03フランスの大学生や小学生の勉強

第一次大戦で歴史的に戦争体系が劇的に変化した。

航空機や戦車という新型機械化兵器による物量攻撃と、毒ガスなどの化学兵器の登場。

そして、一般人からの徴兵による大量の兵士同士が前線でにらみ合い、何ヶ月もの塹壕戦を延々と続けての消耗戦であった。

フランスが160万人、ドイツが180万人、イギリスが140万人の戦死者を出した。

欧州を二分した戦いの中核となった仏独両国の前線で特に激しい戦闘が続き、フランスのドイツ国境近いアルデンヌ地方一帯には、当時を偲ばせるトーチカ群や、無名戦士墓地が数多く残る。

第二次大戦も、ナチ軍事政権と、西伊両独裁政権の欧州三国同盟に支配された全欧州を奪還するため、ノルマンディー上陸作戦が敢行され、ノルマンディー地方コタンタン半島の上陸ポイントの断崖絶壁の続く海岸線には、未だに連合軍の上陸用揚艇が砂浜に半ば埋もれたまま残されており、沖合には浮き桟橋が見られる。

戦争記念館が多くの自治体にあり、戦没者記念碑や無名戦士の墓地も、アルデンヌと同じくらいに存在する。

フランスの中学生は、2年生か3年生の時にこの両地区に社会科の見学旅行に出かけて、現地で話を聞き、戦場の痕跡を訪ね、レポートを作成しなければならない。

それがその学期の点数に加えられる。

従って、現地で実際に目で見て肌で感じて、その後文献に当たって調査研究することによって、戦争に対する社会的観点からの否定的視点が育まれている。

翻って日本はといえば、日本史でも世界史でも、20世紀初頭で学年が終了し、両大戦の事を詳しく学ぶことはないように、カリキュラムが組まれている。

従って、日本がつい3/4世紀前に激しい戦争を行った事実を知らない子供たちが、多く登場してしまった。

子供たちの社会性と歴史認識への観点が育てられず、テレビの煽る面白おかしい日常で感情が麻痺し、軽薄な「チャラ男」のような若者が、次の日本を背負わなければならない事態となっている。

これは、もとより政治権力が望んだ方向であると同時に、まともに子弟を家庭で教育しなかった戦中派の親たちの責任でもある。

今回の安部自民公明政権により、憲法無視の戦争立法に対して、「やっと」若い世代が集会やデモを行った事を知り、深く感じるものであった。

そして、あの「安部様の」NHKが、まさにこの時に『沖縄戦の記録』なるスペシャル番組を制作して放映した。

製作者のプロデューサーやディレクターが左遷されないことを願う。

そして、このような番組を全小中学生に見せることが、今生きている大人たちの義務ではなかろうか。

修学旅行で海外を訪れる、高校が多数ある。

中学校ですら見られるようになった。

さすがに公立高校ではないと思うが、秋から冬にかけて、制服姿でヴェルサイユ宮殿やルーブル美術館を埋め尽くす日本の高校生を見て、狭い井戸の底のごとき日本の中から、世界的視点を育てる上で好ましいと思う。

しかしそれと同時に、日本の辿ってきた過去を知り、それを踏まえての対外的視野の構築が不可欠のはずだと、やや疑問に思うこともある。

ハワイやヨーロッパに修学旅行に行くなとは言わない。

しかし、その前に中学生くらいで必ず「東京大空襲記念館」や「千鳥ヶ淵の戦没者墓苑」を訪れて、そこで行われたことの実態、それが起こった由来や原因を学ぶことは、まともな精神を持つ日本人を育てるためには、必要なことだと思える。

さらには沖縄を必ず訪れて、悲劇の現場をたづね、戦争体験者のお話を聞き、今回のNHKの番組の様な資料を見て、自分達で自分達のルーツを考える教育は、絶対不可欠なのではないかと、改めて思った。

こんなことを書くと、即座にネトウヨの諸君の条件反射的攻撃を呼びそうだが、今まさに「戦争のできる国」にしたがっている政府を支持するウヨクの人々こ そ、かくもコテンパンにやられて、20万人の戦死者を出し、そのうち12万人が住民であったこと、その住民が「人間の盾」にされて、自国の兵隊たちを守ら された事実に触れ、旧日本軍の不甲斐なさを改めて認識することは、軍国主義に憧れる若者たちにも意義深いのではなかろうか。

「強い日本を取り戻す」ためには、ダメな先例から学ばなければならない。

その上で、米軍の沖縄作戦の様子を映した記録フィルムを鑑賞し、自分たちが憧れる「戦争のできる国」ということが、どのようなものであるのかを再考することが、肝要ではないだろうか。

生存者のおばあちゃんの「洞窟に隠れていてアメリカの爆弾が破裂した。気が付いたら、周り中に周り中に首のない人やら、黒焦げの人やら…」という声に耳を傾けて、自分なりの戦争のイメージを修正するのも、必要なのではないか。

普通の日本人として生まれて育って、戦争のことなど「カンケーねえし」と思ってる、多くの若者たちに教えなければならないことは、コンピューターゲームのコンバットと現実の戦争の違い、そのもたらす物事の「脚色抜き」の事実である。

2015年6月14日、反戦争立法の全国各地の若者達の行動と、NHKの沖縄戦争のドキュメンタリー放送とが重なったことは、もしかしたら「天の啓示」かもしれない。

日本人よ。

考えよ。

考えて、行動せよ。

多くの国では、国難に接したとき、若者が先頭に立ってで行動する。

日本の若者も、目覚めてほしい。

安部政権のやろうとすることは、他の誰でもない、君たちに直接降りかかってくることなのだ。

最後に付け加えることは、日本政府は、国軍自ら住民を巻き込み、住民を盾にして膨大な犠牲者を強要した『沖縄』に、一度も謝罪していないはずだ。

これは、従軍慰安婦や南京虐殺犠牲者に「まともに」心から謝罪していないことと、同一線状にある。

日本の支配者たちの精神風土に、自分達の配下にある一般人に謝る発想はないのだろう。

あくまでも、支配者が唯一無二であり、大衆や弱者は虫けら同然なのだ。

そうでなかったら、国民から血税を搾り取って大企業を減税したり、放射能を撒き散らしながら、そこでの生活を強要したり、憲法を完全無視して戦争したがったり、するわけがない。

昭和も平成も、いつまでたっても支配者たちの感覚は、何も変わらないで、時計は止まったまま…。

それどころか、85年前に逆戻りしつつある。。。

皆さん、どうする?

それ以外の記事で

五年前の大災害で尊い命を落とされた方々に、衷心より哀悼の意を捧げます。

安らかにお眠りください。

残された方々、あらゆる被害を浴びられた方々に、心よりのご同情を捧げ、遠くからではありますがずっと寄り添って、悲しみのひとかけらでも共に分け合わせていただく事を、申し上げたいと思います。

一歩一歩、共に遊んでいきましょう。

あなたは、決して独りではありません。

五年前のあの日、フランスのテレビのニュースで、ほぼリアルタイムに近い時間的条件で「津波の来襲」のシーンを目の当たりにした。

日本では、テレビでその場面は流されていなかったと思う。

言葉も出なかった。

そして、五年。

復興は進んでいるのか。

NHKでは(衛星放送だが)1日に一度は必ず『あの日あの場所で』という5分間の懐古番組を流しており、同じ歌をそれこそ「耳にタコができる」ほど、聞かされてきた。

実にいい歌だと思う。

日本人全体に「あの日」を共有させ、痛みを分かち合い、記憶を風化させないように、とても素晴らしい精神だと思う。

さすがに国営放送だ。

その姿勢たるや、良し。

ただし、原発事故が絡んでいなければ。

悲しい事に、原発事故がそこに加わる事によって、NHKの姿勢も「実にあざとい」ものになってしまっている。

原発推進に奔走する安倍政権の、広報放送局であるから。

安倍晋三が官房長官当時、18メートル超の津波などあり得ない、全電源喪失はない、防潮堤は不要国会で答弁した事も、津波が襲う前から福一は地震のために 配管配線はズタズタで、あの大爆発につながる事故が「津波のせい」で起こったわけではない、という事もこの際横に置いておこう。

しかし、事故は起こった。

そして、その後の対応がめちゃくちゃだった事が、今日までの流れに繋がっている。

菅直人という完全に無能な人物を、自己保身だけに走っている業界の利権の親玉をして「あんな人を首相にしてしまったから」(班目規制委員長 : 当時)と言わせてしまっても、なんの反論もできない。

時の政府の大失策は、住民を避難させなかった事、に尽きるのだ。

細野剛志がいみじくも言った。

「人がどんどん逃げ出そうとしていた。もしメルトダウンの危険を発表すれば、東京中から住民が逃げ出すのが分かっていた。それが怖かった。」

この発言が、菅直人政権の中枢部の共通認識であっただろう。

そして、東電社員の家族だけがガラガラの新幹線で、西へ逃亡していった。

時の政府にとって。

とにかく事態は自分たちの手にあまる。

どう対処していいのか、皆目分からない。

それなら、何もない事にしよう。。。

『直ちに健康への影響はありません』

『落ち着いて行動してください』

『繰り返します。直ちに影響はありません』

時の官房長官枝野幸男は、このフレーズを何千回発したことだろう。

そして、国民は恐怖心を押さえ込まれて、やがて安心してしまった。

その後も、的確な処置は全く取られないまま、放射線は遠く地球の反対側まで飛散し、太平洋は完全に汚染されてしまった。

東電も、経産省も、的確な処置が何だかわからず、学者たちは書物で覚えた事とは違う事態に何らの専門的分析も助言もできない。

一部の国民たちの心配の呼びかけを、寄ってたかって否定し去り、圧殺し、マスコミ挙ってそれに協力した。

直接の責任母体である『東京電力』に直接補償させる事をせず、逆に公金を湯水のごとくに注ぎ込み続けた。

原子力産業は、米国にプルトニウムを提供するために存在しており、それが日米関係の中核となっている事を、外務官僚や財務官僚、そして防衛官僚たちに言葉巧みに洗脳され、誘導されたはずだから。

とどめは、野田佳彦による『福一事故収束宣言』である。

あの2年間は、命に関わる2年間であった。

避難する可能性も、被曝から身を守る可能性も奪い去られた住民は、自分の命を危険に晒し続けて暮らしてきた。

安倍晋三は、自民党である以上「当然」原発推進派である。

でなければならない。

日米関係の事は当然の事。

そして。

日本人の大好きな重厚長大路線の推進役である大手工業メーカー、電機メーカーは全て「原発建設」とその維持管理に大きく関与している。

そして、直接運用する電力事業者とともに、自民党へは莫大な献金と、表立たないマイナイやら有形無形の利得やらが、惜しみなく贈られている。

本来ならば、何の解決にも至っていない東電を経営的に優遇支援し安泰に存続させる事を、それほど国民の怒りを買う事もなく遂行できたのも、何はさておいても菅直人と野田佳彦がレールを敷いておいてくれたからである。

さて、復興なのだが。

五年「も」経て、少しも進んでいない。

阪神淡路の時と違って、被害状況があまりに広範囲で、かつ甚大過ぎたため簡単ではな事は、よく理解できる。

それにしても、公式数でおおよそ17万人以上もの被災者たちが避難先で暮らしている。

そのうち仮設住宅に、6万人ほど。

五年だよ。

そして、行くあてもなく新生活の目処も立たぬであろうこれらの被災者の、唯一の拠り所である仮設住宅は来年3月で廃止される。

数年前のクリスマスに、派遣社員たちの契約打ち切りを週末の金曜日に通告し、その週の日曜いっぱいで寮を明け渡すように命令した『キャノン』と『トヨタ』の例を思いすまでもなく、日本の支配階級は冷酷である。

決めている以上、追い出す事だろう。

なんの躊躇もなく。

散々テレビで見せられてきた被災地の復興も、国の政策の結果というより個人個人の努力で、個別になされてきた面の方が大きいように思える。

ここにも、かしこにも「自己責任」の概念で、責任放棄を貫き通す日本の政治がある。

津波に襲われたところは、確かにほぼ更地になっている。

だからと言って、旧来の住民たちが同じ場所に帰ってくるわけではない。

そして、かてて加えて「放射能汚染地域」の帰還問題。

国は、すべてを「なかった事」にしたい。

旧住民たちは、生まれ育った土地に帰りたい。

そして、日本人は辛い事ほど早く忘れようと努める。

そこで、レントゲン撮影の漏れですら大騒ぎしていた放射線に、危険性を学問的に考慮して決められていたはずの「基準値」を、今の現地の実情に合わせて変更(引き上げる)する事で、帰還困難の指定解除に奔走する。

線量が未だに高いままの道路を通行許可し、鉄道も復旧させ、住民を住まわせ、外見上は地域の復活がなされたように見えれば、それで「復興」なのだ。

住めるようになったから。

安全が回復したから。

ではなく、人が住み、車が走り、電車が通っているから、復旧。

あくまで「形」だけ。

そこに、国民を守り、国民の生活の安寧を保障するための政治、という概念は一欠片も存在しない。

とにかく、日本の政治家と官僚とは冷酷である。

国民を人とも思っていない。

あくまで「国民」という言葉で表される記号に過ぎず、国の要素の一部に過ぎず、納税する役割をになった存在でしかないのだ。

でなければ『食べて応援』などという発想が、生まれて来るはずはない。

保育所不足の問題といい、それに対する総理はじめ自民党議員達のバカな反応といい、消費税増税の事といい、福祉予算の切り詰めと防衛予算の増大といい、大企業へのさらなる減税といい、日本の政治は国民を見ていない。

『5年が過ぎて、今年を新たな復興元年とするべく…』(安倍晋三)

何を言ってるんだろう。

福島の子供達に「甲状腺癌」が異常な数値で多発しているというのに。

それを『放射線の影響と断定できない』などと、御用学者どもにいまなお言わせて、自主避難者のケアーはお得意の「自己責任」で押し通す。

国民を殺してどうする。

政府の大好きな『納税者』が減って行くんだぜ。

内需を支える国内消費の消費者も減るんだぜ。

そして、子供を産み育てる環境を提供する事なく、出生率の向上を国民に押し付けて、一体どうしようというのだ。

国会議員の、特に自民党と大阪維新の会の議員達の、議場でのヤジの酷さ。

百害あって大した効果はない「子宮頸癌ワクチン」を、少女達へ強制接種を推進する女性議員達の酷さ。

国民を見捨てて、殺して、何が復興というのか。

数十兆円にも昇る「復興予算」が、一体全体どこに使われてきたのか。

東日本愛震災から五年。

復興など、物質的には勿論の事、精神的にも、全く進んでいない。

これは復興予算が『必要な時に必要なところで』使われていない、という事を意味する。

いみじくも財務省原案にあった。

「沖縄の海兵隊基地の滑走路の舗装修理費」は、緊急災害時に米軍ヘリの出動を依頼する時のため。

「野球場のスタンドの改装費」は、復旧に当たる自衛隊員などの休養に充て英気をやしない、緊急時には避難民の収容のため。

全く『東大話法』の野放図な表現の駆使により、莫大な税金を好き勝手に使う、日本の政治と行政との姿勢が明確に現れている結果に他ならない。

確かに莫大な予算は「どこかで」使われているのだろう。

意味もない「放射線の移動」に過ぎない、終わりなき『除染』作業とか。

見かけだけのような薄っぺらな防潮壁を、何百キロメートルも建設するとか。

飽きもせず、研修施設やら復興施設というハコモノを作り続けるとか。

これらは皆「ゼネコン」と、その関連事業、および人足差配の『パソナ』を儲けさせるだけ。

もちろんそこから、莫大な政治献金という名の見返りが持たらされ、官僚の天下り先がさらに増えるわけである。

つまり復興事業とは、あの「世界に類を見ない」大災害から、国民の生活を取り返すために行うのではなく、あくまで事前に描かれた莫大な金の流れが自分たちへ還流するように仕組まれた事を、そう呼ぶわけである。

なぜか?

当然、政治にも行政にも「愛情がない」からである。

次の5年が過ぎた時、果たして時の政府はどんな「決意を述べる」のだろう。

最後にどうしても言わなければならない事が一つ。

あの「未曾有の大災害」を一次災害だけで食い止める事なく、その後今日まで連綿と続く被災者と被災地の不幸の元凶は、菅直人と野田佳彦にある。

この首相二人と、その両内閣の官房長官と主要閣僚達は、いつか正義の裁きをつけさせる必要が有る。

絶対に。

安倍晋三の今日の『暴政』は、単にその延長戦上にあるに過ぎないのだから。

ただし、安倍晋三の罪は、復興の遅れだけにとどまらないことは、ここに明記するまでもない明々白々な事である。

彼は、別の機会に、もっと大きな御裁きを受ける事になるにちがいない。

とにかく、日本の為政者たちは冷酷である。

菅直人も。

野田佳彦も。

安倍晋三も。

明日3月9日、パリでは広範囲のストが告知されています。

原因は、与党「社会党政権」が提出している、一つの法案への国民的反発です。

エル・コームリ労相が提出しているので『コームリ法案』と呼ばれています。

全フランス国民の70%が反対と言われているこの法案は、詳細は省きますが中小企業の活性化を狙ったもので、レイ・オフ手続きの簡略化、企業の寺中状況による仕事の繁忙期と暇な時期とで社員の労働時間の増減をやりやすくするtか。

例えば、フランスでは一度従業員を雇用すると、クビにするのが大変に困難なのですが、勤続年数に従った一時金を払うことで可能にする、とか。

労働時間ははっきりと法的に決められていて、時間外労働は従業員と組合との了承を得て初めて可能となり、業種によって時給が125%から150%になるが、職場組合の合意を得られなくても可能にし、割増料金は10%で良い、とか。

中小企業側は、経営がやりやすくなるので概ね賛成の意見もあるが、保守革新を問わず労使を問わず、70%の国民が反対という、不人気ぶり。

その影響は若年層にも及ぶというわけで、大学生がストを予告し、公務員労組も加わって、明日の全国的ストライキということになりました。

各種公共サービスが混乱し、高速鉄道(TGV)は南西系統が1/3しか運行されず、パリの郊外電車も1系統は1/2。

ルーブル美術館も終日の閉館を告知しています。

日本は、デモすら「偏見」を持たれる場合が多いほどで、ましてやストライキは全くと言って良いほど、乱れなくなってしまったようです。

デモは国民にとっての「意思表示」の大切な手段。

ストは労働者の最大の武器で、ことあるごとに行われています。

とくに、学生が全国的に立ち上がると、その影響協力は非常に大きく、時として国の政策を左右します。

古くは1968年の5月革命を筆頭に、近年でも1970年代から最近まで4度も、政府提案の法案を撤回させた輝かしい実績があります。

1975年と76年には、高校のカリキュラムの抜本的変革を求めた法案は、全国の高校生が大量動員のデモを繰り返し、結局法案の一部は撤回、それ以外も大きく変更されました。

1986年には、大学入学に選抜試験制を導入しようとした『ドウヴァケ法案』には、高校生も加わって全国でデモの嵐が吹き荒れ、労働者たちも高校生の運動に共感して労組のデモも次々発生して、警官隊の警備で一人の学生が死亡するという悲劇もあって、法案は撤回されました。

もともとフランスでは、高校三年間の学業の終了は、最終学年の学年末に1週間にわたって行われる『高校卒業資格試験』(バカロレア)を経て、80%前後の合格率を経て卒業が認められます。

第1日目の最初の科目は『哲学』で4時間の論述試験です。

そのバカロレアを取得すれば、大学は(学生数に応じて全国に振り分けれらることがあるものの)希望の学部に「いつでも」入学できるのです。

もちろん入学してからも、1年生の1学期から「専門教科」の履修で、2年に進級できるのは文学部など20%を切るほど、しっかり勉強漬けの日々となるわけ ですが、バカロレア取得した上で、人気の高い学部は『選抜試験』などと言い出した政府に、若者たちは実力行使で< NO >を突きつけたのです。

日本の様に高校に3年在籍すれば、不登校でも単位がもらえて、卒業証書を手にすることができる。

その「資格」があれば、フランスの大学にも入学できるという、大変な不合理さも存在します。

言いたかったことは、学生も労働者も「自分たちの不利益」だとみなす政治的な動きには、即座に反応して反対行動を起こすということです。

ところで、フランスの『労働基準法』の法典は、ナポレオン法典時代から捕逸と変更の追加が繰り返された巨大な書物で、関連法まで入れると3500ページほどもある。

デンマークという国には、そもそも『労働基準法』という法規が存在しないそうです。

単純なルールブックがあるだけで、250ページほど。

両方並べると、広辞苑の横に週刊誌があるみたいに見えます。

そのデンマークでは大企業も中小企業も、労働条件は全て労使の話し合いで決められます。

どの企業にも「労組代表」の社員がいて、生産部長とか直接の現場の責任者と、それこそ毎日会話を続けて細かな問題点まで全てを洗い出して、協議しています。

そこに、両者間に対立関係はなく、協調関係が存在するだけ。

労組代表の社員は、社員が精神的に肉体的にいかに最良の条件で作業に当たらせることができるか、を考える。

経営者側の責任者は、工場なり職場なりを、どれだけ効率よく運営して生産を高められるか、を考える。

そこに、両者の一致点を必ず見つけ出す可能性を徹底的に話し合うことで、見出しているそうです。

フランスの「最低賃金」は、日当、週給、月給により複雑に分かれていますが、2016年1月に年次改定されて時給ベースで9,67ユーロ(およそ1700円)、月給に換算すると週35時間で1.466,62ユーロです。

学歴社会で、バカロレア以降に取得したディプロム(学位や資格、免状)によって所得が変わりますが、バカロレアだけで就職すると、この金額になります。

単純労働は事務職も現場もだいたいこれで、移民労働者もパートも金額は同じです。

ところがデンマークは、会社ごとに全て話し合って決まっていて、会社ごとに話し合って改定されるので、職場毎にみな違う。

ルールブックには、一応「15ユーロを下回らないこと」という規定はあるらしいですが、ほとんどその倍ほどは確保されている。

もちろん中小企業の場合です。

大企業はもっと多いかもしれません。

つまり、フランスから見ても羨ましい限りですが、労働者は「普通に快適に」生活ができる経済的環境が、企業側との話し合いで確保されているわけです。

それに比べると、フランスは厳しいです。

夫婦両者の収入で、(階級ごとの基準はあれど)やっとまともに生活しヴァカンスにも行ける。

しかし、通勤途上の事故から始まって就業中の事故による怪我は全部「労災」認定で、社会保険から「100%」支払われます。

年金も、昔と比べてどんどん少なくなってきたとはいえ、65歳から支払われます。

夫婦の年金を支払いに変えることで、夫婦で老人ホームにも(介護付きで)入入所できます。

つまり、人間は基本的に文化的生活を快適に営むことが当然の権利として、労働環境が成立している、ということです。

翻って、日本という国はどうなのか。

『保育園落ちた、日本しね』という投稿で、日本中が炎上しているようです。

こんなことが国会の委員会質疑になること自体が、考えられないほどの体たらくなのですが。

安倍晋三の答弁が、実に「アベ過ぎる」ものだった。

批判の嵐に、さすがの「私が総理大臣ですから」のこの人も、あわててトーンダウンして火消しに大わらわ。

<以下引用>

保育園への入所選考に落ちた母親が「保育園落ちた日本死ね!!!」と題して怒りをつづったブログが波紋を広げている。ブログが匿名だったため、安倍晋三首 相は2月29日の衆院予算委員会で「本当に起こっているのか確認しようがない」と突き放したが、7日の参院予算委では、待機児童を減らすため「政権交代前 の倍のスピードで受け皿作りを進めている。保育士の待遇改善にも取り組みたい」と理解を求めた

毎日新聞より

そして、驚くべきことには。

【炎上】「保育園落ちた日本死ね!!!」←こんなこと言うような親だから落ちたんだろ?在日朝鮮人か外国人くらいしか日本死ねとか言わんだろ。ヤラセ・炎上目的の釣り?【はてな匿名ダイアリー】

こんなことを言い出す輩が、次々と湧いて出る。

【衝撃】「保育園落ちた日本死ね!」の黒幕は日本共産党だったwwwwww ...

あまりにも情緒の未発達な、あまりにも他人の痛みのわからない、あまりにも非人間的、非社会的日本人が増産されている。

この連中は、自分は豊かに平和に暮らしているのだろうか。

そして、自分が今暮らしている環境は、自分一人の能力で得られたのだと、信じているのだろうか。

言い換えると、社会には「自分一人」と「バカな他人」しか見えないのだろうか。

このような成長段階に問題があった年か思えない人間が、なぜにここまで増殖してしまったのだろうか。

いぜんの日本ならば、この手の出来損ないは少数で、まともに社会で取り上げられることもなかっただろう。

いつの頃からか、競争原理の拝金主義が横行し、自己責任という「一見耳障りの良い」言葉がもてはやされるに至って、このように考える大人たちが跋扈し、その大人たちを見て育った若い世代にまで蔓延してしまった。

日本の労使関係を見てみよう。

企業にとって、労働者は以前のような「家族」という感覚は無くなった。

あくまで企業の利益を生み出す為の道具にすぎない。

道具である以上、仕入れ値は低ければ低いに越したことはない。

そこには、自社院の誰もが「快適で文化的な生活」を送ることが前提での人件費は計上されていない。

企業が「これだけの利益を生むには、経費はこれこれ以下に抑えたい。したがって、社員に払う分はしかじか」と計算して決められる。

「これだけ払ってやるから、しっかり働け」

「嫌なら、代わりはいくらでもいる」

そして、さらに経費を抑える為には、人件費に付随する社会保険や年金などは切り捨てたい、という発想から『派遣社員』の導入に舵を切った。

要するに、人件費は部品代と同じグループに入れられてしまったわけです。

職場で同じ作業を行っていても「派遣さん」と呼ばれて、すでに差別化は完成してしまっている。

社員が定時で帰れるように、残業代のかからない派遣に押し付ける。

数名で分担する職場を、一人の派遣社員に押し付けて、待遇は正社員の半分とか三分の一とか。

社会で今最も必要とされて、最も過酷な作業を強いられる職場。

例えば「介護士」や「看護助手」さらには「保育士」などが、派遣社員でげっキュが10万円から、良くて12蔓延。

これで、不規則な時間帯の長時間シフト。

こういう老僧環境が支えている社会構造とは、一体誰の為に存在しているのだろう。

正規社員が当然であった労働環境は見事にゴミ箱に叩っ込まれて、非正規での雇用しかなくて、その「やっと手にした」非正規の職場を失うことを恐れて、逆らえない労働者の弱みに付け込んで、今日の「いわゆる先進国」日本というまやかしの国家が、鵺のように存在している

本来、これらは行政が監督していて、その行政は政治が方針を決める。

その政治が、国民の平和と安寧とを目指していないことは、先のネトウヨのようなアベ信者以外、誰の目にも明らかである。

しかし、国民の半分は投票に行かない。

投票する有権者の半分は、そのような社会的矛盾に、気がつこうとしない。

もう、黙っていられない。

読者の皆様。

謹んで、初春のお慶びを、申しあげます。

日本の社会のあまりの異常さに、ずっとずっとブログを更新できずに、悶えておりました。

国民に選ばれた政治家が、国民のために「まつりごと」を行う『代議制』にあって、政府が国民の利益に反することしかしようとせず、国民の声に一切耳を貸さない事態に、最大限の危機感を抱いております。

一体全体、なぜこんな事態が到来してしまったのか。

国民は、自分たちにもたらされている現実を、把握できないのか?

立ち上がって、実力行使を行わないのか?

国民の意識と行動原理の根底が教育にあり、明治維新以来の「お上の政治」がもたらした教育が、お上の僕を生み出すために存在し、自分で考え、自分で分析 し、自分で判断するという発想をもたせてこなかった、その結果が見事に結果として現れているとしか、言いようがありません。

神頼みしか、もはや手立てはないのでしょうか?

人間の思考は、訓練によって形作られ、深めることができるはずです。

その訓練にあたっては、すべてとは言わないまでも、可能な限り多くの情報が提示されなければならず、その情報を整理し、理解し、判断する能力とともに、判断した後に実際にどう行動するかという、現実論が控えているはずです。

そして、その行動に対する現実のなかに、「世間」とか「常識」とか、目に見えない複雑な規制をかける要素が横たわっています。

世間の目、社会の常識、波風を立てずこれまでのやり方を変えず…。

こんな自己規制も、社会そのものが作り出し、その社会は一人一人の市民が形成することで成り立っている以上、市民自身が社会を規制している、ということになるのでしょう。

つまり、目の前の白線をまたげない、ということでしょう。

そして、状況はますます酷くなり、自分自身が置かれた環境はどんどん劣悪になり、それに気がついても反発する代わりに受け入れて、自己の忍耐と努力とでなんとか受け入れて、受け入れたことでその困難を乗り越えた気分になって、安心するわけですね。

徳川家康とルイ14世には、共通点があります。

それまでの時代を変えた。

その時代のキー・ワードは「17世紀」です。

家康は17世紀になって程なく世を去り、ルイ14世は17世紀になってこの世に登場します。

それまで両国とも、地方諸侯権力が無視できないほどに強力で、一国の統一感は無かった。

家康もルイ14世も、その社会を転換しました。

地方の勢力の力をなくし、国を一人の権力者の元に一本化して、いわゆる中央集権を確立しました。

ただ、この二人では「やり方」が正反対でした。

家康にとっては、自分の子孫が未来永久に栄えて存続すること、という一点のみが政治の原点でした。

ライバルである諸大名を、すべて無力化していった。

大名の固有の領地であった「藩」の所有権を『認めてやる』か『認めない』かは、権力を掌握した自分にある。

文句があれば「取り潰す」ぞ。

これは「恫喝」による強権政治です。

配偶者と世嗣の男子を自分の足元に留め置かせ、参勤交代などという膨大な出費を伴う義務を課し、ある藩の公共事業を別の藩にやらせる。

とにかく、常に大名たちの「実力以上」の出費を強いて、彼らを体力的に消耗させてゆくことに、すべての力を集中した。

それでも、ごく稀れに社会に文化が発展し始めると、「贅沢禁止令」みたいなことで潰していった。

庶民たちは、「お上」にはあくまで従順なまま、黙々と年貢を払い続けて忍耐力を養った。

一度「あり方」が定まると、変われない日本人社会はこの頃からすでに完成していた。

愚鈍な将軍が出ようと、平々凡々な将軍が続くこうと、もはや変われない。

その間に、支配構造は疲弊し劣化していった。

従って、安定は保たれたものの、社会全体の文化は発展できず「足踏み状態」のままで、260年間持続しました。

江戸という都市の構造や社会生活の実態は、ヨーロッパをはるかに凌駕していた先進的なものであったことは、いまは触れません。

ルイ14世は、全く逆です。

貴族たちを徹底的にもてなしたのです。

ヴェルサイユという壮麗な宮殿で「夜毎日毎」に、それまでの概念を超えた途方もないパーティーを繰り広げ、そのパーティーに貴族たちを招き、喜ばせます。

そのパーティーに招かれた貴族たちは、あまりの型破りな有様に驚き目を丸くして感動した。

招かれることが、名誉であり、差別化でありました。

自分で「自分は大貴族のはずだ」と信じている貴族達は、競って「招かれ」るために事前運動を繰り広げた。

大貴族たちは、自分の領地でふんぞり返っていても「面白いこと」に参加できないのでヴェルサイユに入り浸って、ルイ14世の周りでウロチョロし、なんとか国王陛下に「覚えていただき」仲間に加えてほしがり、領地は顧みなくなって『宮廷貴族』と呼ばれるようになってしまう。

そのパーティーとヴェルサイユの宮廷生活の、あまりの途方もなさに驚き目を丸くしている貴族たちに、ルイ14世は「大いに楽しんでくれ給え。諸君も自分たちで同じようなことをやれば良い」といい、結果として貴族世界の文化がどんどん底上げされていったのです。

各国との戦争も続いたが、「宮廷と一体になった」貴族たちは、フランスの名誉のために「自らの意思で」戦い、勝利を続けていった。

勝てば相手国から「戦時賠償金」は取れるし、領土も増える。

国庫は潤い、国民たちの生活も安定し、そのプライドも十分満たされる。

国はまとまり、強固となる。

しかし。

天才ルイ14世の遺産を受け継いだルイ15世は、ごく普通の「秀才」に過ぎず、天才が築いた途方もない国力を秀才が受け継いでも、発展させることはおろか、維持してゆくのも難しい。

対外戦争に負ける事も出てくる。

負ければ戦時賠償金を取られ、領土も割譲させられ、国民のプライドは傷つく。

国庫は苦しくなり、取り返すために、すぐ次の戦争をやる羽目になる。

その戦費調達のために増税を行い、国民の生活は困難に陥ってゆく。

国としての、物理的精神的統一感が緩んでゆく。

負のスパイラル。

そしてルイ16世は、探せばどこにでもいる「平凡な」単純ないい人に過ぎなかった。

平凡な王は「平時」であれば問題ない。

しかし、経済が完全に逼迫した事によって、社会の制度全体が崩壊寸前となってしまった大国の君主には、強力な才能と強烈な個性とが求められる。

日本は「将軍」が愚かでも、諸大名は反発などしないし、ましてや庶民は「まつりごと」の埒外で存在していたので、260年の間続いた。

ところが。

日本と違ってフランスは、民衆自体がお上の一方的なやり口をどこまでも我慢して受け入れる民族ではないので、革命が起こり、結局ヴェルサイユの栄光は160年しか続かなかった。

しかし、対外的な影響力としては、政治と文化の面では20世紀初頭まで、ヨーロッパ全体に君臨したのです。

家康と、ルイ14世と、どちらのやりかたが良かったのか。

物事は、そんな単純なものではありませんが、少なくとも「国家の影響力」は全欧州的に260年続き、国民は革命を起こして自ら自由と平等ととを獲得して行く足がかりを得た。

やはり、神頼みでは何事も変わらない。

『神風』は吹かないのですね。

そして、恫喝では国民の心は得られないのです。

現時点での日本の実態は、17世紀から19世紀にかけてのフランスと日本との、悪い点だけを併せ持ってしまった。

無能な支配者と、物理的に抵抗しない国民。

其の結果が、今の日本なのではないでしょうか。

今年は、衆参同時選挙になるでしょう。

そして、このままでは自民党は、公明党と大阪維新との協力で、衆参両院で共に3分の2を確保するであろうことは、間違いない状況になっている。

そのあとは、当然憲法改悪が待っています。

『基本的人権が国民に有るのがおかしい』

そんなことを声高に発言する副幹事長が居る政党の政府です。

どうしますか…?

私は、個人的には、行くところまでいかないと日本の国民は「変われない」と思ってしまいます。

70年前焦土と化した国土を前に、涙し不戦と平和を誓った日本人。

あの様な状況に再び陥らなければ、国民も、報道も、官僚も、そして政治家も、変われないのではないでしょうか。

あの頃と違って、即座に日本が対外戦争に突入することは、ないかもしれません。

しかし、宗主国アメリカの経済的・人的負担を肩代わりするべく、自衛隊を中東に送るでしょう。

中東だけで済むとも思われない。

マイナンバー制度と、目下準備中の共謀罪、さらに秘密保護法で、日本はこれまでの日本とは違う気にになります。

原発も次々と再稼働させて行きます。

兵器を開発し、国際的に売り出して行きます。

ルイ14世は、大貴族たちをもてなすことで国家を統一し、対外的力の源泉としました。

フランスの文化は全欧州の規範となりました。

安倍晋三は、大企業をもてなすことで国家を危険な方向へと導き、対外的に危ない国として観察され始めています。

大貴族をもてなして築き上げた国力は、国民が一旦倒したフランスにいて、大企業をもてなして国民が立ち上がらない国を、憂いております。

今年、日本の辿る道は、どこに向かうのか。。。

起死回生の奇跡は起こるのか。。。

日本にもジャンヌ・ダルクが現れるのか。

森裕子さんでも良い。

太田和美さんでも良い。

他の誰かでも良い。

現れるのなら、現れて欲しい。

神頼みに走りしかないほど、祖国は傾いている。

新年早々、思いは現実の苦しさに苛まれております。

世界が壊れかかっている。

平和に暮らしていた土地に住めなくなり、平和な暮らしを営む権利を破壊され、着の身着のまま命からがら逃げ出して、とにかく生きてゆく希望を託せる新天地を求めて、中東や北アフリカ、ひいてはミャンマーなどから人々が続々と脱出している。

ここ数年、密航斡旋業者になけなしの資金を支払い、小さな老朽船に乗り切れないほど満載状態で地中海を渡ろうとしている。

イタリアやギリシャの沿岸警備隊を避けつつ、沈没しそうなギリギリの状態で、ヨーロッパでの新生活を求めて。

藁をもすがるような思いで。

そしてここ十日ほど、シリアを中心とした、ギリシャへたどり着いた難民たちがハンガリー、オーストリアと各国境で足止めを食い、困難を極めながらドイツを目指している。

ドイツは、欧州の中で最も経済的に安定した国というイメージと、移民にも寛容な国家だというイメージとに惹かれて。

何が起こっているのか。

状況は、ヴェトナム戦争末期と酷似している。

国家が崩壊し、それまでの身分が奪われ、土地や家が奪われ破壊され、あるいは体制の変化による迫害や弾圧、奴隷化などの現実を前に生きながらえる事を求めて脱出する。

自分が生まれ育った土地、国、民族を捨てて立ち去るという事は、大変なストレスと勇気と、止むに止まれぬ切迫感と、救い難い恐怖感とが綾なす異様な精神環境が作り出す。

皆が皆、必死である。

イラクの陥落とアルカイダの勃興以来、あるいはもっと遡って、トルコによるクルド人の迫害や、ユーゴスラヴィア分裂による、イスラム教徒コソボ人たちへの キススト教徒セルビア人によるジェノサイド、あるいはその逆のパターンなど、祖国を故郷を捨てて逃げ出す人々の数が膨れ上がってきた。

そして、ISの伸張とシリアやイラクの荒廃、アルカイダ系「ポコ・ハラム」によるナイジェリアとマリ北部の暴政、などなど人々から生活を奪う環境は枚挙にいとまがない有様となった。

シリアとイラク、およびヨルダンやソマリア、はたまたエジプトから逃げ出してきた人々は、ブローカーになけなしのお金を巻き上げられて小舟に満載状態でギリシア沿岸を目指す。

リビアやニジェール、マリ、ナイジェリアなどからの難民はイタリア沿岸目指して地獄の船出をする。

『ヨーロッパに行けさえすれば、住む家も仕事も見つかり、豊かな生活ができる』と、根拠のない夢を抱いて。

国際移民機構(IOM)の調査によると、今年に入っての1月から8月までの間におよそ35万人が、欧州沿岸にたどり着いた。

あたかも、オイルサーディンのようにすし詰め状態の老朽小型船に詰め込まれて。

悪徳業者の悪計に引っかかって、途中で船ごと沈められたり、船倉の中で酸欠になったり、鈴なりの甲板から海中に落下したりして、夢の途中で命を落とした人の数は膨大な数に及ぶだろう。

確認された(遺体が見つかった)死者は、2643人に上る。

そして、その何倍もの人が地中海の藻屑と消えたはずだ。

たどり着けた人々も、そこから先が大変。

ここ数年、イタリアは漂着難民を救助はするものの、そのままイタリア国内にとどまる事は許さず、入国許可だけ与えて、列車でフランスへと送り出し続けた。

EU域内のシェンゲン条約締結国は、一切の出入国管理がないので、パスポートを持っていようがいまいが越境できる以上、イタリアのヴィザを持っている限り仏伊国境駅での強制退去を求めるわけには行かず、両国政府間でかなりのトラブルとなっていた。

多くの難民たちは英語圏であるイギリスを目指して、英仏海峡を目指した。

英仏海峡の狭隘部カレーという港町には、ホームレスのように難民たちが公園や空き地を占拠し地元住民との間のトラブルは日常茶飯事となった。

陸送トラックに潜り込み、シャシーの下に潜んでイギリスを目指して国境警察に逮捕されてきた。

カレーの市民は炊き出しなどで応援していたが、きりがなくて下火となってゆく。

つい最近も、彼らは英仏海底トンネル(鉄道トンネル)を35キロ歩いて潜り、イギリス側の出口で「列車往来危険罪」で大量逮捕されたばかりである。

もっとも、この罪名による起訴に対しては英国司法は無罪判決を出したが、不法入国への法的対処はこれからである。

今年6月にEU委員会(内閣に相当)は、加盟各国に難民受け入れの数を設定して加盟各国に打診している。

全移民希望者数の22%をドイツが、18,88%をフランスが受け入れるべきというような数字であり、各国の利害が錯綜してまだ正式に決定していない。

フランスは受け入れに前向きな姿勢を示していたが、ドイツとイギリスとは難色を示し、その他の中小各国も甚だ消極的であった。

特にドイツは、その「寛容なイメージ」とは裏腹に、以外と冷たい反応であった。

これらの難民たちを収容する施設を、ドイツ各地で襲撃する出来事が相次いだ。

マップ

そして。

今回の、トルコ海岸に打ち寄せられた小児の写真が世界を駆け巡り、この大量難民問題が一挙に世界の注目を集めることとなった。

EUに加盟してEU政策の美味しいところだけを享受し、EU共通政策は採用しないことから批判を受けていたイギリスも、キャメロン首相が受け入れを表明。

ドイツも「必死で差し出されている手を、握ることを拒否することはできない」と、封鎖していた国境の解放を宣言。

8月30日から31日前の一晩で、国境の反対側ハンガリーとオーストリアから2200名の難民申請が寄せられ、9月4日で1万人がベルリンに到着した。

やっとの思いで、ミュンヘンに、ベルリンにたどり着いた難民たちは、一様に晴れやかな表情で喜びを隠そうとしない。

「国では悲惨だった。ここで自分と家族とにより良い生活をさせてやりたい。」

「大学に通いたい。学問を身につけて良い職に就きたい」

難民や移民たちは、常に同じ事を口にする。

だがしかし。

物事は、それほど簡単ではないのだ。

ドイツにたどり着いた人々は、これからも続々とドイツを目指すであろう人々は、ドイツ政府に『難民申請』を行わなければならない。

しかも、今回ドイツが受け入れた難民たちは、全員をドイツで受け入れるわけではないのだ。

ドイツ政府は、難民として認められると、ドイツ以外にもフランスやイギリス、スペインやイタリア、その他EU各国にそれぞれ受け入れを割り当てる、と言っている。

各国での調整がなされていないにもかかわらず。

そのほか、イギリスを目指す人々、フランスを安住の地にしたい人々、スエーデンを目指す人々が、続々と続いている。

そして。

受け入れ国が決まったとしても、そこから「夢見ていた」幸せな暮らしが待っているわけでもない。

住宅は割り当てられるだろう。

そう信じたい。

当座の生活費も支給されるかもしれない。

しかし、それが永久に続くわけではないからだ。

言ってみれば、311以後の避難住宅で暮らす人々の事を考えてみれば、少しは理解できるかもしれない。

入居期間が、多かれ少なかれ決められている。

保障は一定期間が過ぎると打ち切る、と東電はほざいている。

職はなく、近くに友人もおらず、ただ与えられた援助が続く事を祈るばかり…。

ヨーロッパは、移民問題が最大の社会問題と言っても過言ではない。

20世紀前半までに西欧各国が所有していた植民地が、先の大戦ノアと次々と独立した。

独立は果たしたものの、経済基盤は脆弱で皆が食っていく事は不可能であった。

必然的に、旧宗主国に移民として移り住んで行った。

イギリスにはインドやパキスタン、東ャフリカ諸国、ドイツにはトルコ、フランスには北アフリカのマグレブ諸国と西アフリカ各国から。

大戦後の経済復興期に、彼ら移民たちが大いに重宝されて、いわゆる3K職業に携わった。

そして、右肩上がりの経済成長は歴史となってしまって以後、その移民たちの2世3世が社会のバッシングの対象となってしまう。

彼らはそれぞれの移民国の国籍を持ち、1世の代からそこの国民と同じ様に税金を払い、社会保障の負担金を払ってきたにもかかわらず、一度不況の世の到来 で、子沢山の移民たちが児童手当で豊かに暮らしているとか、社会保障の恩恵を享受して、その負担だけを元来の国民が負わされているとか。

社会的な「新たな階級闘争」を生んできた。

極右政党は「移民排斥」を唱えてかなりの指示を集め、一般政党と同等の扱いを受ける様にすらなってきた。

そんな中で、移民とその次世代の置かれた立場は、非常にき弱なものである。

不況と共に、彼らの失業率が倍増し、もともと生活基盤が弱い彼らには、子弟に高等教育を授けることを可能とせず、それがさらに失業率を押し上げる。

当然やることもない若者たちは、群れて悪さを行い、彼らが多く住む一帯はスラム化して、さらに嫌われる様になってゆく。

その移民たちも、多くはアフリカ人やアラブ人、あるいはアジア人であり、もともと人種的に差別を受けやすかったところへ、彼らへの偏見が市民の対立軸にまで発展し、宗教的対立軸にすら及んでしまった。

シリアやイラク、ヨルダンやエジプト、スーダンやソマリア、アルジェリアやモロッコ、コート・ジヴォワールやチャド、トルコやアルメニア、インドやアフガニスタン…。

ヨーロッパ社会で、これらの国籍を持っていた人々は、ありていに言えば二級市民扱いであり、教育機会も就職機会も最初からハンデを負い、生活水準が高いと は決して言えない環境にあって、それでも移民先の国に溶け込んで、そこの国民と一体化できる様に苦労を続けて生きている。

そんな背景にあって、ジャスミン革命以降のそれまでの社会の枠組みが壊され、非情な力が一般市民たちを弾圧する様な中で、新たなボートピープルが押し寄せてきた。

「豊かな生活」

「高い教育」

「自由な環境」

いずれも、相当なチャンスに恵まれないと、本人たちの才能と意欲だけでは、得ることが難しいのではないかと思われる。

パリの教会で、神父たちが「移民を受け入れ、助け合って生きていこう」と土日のミサで呼びかけた。

カトリックではは神父の言葉はイエスの言葉。

ミサの際の神父の説話のあとでは、信者たちの多くは十字を切る。

ところが、今回の「移民を受け入れよう」という説話のあとは、十字を切った信者は非常に少なかった、と聞いた。

やはり、社会は移民を嫌っている。

社会の混乱の、環境の悪化の、原因が移民だと思っている市民は多い。

そして。

今、あの悲惨な子供の死が原因で、社会の反応は一気に前向きになっている。

しかし、これはあくまで一過性のことであると思う。

もともと、なぜこの様な事態が出来したかといえば、民族間の対立の激化、宗教間の対立の激化から、生活環境が破壊せれているからであるが、さかのぼって考えれば、戦争立国アメリカが原因を作り出してきたことは、否定できない。

難民になった人々は、そのアメリカの世界戦力の犠牲である以上、嫌っている、むしろ憎悪しているアメリカに移民しようとは思わないだろう。

アメリカ側が、本当に好条件で積極的に受け入れる機会を、真摯に提供しない限りは。

EUには、今後もとどまることを知らないであろう難民の群れを受け入れる余地は、殆どない。

当初は人道的立場で受け入れるだろうが、あのドイツですら今回の国境開放は、今回だけの人道的措置である、と宣言している。

世界の環境、国家の概念と国境とが急速に壊れ、変化している今、誰が何を出来るのか。

そう考えるとき、日本の現状と将来とを考えざるを得ないのだ。

日本は少子高齢化の傾向は、変えられない流れである。

地方は過疎化に悩み、廃村が多く見られ、税収には限りがあって社会保障の基金は減ることは確かで、増えることは考えられない。

国家としての活力は、どんどん衰退してゆくことは確実である。

若い世代の数が減り、特定のきつい仕事につく人がどんどん減っている。

結果として官僚が考えることは、全く実効性がない、大企業にとってのみ有益な経費が少なくて済む安易な方法を探してしまう。

実際に看護師や、介護士など負担は大きくその割に見返りの少ない業種は、アジアから受け入れる試みを続けている。

直近の問題として、多くが歓迎していない2020年の東京五輪の、くだんの新国立競技場建設の作業員も、アジアから供給しようという声すら聞いた。

なんで、そんんなバカなことしか考え付かないのか。

土地や家を失って、生活の基盤を失って、祖国を失って逃げ出している、多くの人たちがいるではないか。

日本人は白人以外の外国人には差別的である。

というのは、一部の都会のバカどもの間だけ。

だって、田舎のお爺ちゃんお婆ちゃんたちは、官僚と違ってみんな優しいではないか。

廃村目前の村々。

廃屋の数々。

学校も廃校。

つまり、施設は沢山ある。

後継者のいない地方産業。

後継のない農家や工場。

消えかかっている伝統技術。

つまり、口を養える場もある。

そして他方、「生き延びて幸せをつかみたい人たち」が居るのだ。

その両者を活用できれば、両者にとってこんなに良いことはないのではないか?

農業や林業、水産業などの第一次産業と、小さな町工場でのきつい職業であることを、あらかじめはっきり説明する。

そして、官民一体となって彼らを受け入れる姿勢を見せれば。

日本人となって、日本社会に同化する努力を死てくれることを条件に。

学校だって彼ら専門の学校を開校し、両民族の文化を尊重しながら日本語を教え、日本の伝統を教え、馴染んでもらえるように努力すれば、彼らとて絶対にその努力に報いてくれるに違いない。

なにしろ、祖国を脱出してくる難民たちは、農民が多い。小商人や手工業者が多い。

まさしく、互いが望むものを与えあって、得られるものが多いはずではないか。

かって日本は「台湾」を日本化した経験がある。

南太平洋の島々を日本化した経験がある。

朝鮮半島の場合は、不幸な結果となってしまったが、日本語を教え、日本文化を教えることは、できるはずだ。

ましてや多民族の併合や植民地化ではない。

生きてゆく環境を、幸せな生活環境を求める人たちに、その可能性を提供しようというのだから、上手く行かない筈はないのではなかろうか。

日本は、難民や移民希望者にとても冷たい国である。

昨年日本政府に難民申請した1500人ほどの中で、認められたのは僅か2名のみ出会ったとか。

いくら自動車や新幹線を輸出しようと、コミックや漫画、アニメなどのサブカルチャーが人気を得ようと、和食がブームになろうと、日本は世界的に見て非常に閉鎖的な国家出ることは、異論がない。

しかしこれからの時代に、それで良いのだろうか。

国連で、いかに「常任理事国」になりたいと運動しても、賛同してくれる国には限りがある。

ODAやインフラ整備のバーターなど、札束で横っ面を引っ叩く下品な手段を講じなくとも、世界から尊敬してもらえる手段が、今まさにそこにある。

東南アジアなどの人々を、上から目線である種の差別的立場で受け入れる、などとふざけた事を考えずに、命からがら逃げ出してきた人々を、助けてあげて、こ れから先の矛盾だらけの日本を再生する有効な手段として、感謝せれて感謝する関係を構築する事こそが、放射能にまみれ、独裁政治に翻弄される、戦争したが る日本を正しい道筋に方向転換するチャンスである。

グローバリゼーションとは、金融の世界支配に屈する事では無い筈だ。

ただ、今脱出してくる難民の人たちは、膨大な船代を払えた人たち。

いわば、そこそこのお金持ちや中産階級が大部分を占めている筈だ。

そういう人たちに、ヨーロッパでのハンディだらけの立場が耐えられるのか、という現実がある。

あくまで、住む国と当座の最低限の生活の補助を与えましょう、というだけの状況で、夢破れて絶望する人たちも多く出てくるだろう。

そうなれば、そのうちの幾らかは国に帰るかもしれない。

ISのメンバーとなって。。。。

そして、同じ悲劇の連鎖と成るかもしれない。

日本の果たせる役割は、あるはずだ。

よく考えよう。

我らが総理安倍晋三は、アメリカに忠義立てをして『AIIB』に参加を見送った。

巷では、自主性のなさとアメリカ追随の奴隷根性ぶりに、喧々諤々、非難轟々、罵詈讒謗、といった意見が飛び交ってケチョンケチョンである。

安倍晋三の存在にとっては、分相応の反応だろう。

それとは別の意味で、政府周辺と自民公明両与党以外で、日本全体の論調が「AIIBに参加するのが当然」という声一色なのが、やや気になるところではある。

なぜ、参加しろ、なのか?

具体的には、よくわからない。

かなり以前、カメルーン紹介記事で書いたと思うが、第三世界への中国の進出ぶりは、恐怖を覚えるほどである。

サバンナとジャングルとが交錯する西アフリカ大陸を走っていると、枯れた綿花畑があちこちで目に付いた。

せっかく綿の実が付いているのに摘み取るでもなく、枯れるに任せていた。

現地の同行者に聞いてみると「繊維産業が壊滅して、綿を生産しても二束三文でしか売れないのだ」と。

「中国産の安価な繊維製品が洪水のごとくに入り込んできて、地元の繊維工業が存続できなくなったのだ」と。

「原料としてのコットンを輸出できるほどの生産量も、販売体制も無いからだ」と。

たしかにアフリカにも多いイスラム教徒が頭に巻く「シッシュ(ターバン)」も、市場で売っているものは全部中国製であった。

しかるに、道路事業や架橋工事などを国営中国企業が落札し、作業員もすべて中国からやってきて(かなりの数の囚人が連れてこられているらしい)、現場の作 用員はほとんど中国人が占めて、その彼らが家族を呼び寄せて町の人口のかなりの部分を中国人が占めるようになり、その彼らが中国本土から工作機械を持ち込 んで、軽工業の事業を始めて、現地の工業のある部分を駆逐してしまった。

アルジェリアでは、高速道路工事の従事者が呼び寄せた家族が一大集落を形成し、製靴業を始めて、アルジェリアの靴工業が壊滅してしまった。

荒涼たるサバンナのここそこに突然中国語の看板が出現し、地下資源を掘り始めている。

彼ら中国人は、インフラ整備の支援資金の提供を持ちかけて国同士の契約を締結し、費用を安く設定して工事入札も獲得し、道路を作り橋をかけ、その資金援助の見返りとして「地下資源」の採掘権を手にしている。

イスラム諸国やアフリカ各国を訪問すると、市場を訪問することが観光の重要な要素になっている。

木の枝を4本立てて、キャンバスや布切れで囲って壁とし、屋根を掛けて作られている店舗が千軒も、それ以上も密集して、見たこともない不思議な食材を売っていたりして、エキゾチックでとても楽しい。

しかし、場所によっては市場見学を止められることが増えてきている。

「危ないから行くな。何をされるかわからないから。」

なぜかを聞いてみると「中国人と思われる」ということらしい。

左様さほどに、かの地で中国人は恨まれ、嫌われていることを実感できる。

カメルーンやベナンなど、アフリカ各国では出生率が高く、子供達が溢れかえっている。

小学校が足りなくて、午前と午後と二部制にしている。

カメルーンには、日本のODAで数百校の小学校が建てられたことで、日本人は感謝されており、彼らは日本人にはとても親近感を持っていた。

それなのに。

今や、東アジア人をみると「中国人」と思われてしまい、下手をすると石を投げられるかもしれないほどに、排斥されている様なのだ。

私は中南米のことは知らないが、状況は似た様なものだと思う。

鉱石採掘に現地人をタダ同然でこき使い、よく暴動が起こったり、国から経営権の取り消しを受けたり、というニュースを見かけた。

つまり、昨今の中国政府は、資源の確保、輸出先の確保のために大盤振る舞いで国家援助を行って、それを利用して国際舞台での「親中国派国家」の囲い込みを行って、国際社会での発言権を高める方針の遂行に余念がない。

結局、援助資金は多くの国では為政者たちの利益に消えて、一般国民の生活の向上に回されることは少なく、結果として国家間での中国の地位は高まるものの、国民レベルでの中国人の評判は地に落ちてしまっているのが現状である。

かくして、中国政府の第三世界への浸透がますます盛んになる過程で、近場である「アジア」への投資が後回しになっていたのかもしれない。

なにしろ公称13億人(無戸籍第二子以降何人いることか)の生み出す国の富は膨大である。

GDP世界第二の大国にのし上がった。

とはいえ、国内の格差は膨大で、そのために国民の不満は高まる一方という、以前から言われ続けてきた内政問題から目を背けるわけも行かず、いかな「新興の大金持ち」とはいえ、ばらまけるお金に限りがないとも思えない。

そこで。

これから金の卵を生んでくれる(かもしれない)第三世界への投資を優先させるためにも、近場であるアジアでの投資には「他人の褌」で相撲を取ろうと考えても、おかしくはあるまい。

なにしろ、中国の周辺であるアジア各国では、中国が諸手を挙げて歓迎できる国、とも言えない存在であることは、彼ら自身も判っている筈である。

事あれば、強引な「砲艦外交」で圧迫してしまうことは常套手段であるにしても、できれば「感謝され」ながら経済的に支配の手を突っ込んでいきたいのも、人情であるはずだ。

そのためには、中国単独でのイメージを薄め、中国単独で負担する荷重を減らせるならば、それこそ一石二鳥ではないだろうか。

ということで。

世界中から金を出させて、たくさんの他人の褌を集めておいて、アジア各地に「マーキング」できる「中国製開発投資銀行」は、実に都合のいい道具なのかもしれないと勘ぐってしまうのだ。

彼らがいかに否定しようと、中国は「覇権主義」の国である。

中国人の価値観を見ていると、国が『大国』『強国』であることが中国人本来の立場で、自分たちの存在を測る目盛りは、面積と人数だけだった昔の時代の屈辱感から、経済力、軍事力、技術力、などでの世界における優位性を実感する事を必要とする民族の様だから。

そして、中国が最強民族であることの証としての、中華人民共和国の世界有数のリーダーシップを発揮する上での、一番の邪魔者がアメリカ合衆国であったのだ。

そのアメリカの存在が、以前ほど盤石ではなくなりつつある現在の世界情勢は、近い将来アメリカに取って代わる国力と地位とを獲得するために手を打つ、今や絶好の環境にあるわけだ。

今すぐアメリカに取って代わることはできなくても、少なくてもアメリカとロシアと中国と、同等の立場での三極を形成することは、最優先事項なのだ。

その為なら出来るこ事すべてやって、誰が何を言おうと、気にもしない。

と、いうわけで、中国主導の開発投資銀行を立ち上げる。

蓋を開けたら、北米と北アフリカのアラブ諸国を除くアフリカ各国、以外のほとんどの国が参加を表明した。

中華人民共和国は得意満面。

第一義的には、世界中からかき集めた金で、アジア各地に開発投資を行い、その運営と実行を中国主導で行える。

そして二義的に、中国が世界に一つの潮流を起こす主導権を手にした。

中国の世界戦略の大成功になりそうな。

ところで。

安倍晋三の忠犬ハチ公ぶりの怪我の功名で、日本が参加しなかったことが、別になにか不利になるのかと考えれば、別に大したことではないんじゃないかという気がしてならないのだが。

経済素人の私の「庶民の触覚」に感じ取れる範囲で言えば、そこで何が行われるのかは、我々日本国民には敢えてどうでもいい。

日本銀行やら日本開発銀行やらが、数百億ドル(具体的には知らないが)もの外貨を出資するくらいなら、その分、年金を削ることを止め、高齢者や児童の福祉を削ることをやめてくれ、と言いたいのです。

一部の大企業(どうせゼネコンやら機械メーカーだったり電力事業者など、国内GDPに占める割合が少ない)の儲けのために、血税を使うな(!)ということなのですよ、私が言いたい事は。

しかし冷静に考えてみると、アメリカの参加がないことを確認して参加を見送った日本政府、なかんずく安倍晋三の評価がこれで米国内で高まったかといえば、そんなことはなさそうだ。

米紙によると「日本の不参加は米国への忠誠を示し、尖閣問題に米国を味方につける為」と、とっくに見抜かれております。

バカにされることはあれど、尊敬されることも信頼を勝ち取ることも無かったと、断言しても良いくらいのものだ。

それにひきかえ、韓国のコウモリ外交は、逆にアメリカに(良かれ悪しかれ)一目置かせることに成功したと言って良いのではなかろうか。

つまり、韓国は最終的な局面では「自分たちの利益」を優先すると、アメリカに盲目的に従順な奴隷ではないと、再認識させたことは否めないのだ。

アメリカが怒り狂おうと、失望しようと、米国と「対等」に扱わなければならない存在だ、と認識させたのではなかろうか。

そうだとすれば、中国とアメリカとの狭間でフラフラしている韓国、などと馬鹿にすることは、逆に日本の政府の奴隷根性を際立たせただけで、なんの得にもならない。

NHK(敢えて犬HK)の首都スペシャル「戦後70年の証人の声」を伝える番組があった。

実際に終戦を経験している日本の各界の人々に、戦争体験と終戦に当たって感じた事を、語り継いで行こうという構成は、「今この政治情勢の中で」しかも犬と罵倒される「みなさまの」国営放送が、あの様な番組を作って放送したことに、局内の何らかの意識を感じるに至った。

好意的に受け止めることができる番組であったが、特筆すべきは、その登場した生き証人の誰しもが、アメリカへの恨みつらみを語らない、ということだ。

東京大空襲で地獄を体験し、無数の怪我人を救えなかった無念を語る老医師も、一般市民を殺戮した大空襲自体に、批判的言辞は一言も口にしなかった。

日本で「少女漫画」の草分けと言われる女性漫画家も、「戦時中に色彩を奪われた」「終戦で一気に色彩が戻った」と語り、「色彩(精神的な意味だと受け止めたが)を奪われた時代を再び繰り返さないために、カラフルな漫画を描くことに集中した」と語った。

つまり、戦争を体験した日本人の誰もが「戦争中」のあまりの不条理にうんざりしてしまったが故に、あまりに悲惨な体験を強いられたが故に、終戦を歓迎し、 平和の復活を喜び、その後やや落ち着いてから「戦争を引き起こした」反省かから、再び悲劇を繰り返さないように、と自らの生きる姿勢を規定したのだ。

ヒロシマの原爆忌で「安らかに眠ってください、過ちは二度と繰り返しません」と追悼する。

他の国なら「反原爆、反人道的アメリカ」の大合唱になるべきところ。

「過ちは繰り返させません」というところ。

日本人は、戦争を強いた軍部、つまり日本人自身を、反省の軸に据えるのだ。

そこには、戦争という悲惨な体験を国民に強制した「戦争指導者」への弾劾や、ましては多くの無辜の国民を虐殺した原子爆弾の投下や東京・大阪・神戸・横浜川崎・名古屋・福岡・仙台等への大空襲を行ったアメリカという国家への批判は、全くない。

それどころか、大半の日本人はアメリカが大好きなのだ。

あまりにも悲惨な時代が過ぎ、呆然として虚脱状態の中にあって、「鬼畜」と教わっていた米兵と接し恐怖を覚えながらも、チョコレートを手渡されたことの嬉しさが、飢えていた甘いものを与えられて平和を実感し、急速に敵対心や恨みごころが消滅してしまったのだろうか。

その後のGHQによる戦後政策の中で、日本の戦後教育の基本構造が形成されていった過程で、親米感情が植えつけられていったと言うところなのだろうか。

しかし。

人類史上、敗者が「占領軍」にニコニコして協力したという事実は、おそらく第二次世界大戦後の日本だけなのではあるまいか。

戦前の家父長制度のごとくに、アメリカを親とも師とも仰ぐ官僚たちが、アメリカの後ろ盾の元に存在と権限とを強化して、今日までの「官僚支配の集団独裁体制」を築きあげていった。

政治家は、官僚にアイデアを頼り、国家運営のグランドラインを作らせ、官僚のブリーフィングで政策を決定し、官僚の作文で与野党の国会質疑がなされて法律 が出来上がり、官僚のどんぶり勘定の査定で予算案が作られ、官僚のブリーフィングでそれを国会審議にかけ、官僚が配分した予算を官僚が使って、官僚の基盤 である省庁の利益を拡充し、官僚が天下る公益法人、特殊法人で予算を中抜きし、残った予算をどんぶり勘定で大企業に振り、下請け、孫受け、ひ孫受けで予算 を食い散らかして、我が国は今日まで歩んできた。

そんな中で、米国とのパイプ(米国からの上位下達用)で米国の「対AIIB姿勢」を忖度して、不参加を決めた日本政府に批判される筋合い等、無いであろう。

地球儀外交やら、中国封じ込めダイヤモンドラインやら、白昼夢に酔いながら好き勝手をやっている安倍晋三内閣総理大臣は、しかしDNAでは反米なのだ。

お祖父様の、死刑を免れるために米国のスパイにならざるを得なかった屈辱を、僕が晴らします…。

そんな彼の本質を見抜いている米国政府にとって、小賢しい忠犬ぶりなど、嬉しくも可笑しくもない事を、果たしてわかっているのかいないのか。

ただ、そのような我々庶民にはどうでも良い事は別として、今回「アジア開発投資銀行」に参加しなかったこと自体、私は別にそれでも良いのではないかと、思ってしまうのですよ。

せっかく中国主導の国際的枠組みに「参加できる」チャンスを棒に振って、と習近平は嗤っているに違いない。

しかし、参加したからと言って「限度額なしのATM」の使用者が、アメリカから中国に変わるだけのことなのではないか。

所詮、日本が中国主導の国際組織の中で、リーダーシップを発揮して何かができる訳も無い。

それならば。

しばらくは、静観しててもよかろう。

いざとなったら、『アジア開発銀銀行』という、強い味方があるではないか(苦笑)