあった水素爆弾の引き金にするはずのものでした。 同時に、原爆計画の拡充もその大きな目的でした。
コロラド州ロッキーフラツツ(credit:U.S.Department of Energy.)
完成したプルトニウム中心核はテキサス州アマリロ近郊のエネルギー省パンテックス施設に運ばれて最終組み立てが行われました。
1994年現在で、その施設は約6000個の中心核を収容していました。 今はもっとありますが、その一部は33年前のものです。中心核は内側と外側両方から古びてきます(図18)。
外側は化学的な腐食を受けますし、内側は放射能による劣化が起きます。 危惧の1つは、このような2つの過程によって∂相プルトニウムとガリウムの合金の安定性が損なわれることです。
これがこの中心横を備蓄する際の兵器上の主たる危惧事項で、それを解決するために多大な努力が払われてきました。
この研究はプルトニウム専門隊も年老いてきたことによっても妨げられているのですが、それは核実験が停止されているので、計算機シミュレーションによる研究しか行えないからです。
この計算機シミュレーションの結果がどれほど信頼できるのか、私にはわかりません。
図18 核弾頭数と平均年数の変化(credit:Courtesy of Los Alamos Science, Los Alamos National Laboratory.)
ロッキーフラツツは1952年から1975年までダウケミカル社が運営していましたが、深刻な環境問題が生じているとされたため、1974年には契約更新がなされませんでした。
1975年からロッキーフラッツが閉鎖された1989年まではロックウェル・インターナショナル社が運営しました。その施設に関するロックウェル社の運営は、終わり良しとは行きませんでした。
1989年6月6日に、連邦捜査局(FBI)が施設に立ち入り、怠慢や管理不行き届きに関する種々の犯罪行為を意図した記録を押収しました。
会社は最終的には「クリーンな水法」侵犯を含む10点での有罪を認め、1850万ドルの罰金を払いました。
同年9月には、その場所は環境省の危険廃棄物所の特別基金[訳注:アメリカ連邦政府の危険物清浄化活動のために設立された基金]リストに入れられ、1992年2月には完全なクリーンアップサイトに
移されました。そのときまで、そこではトライデントミサイルの薇弾頭が製造されていました。
1995年3月には、エネルギー省はそこのクリーンアップには70年かかり、370億ドルを要すると見積もりました。そこでエンジニアリング会社のカイザー・ヒル社にその業務を行わせることにしました。
カイザー・ヒル社は賢明にも外部顧問を迎え入れましたが、それにはロスアラモス研究所職員も含まれていました。
これら顧問団は、それ以前にクリーンアップ計画に用いられた科学的根拠が全く間違いであることを発見しました。
プルトニウムは水に溶けると仮定されていましたが、そうすればその場所のすべての水源をクリーンアップしなければならないことになります。
しかし、その際プルトニウムの奇妙な化学的性質のことについては考慮されていませんでした。
プルトニウムは水に溶けずに、むしろ地上の小さな粒子に積もるのです。このことはクリーンアップ作業を大幅に単純化し、今や土の除去だけをすれば良くなったのです。
この作業は2005年10月に完了し、最終閉鎖日がスレート製プレートに2006年12月と記され、全コストは70億ドルでした。
景観が戻り、プルトニウムのそれ以上の移動がないことを確認するにはまだ時間がかかるでしょう(注9)。
2006年2月14日には、連邦陪審は16年間の訴訟ののち、ダウケミカル社とロックウェル・インターナショナル社がロッキーフラツツ近傍の私有地を汚染したこと、多分それは取り返しのつかないものである
との審判を下しました。集合代表訴訟の13,000人の原告には、損害賠償として5億5390万ドルが与えられました。
プルトニウムベースの核爆弾に成功した国々はすべて、われわれが通ってきたと同様な道筋をたどったはずです。かれらには、それぞれのシリル・スミスやオッペンハイマーがいたはずです。
それぞれの国で、それに当る人が誰だったのかを知りたいものです。 彼らはどこまでを自分たちで発見し、またどれだけのことをスパイや一般文献から学んだのでしょうか?
私には3国の通過した道をたどることができます。イギリス、ソ連、および中国です。3国は奇妙なところで、お互いに絡み合っています。
1961年に、イギリスのハーウェル原子エネルギー研究所の冶金学者H.M.フイニストンが1っの論文を書きましたが、そこにはイギリスの核計画が述べられています(注10)。
私はこの論文の一部は非常に奇妙だと思います。 彼は、第二次世界大戦後にはイギリスとアメリカは核爆弾について、もはや協調できないと書いています。
事実としては、大戦中もイギリスが参加を許されていたものは限られていました。 たとえば、彼らはハンフォード試験場を訪ねることは許されていませんでした(注11)。
イギリスはカナダと協力していたのです。
私がフイニストンの記述でおかしいと思う他の点は、イギリスが1952年に初めてプルトニウム爆弾実験に成功してロスアラモス研究所と同じ結果を得るまでに時間がかかった理由の説明です。
彼は、イギリスがアメリカが犯した誤りを犯しながら進まなければならなかったと書いています。 でも、それはなぜでしょうか?ロスアラモス研究所にはイギリス人代表団がいました。
彼らが帰国して、どうしてロスアラモス研究所の人々がやったことを同朋に伝えなかったのでしょうか?
特に、フイニストンはイギリスが自分たちでプルトニウムの各相、その合金化法、プルトニウム金属を精製するのに使う柑堀の種類を発見しなければならなかったと述べています。
その説明の一部は、イギリス代表団には冶金学の専門家がいなかったことで説明できるかも知れません。 彼らがロスアラモス研究所を離れる時には、秘密文書を持ち帰ることを許されませんでした。
しかし、イギリス代表団のメンバーの中には写真を振ったものがいて、彼が学んだことを伝えた人もいました。
それは物理学者にしてドイツ生まれの隠れ共産主義者クラウス・フックスで、彼はロシア人にそれを伝えたのです。
フックスが伝えたことをどうしてたどることができるかを理解するのは重要です。
1943年に、ロシアの物理学者イゴール・クルチヤトフが、生まれたばかりのソ連原爆計画を推進する研究所の所長に就任しました。この日付によく注意してください(注12)。
クルチヤトフは、彼がエカオスミウムと呼んだ、プルトニウムの使用を提案しました。
これは彼がネプツニウムの発見を記したマクミランとアーベルソンの論文を読んだことによって触発されたもののようです。
彼がちょうどその提案の報告を書き終わるころ、主としてフックスによってもたらされたスパイ文書の初期のものの閲覧を許可されました。
この文書は彼にプルトニウム提案に確信を持たせ、ロシアもただちに原子炉計画に着手すべきであると思わせました。
私は、長期的に見て、フックスが何を伝えたのかに関心を持ってきました。
今や、Ⅴ.N.メルキュロフからラベンチ・べリアに送られて1945年10月の日付がついた文書が公開されたおかげで、それがわかるのです。
そこには情報源は示されていませんが、それはトリニティ実験を目撃し試験された原爆の設計について良く知っていたフックス以外ではあり得ませんでした。
以下が、「活性物質」との標題がついた報告書です。
デルタ相で比重15.8(1立方センチメートル当たりのグラム単位で示した密度)のプルトニウム元素が原子爆弾の活性物質である。
それは球殻状(報告書ですぐに明らかにされるように、ここで意味しているのは固体状の球、すなわち「クリステイーの妙案」のこと)をしていて2個に半分割されており、
それはちょうど着火装置の外側の小球(その設計詳細は前の節で述べられているものですが、連鎖反応をスタートさせる中性子を造る装置のことです)のようにニッケルーカーボニル雰囲気
(ニッケルの保護膜で外側の表面をかぶせているものです)中で圧縮される。 球の外径は80-90mm(クリステイーの妙案の直径が9センチメートルということを示しています)である。
活性物質の垂さは7.3-10.0kgである。半球の間には厚さ0.1mmの波状をした金のガスケットがはまっており、それは活性物質の半球の接合部分に沿う高速ジェットが着火装置へ侵入するのから
保護している。このジェットは着火装置を未熟段階で着火させるからである。
半球の一方には直径25mmの開口部があり、そこから着火装置を特別のガスケットに取り付けて活性物質の中央部へ挿入する。
着火装置の挿入後には、開口部はこれもプルトニウムでできた栓によって閉じる(注13)。
ここには、想像力を働かせないと理解できない余地はあまり残されていません。
イゴール・バシエビッチ・クルチヤトフがソ連のオッペンハイマーであるとすれば、A.A.ボチバールはそのシリル・スミスでした。ボチバールは冶金学者でしたが、中心核製造を命じられました。
第一に彼は金属プルトニウムを造らないといけませんでしたが、それにはまずプルトニウム製造の原子炉がないといけないことを意味していました。
クルチヤトフはのちに、フックスの情報は有用ではあったが、それを自分たちで実現するための研究をやらなければならなかったと述懐しています。
事実、フックスの報告が入手されてから、ロシアの最初の原爆実験に成功する1949年4月29日までに4年がかかっています。
フックスの情報がなければ成功にはさらに2年よけいにかかったかも知れませんが、しかし実現したのは確かだったでしょう。
中国の原爆計画は以上すべてのことすべてが足し合さった結果生まれたものです。 1950年代半ばに、ロシアと中国間にある交換交渉がなされました。
核情報提供の見返りに、中国はロシアにウランを供給することになりました。 中国にはロシアの顧問団が派遣されましたし、中国から多数の学生がロシアに送られて訓練を受けました。
ロシアは中国の原子炉建設とウラン同位元素分離のガス拡散プラント建設を助けました。これら1950年代後半の協力関係の頂点に、中国への原爆試供品と自分で造るための教本の引渡しがありました。
しかし、そこで両者の関係が冷却化しました。中国は核兵器を自分で調達せざるを得なくなりました。その時期までに、中国はプルトニウムと内爆について知るところとなっていました。
そこで、プルトニウム原爆ではなくて、ウラン235を用いた原爆を造ることを決定しました、 しかし、内爆を用いて点火することにもしましたが、それは爆撃の特性を大きく改善しました。
すなわち、ウラン235の量が少なくてすむのです。
その実験は1964年10月16日に中国西中央部の砂漠の干上がった湖で行われ、成功しました(注14)。 中国は1960年代になってプルトニウム製造を始めました(注15)。
2基の主な原子炉がプルトニウム生産を止めた1990年代初めまでに、合計2.8トンの爆弾級プルトニウムが製造されたと思われています(中国はこれら数値を公表していません)。
商用原子炉用と軍用のプルトニウムの全貯蔵量を考えてみますと、将来の見通しは非常に暗いものがあります。 2004年末に、非軍事用プルトニウムが1740トンあると見積もられています。
この数値は、プルトニウムが毎年商用原子炉で造り続けられていますので、常に動いているものです。現在、少なくとも毎年70トンは造られています。
国ごとの貯蔵量は、電力がそれぞれの国で原子力からどれだけ得られているかを知れば、知ることができます(注16)。数例を挙げますと、トンの単位で次のようです。
アメリカ403、ドイツ93、日本152-154、フランス231、そしてロシア126。 また、スウェーデン、ベルギー、スペインがそれぞれ42、24、27トンを持っています。 これら3国は原子力開発の前面
にあった国ではありません。
ロシアはその商用プルトニウムの大部分をかつて保持していたウクライナやブルガリアなどからも集めています。これは上記のロシアの総量に含めてあります(写真14)。
写真14 ロシアでの明らかな現在の危険:地図に英語表記で示されている地名はプルトニウム
が貯蔵されている場所(credit:Courtesy of Los Alamos Science,Los Alamos National Laboratory・)
軍用プルトニウムについては、北朝鮮が目立った例外であるほかは、すべての製造国がその製造を止めていると宣言していますので、固定値です。 製造は1990年代に中止されました。
これらの国は、多分必要と考えていた量は入手したということでしょう。
そのようなプルトニウム量は約155トンと見積もられています。 国ごとの分布も予想される通りで、2003年現在でのトン単位で次の通りです。
アメリカ47、ロシア95、中国4、そしてイスラエル0.56。北朝鮮の保持量は10から50キログラムと見積もられています(注17)。
単純な事実は、世界はプルトニウムにどっぷり漬かっており、われわれはその大部分をなしで済ませられる、すなわち無用のものだということです。
問題は、それをどうするかということです。
少なくとも私に明らかなのは、問題は技術的なものではなくて、政治的および経済的なものであるということです。
私が知るところでは、この余剰プルトニウムの大部分は貯蔵しておかなければなりません。
貯蔵所は完全ではあり得ませんから、その処理法として提案する方法は、それを盗まれたり不正取引されるような安全でない場所に置いておくよりもずっと安全であるという合意がなされなければなりません。
時折、この間題への関心が起こりますが、多くの場合は、自分の裏庭近くに貯蔵されそうな場合[訳注:「自分の裏庭はいや」(not Close to my backyard)は、原子力発電所、廃棄物処理場だけでなく、
ごみ焼却場など社会に必要であっても自分の住む所近くに造られるのはいやだという住民の気持を表すのに用いられる]の抗議行動以外には無関心であるように思えます。
ここで提案するのは、プルトニウムの一部を「燃焼させる」、すなわち原子炉で使い果たすことです。
1つの有望なアイデアはMOXとして知られるもので、これは混合酸化物を示しています。ここでの混合物とは、酸化プルトニウムと酸化ウランからなっています。
ウランは天然ウランで、プルトニウムは燃焼させようとするどのような同位元素でも良いのです。
この混合物を約7%のプルトニウムを含んだ燃料ベレットにします。 そのベレットはウラン235と一緒にプルトニウム同位元素の薇分裂を起こす原子炉燃料にします。
その混合物のプルトニウムとウラン含有量は非常に小さいので、そのままでは薇爆弾としては使用できません。
言うまでもなく、横拡散を避けるために、ウランの再処理が行われないことを確認する必要があります。
現時点では、発電所でできたプルトニウムのうち僅か数%がこのような燃焼がなされています。そのための処理は高価ですが、ここでもそれをやる気があるかどうかにかかっています。
プルトニウム物語には多くの皮肉な巡り合わせがあることがわかっていただけたと思いますが、
中でも製造するのに何百万ドルかかったものが、それを克服するのに何十億ドルもかかるというのが最たるものでしょう。
1939年7月半ばに、エージン・ウイグナーとレオ・シラードは東ロングアイランドのナッソー・ポイントに向けてドライブしていましたが、それはそこで休暇を取っていたアルパートアインシュタインに
会って話そうとしてのことでした。
2人はアインシュタインがベルギーのエリザベス女王と長い友情を維持していたのを知っていました。 2人はまた、ドイツが核エネルギーの研究を始めようとしていることも知っていました。
2人はアインシュタインに頼んでエリザベス女王に手紙を書いて、ベルギー領コンゴからドイツへのウラン輸送を停止させようとしていました。
2人はまた、ルーズベルト大統領に手紙を書いてドイツが核兵器を持つ危険性について訴えようというアイデアも持っていました。
シラードはその手紙の下書きを書いて、それが最終的には大統領あてに出されたのでした。
この訪問時に、ウイグナーとシラードはアインシュタインにどのようにして連鎖反応が核エネルギーを発生するかの説明をしました。
アインシュタインは非常に驚いて、そのようなことは考えたこともなかったと言いました。
それに付け加えて、これは人類が直接にせよ間接的にせよ太陽起源でないエネルギーを獲得する初めてのものだと言いました。
そのときには多分、アインシュタインはウランやプルトニウムも他の重い元素と同様に超新星爆発で造られたことを知りませんでした。
伝説上のフアウストの契約同様に、それらは天からやってきて、プルトニウムについては減衰してなくなってしまったのです。
本書で見てきましたように、戦争中はプルトニウムを軍用のために再製造するのに努力や支出を控えるというようなことはありませんでした。
プルトニウムは他にはほとんど何の役にも立たないものです。今や私たちはそれから離れられないのです。
よく言われるように、「悪人に接するには用心が肝要」なのです。
〈原 注〉
1.この金額と、オークリッジ研究所のこの販売計画についてを教えていただいた、カレー・ サブレット 〈Carey Sublette)氏に感謝します。
2.この点、および健康リスクの詳細については、9章の原注8.で引用したCourtesy of Los Alamos Science,Vol.26,P75とその続き参照。
3.詳細はJ.カーソン(J.Carson)著「原子炉級プルトニウムの爆発特性(Reactor-Grade Plutonium's Explosive Properties)』、核制御協会(Nuclear
Control Institute)編,Washington,D.C.,August1990.
4.同上。
5.7章の原注5.のバーンシュタインの論文p.9参照。
6.ハンフォード実験場に関する極めて有益な情報が、S.L.サンガー(S.L.Sanger)著『原爆製造作業:第二次世界大戦中のハンフォード実験場のある伝承史
(Working on the Bomb:An Oral History of World War 2 Hanford )』、Continuing Education Press. Portland,Oreg,,1995から得られます.
7.1トンは1,000キログラムで、2,204.6ポンドです。.
8.詳細は次のサイト参照。 WWW.dob.wa.gov/Hanbrd/publications/overview/columbia.html
これは「コロンビア川の放射性薇種(Radionuclides in the Columbia River)」と題する2005年の刊行物で、ワシントン州保健省より出版されました。
9.ここで述べた歴史は、デービッドL.クラーク(DavidL.Clark)、デービッドR.ヤネキー(DavidR・Janecky)、およびレナードJ.レーン(LeonardJ.Lane)著
『ロッキーフラツツの科学に基づいたクリーンアップ(Science-Based Cleanup of RockyFlats)』、Physics Today,September 2006,P.34に良い記述がなされています。
コメントをいただいたヤネキー博士とデービッドL.クラーク氏に感謝します。
10.H・M・フイニストン(H・M・Finniston)著『イギリスにおけるプルトニウムに関する冶金学的研究』。
これはA・S・コフインベリー(A・S.Coffinberry)およびW.N.マイナー(W.N・Miner)編『金属プルトニウム(The Metal Plutonium)』、University of Chicago Press,Ill,,1961,P・79
の中の1編であって、この論文以降の掲載論文も参照。
11.この情報を寄せてもらったローナ・アーノルド(LornaArnold)氏に感謝します。
12.これら事実の標準的歴史書は、デービッド・ホロウェイ(David Holloway)著『スターリンと原爆(Stalin and the Bomb)』、Yale University Press,New Haven,Conn,,1994です。
13.『ソ連の原爆計画の源について(On the Origins of the Soviet Nuclear Program)』、WWW・nuclearweaponarchive.org/News/Voprosy 2.html、P.5.
14.有用な参考書としては、マイケル・オールター(Michael Alter)著『20世紀のための万里の長城、中国の原爆計画(A Great Wall for the 20th Century,China's Nuclear Program)』、
WWW.georgetown.edu/sfs/programs/stia/students/vol.01/allerm.html
15.中国の原爆計画に関する優れた情報が、デービッド・オルブライト(David Albright)およびコーレー・ヒンダーシュタイン(Corey Hinderstein)著『中国の軍用プルトニウムと高濃縮ウランの貯蔵量(Chinese Military Plutonium and Highly Enriched Uranium Inventories)』、ISIS,June 30.2005に載っています。
16.これらの数字は、デービッド・オルプライト(David Albright)およびキンバリー・クレーマー(Kimberly Kramer)著『商用発電所の原子炉で造られた商用プルトニウム
(Civil Plutonium Produced in Power Reactors)』、ISIS,August 2005から採りました。